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落語徒然草 その1 無観客

 私は落語好きなおじさん。つれづれなるままに、パソコンに向かいて、心にうつりゆく落語に関するよしなしごとを、そこはかとなく書きつけてみる。怪しい独断と偏見、どうかご容赦を。

 新型コロナウイルス禍で寄席が休席となり、落語会も相次いで中止となっている。そこで、落語を披露する場所を奪われた落語家の皆さんは、ネットを利用した落語の配信に熱心に取り組まれている。
 過去に収録された落語の動画をYoutubeで観ることは、そんなに珍しいことではない。しかし、昨今の落語家の皆さんが取り組んでいるのは、ライブ配信という形式で、リアルタイムの口演を同時刻に観ることできるという、いわゆるネットによる生放送だ。そして、感染症対策として三密を避けるために、当然に、無観客の状態で撮影が行われる。
 落語をはじめ寄席演芸は、観客の前で披露することを大前提とした芸能だ。従来から、テレビやラジオでの落語番組は、寄席やホールからの中継や公開録画など、観客の前で披露された落語を放送してきた。スタジオ収録の演芸番組でも観客はいた。なので、寄席番組が華やかなりし頃から最近まで、映像を通して落語を聴くときに、無観客の落語を聴くことはあまりなかった。
 それが、昨今行われているライブ配信では、無観客でしか行えない状況にある。いや違う、目的は逆である。無観客の状況で何とか落語が披露できないか、この目的のために、仕方なく選ばれた手段がライブ配信なのだ。
 収録会場にいるのは、せいぜい配信のスタッフのみ。そんな無観客の状況は、演者にとっても観客にとっても違和感のあるものだ。最近のライブ配信を観ている落語ファンとして、その無観客による違和感やモヤモヤをここに書くことで、少しは自分の気晴らしになるのではと思い、駄文を書き連ねることにする。

 観客がいることで成立するのが寄席演芸の世界。ライブ配信でも、観客はカメラの向こう側に存在している。この記事で「無観客」と呼んでいるのは、収録会場に観客がいない状況を指していることをあらかじめ記しておく。
 まずは、観客側の違和感について。観客がいる中で落語を聴くときと比べて、無観客の落語を画像で聴くときに最も大きく違っている点は、観客の笑い声がまったく聞こえないということだ。これは言うまでもない、当たり前のこと。笑い声以外にも、拍手、掛け声、ざわめき、咳、クシャミ、携帯の着信音、その他客席の雑音が一切ない。客席の空気感がまったく伝わってこない。観客はみなカメラの向こうに居るので、双方向でない限り、伝わらなくて当然。そう、観客がいる中で聴く落語と違う違和感は、まさにここからきているのだ。
 会場の笑い声は、高座と観客を結び付けて客席の一体感を生む。高座と同時刻に同じ場所にいるという同時性や一体感を感じること、これがまさに生で聴く落語の醍醐味と言っても過言ではない。ライブの落語の魅力にはまってしまった身としては、他の観客の存在を感じられない配信落語では、この醍醐味を味わえず、なんとも淋しいものなのだ。

 そして、笑い声が聞こえないことで強く感じるのが、笑い声による効果だ。それは、笑い声が笑いを呼ぶという効果だ。客席にいると周囲の笑い声につられて笑ってしまうという経験はよくある。周囲の爆笑で、可笑しさが倍増することもある。まさに、笑い声スパイラルだ。ところが、無観客だと他人の笑い声を聞くことがないので、自分の感性でのみの反応になる。周囲の雰囲気につられることもないので、結構、冷静になったりする。笑い声や盛り上がっている客席の雰囲気を感じることができないことによるマイナスの効果があるのだ。

 次に演者側から見た違和感の話。観客としては、そんな違和感やマイナス効果はあるものの、生で聴くのもネットの画面を通して聴くのも、落語を聴くということに変わりはない。私も観客としての違和感は感じながらも、ネット配信の落語を楽しんでいる。
 無観客の状況で、カメラに向かってする口演は、演者にとっては今まではあまり無い経験だ。名人と言われる落語家が、音源を残す目的で無観客のスタジオ収録はあるだろう。私は聴いたことがないが、名人三遊亭圓生師が残した「圓生百席」という音源は、観客を入れないスタジオ録音だそうだ。あえて無観客で録音しているのは、無観客の功罪を承知のうえで、完璧な形での録音を目指した圓生師の芸に対するこだわりなのか。あえて観客を排して口演するという考え方もあるのだ。
 しかし、観客の前で披露し笑わせることが前提の話芸、無観客状態での口演は変則の形態であることには違いない。想像でしかないが、演者側も当然、戸惑いながらの口演のはずだ。むしろ、観客の違和感より演者の違和感の方が大きいのではないかと思う。

 演者からすると、口演していて、観客の反応がまったく無いのだ。観客は喜んでいるのか、楽しんでいるのか、受けているのか、反応がないので全く分からず、手応えもない。戸惑いがあって当然。
 落語という芸は、観客の反応が演者に与える影響が大きい芸能だと思う。ネット配信を観ていると、今まで経験したことのない無観客での収録に、戸惑いを隠せない演者を見かける。観客の笑い声や客席の空気という反応が、演者に与える影響は大きいことを改めて感じさせる。
 この無観客による効果は、落語家の芸風のタイプによっても違ってくるかもしれない。観客の反応に引きずられないで落語をやるタイプは、無観客による影響は少ないかもしれない。でも、観客の反応を見ながら演るタイプには難しい状況かもしれない。爆笑系のタイプだったら、観客の笑い待ちのタイミングでリズムを作っているかもしれず、無観客ではその観客の反応が分からないので、リズムが狂うかもしれない。
 古今亭菊之丞師匠の「でじたる独演会」のゲストで登場した古今亭文菊師匠は、得意の「あくび指南」を口演した。表情だけで表現し、無声の長い間合いが頻繁に見られる演目だ。この無声状態のときに、客席の反応が全くないので、かなり戸惑ったとコメントされていた。
 笑い声が起きなくても、観客が自分の噺にのめり込んでいるのか、そっぽを向かれているのか、高座から客席を見るとそれが分かるということも聞く。この観客の反応が演者に勢いを付けたり、噺に捻りを効かせるなどの工夫を呼ぶ。それが、無観客では、カメラの向こうにいる観客の反応が全く伝わらないので、これらの効果も生まれないのだ。
 春風亭一之輔師匠はライブ配信の中で仰っていた。無観客なので、何を言っても馬鹿受けです、と。一之輔師匠の脳内の観客は毎回爆笑しているのだろう。これは、一之輔師匠らしい皮肉だ。

 現在の無観客での口演は、演者の選択によるものではなく、そうせざるを得ないという制約によるもの。この制約が感染症対策からきたものであり、そんな辛い状況にあることが、無観客のライブ配信を聴いていると痛感させられるのだ。考えてみると、私が感じる違和感を生み出した大きな原因は、このコロナ禍によって受けた演芸界のダメージにあるのだ。
 デメリットも承知の上で、様々な制約のあるなか、様々な工夫をこらして落語の動画配信に取り組んでいる落語家さんは多い。若手のみならずベテランの師匠方も新たな試みに挑戦されている。当然、無観客のリスクも覚悟のうえだろう。それでも、少しでも落語を届けたいという思いと、生計の途を探り、これからのネット社会における演芸の在り方を模索されているのだと思う。
 演者の皆さんはそんな戸惑いや不安も抱えながら、コロナ禍によって寄席に行けない演芸ファンに少しでも演芸を届けたい、また、辛い自粛生活の世の中に演芸によって少しでも明るさを届けたい、そんな強い思いがあるのではないかと感じている。この演者の思いは、無観客というハンデを承知のうえで、ネットを利用した配信を続ける大きなモチベーションになっているはずだ。演芸ファンとしては、それが感じられて、ますます演者を応援したくなってくる。

 現在も、スポーツの世界でも無観客試合が行われているという非日常にある。いつまでこの非日常が続くのか、まだ先が見えない状況だ。観客の面前で芸を披露してきた古典芸能や演芸の世界にも、コロナ禍という黒船によって、図らずも変革の波が押し寄せてきているのは間違いない。
 新しい生活様式が提案され、我々の日常の行動様式も変わってきている。落語の世界でも色々と模索されているが、落語の世界の新しい生活様式は、まだまだ見えてこない。

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