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落語徒然草 その2 配信と観客の集中力

 コロナ禍による自粛が始まって3月以来、生の落語を聴きに行けていない。もっぱら、ライブ配信による落語を聴いている。そこで、前回に引き続き、ネットによるライブ配信の落語について、感じていることを書いてみたい。

 まず、寄席やホールの客席にいて生で落語を聴く場合と、ネットによる配信を自宅などで聴く場合では、大きな違いがある。それは、観客の落語に向かう集中力である。
 自宅では、自由に動けるし、他人の目を気にせず自由に気楽に過ごしているなかで配信を観る。トイレや飲み食いも自由、一緒に観ている家族同士のオシャベリも、服装や格好も自由。なんなら、寝ながらでも配信を観ていられるのだ。おまけに、視聴中にも周囲からの邪魔が入りやすい。
 しかし、客席やホールにいる場合は、自宅とはまったく違う。公衆の中にいるのだ。当然、観客としてのマナーを守らねばならない状況にある。周囲の観客の迷惑になるような行為は慎まなければならないし、毎度アナウンスも受けて、携帯の電源切ったかなあ、トイレはまだ大丈夫かなあ、そんな若干の緊張感もある。木戸銭も払っているし、今日は落語の世界にどっぷりと浸ってやる、そんな気分で来ている。
 寄席やホールの客席は少し暗めで、観客は明るい高座に集中して聴く体勢になっている。周囲の観客も高座に集中していて、そんな空気が充満している中で聴いている。

 このように、自宅でライブ配信を観ている場合と客席やホールにいる場合とでは、観客の高座に対する集中力がまるっきり違うのだ。これは、演者側から見ると、観客が自分の高座に集中してもらえる環境として、明らかに寄席やホールの方が有利なのだ。客席という場所で、演芸を観ることを強制された環境にあるので、高座に集中するしかない。集中できないときは、いつの間にか意識を失って、夢の中で高座を観ることになるだけだ。客席での自由、これはこれで、寄席の良さでもある。
 ところが、配信を自宅で観ている場合は、落語がつまらなくなったら、夢の中の他にも、逃げ場所がいくらでもある。観客は簡単に、配信から他に関心を移すことができるのだ。この辺りは、道端で行う大道芸の環境と似ているかもしれない。これは演者としては恐い環境だ。

 これらを考えると、観客の集中力を途切れさせないようにして落語の世界に引き込んでいく環境としては、ネット配信は寄席やホールで生の落語を披露するより厳しい環境にあると感じている。ネット配信という新たな手段には、手軽に発信できるという利点以上に、観客の集中力を途切れさせず、高座に引きつけるための技量が問われる、そんな高いハードルが横たわっているのだ。

 演者の技量と言ってしまえばそれまでだが、配信画像に観客を引き込み、観客の集中力を途切れさせないようにすることは、ネット配信時代を迎えた今、演者へ突き付けられた新たな課題だと思う。落語家の皆さん、頑張って!

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