軌道の神様
90分ぶりの日の出を迎えました。
ワタルさんは宇宙飛行士です。一度は退役になったスペースシャトル。しかしデザインもまったく新しく新造され、またこうして打ち上げられました。そのシャトルに乗り込み、科学実験を行うのが仕事です。
天井の窓からは大きな青い地球が見えます。地球観測をしやすくするためにシャトルは背面飛行、つまり宙返りで飛んでいます。重力をほとんど感じないワタルさんにとってはただただ青い地球が頭の上で輝いているだけでした。
もうすぐシャトルはニッポンの中央アルプスの上空にさしかかるはずです。ワタルさんの腕時計には二つの文字盤がついていて、その日本時間は朝を迎えたことを示していました。
ワタルさんはこれからロボットアームを操作するところです。ロボットアームの先端には数時間前シャトルの貨物室から取り出したとても大きな実験装置がついています。
操作卓にマジックテープで貼り付けられているワタルさんの書類ばさみ。そこにはこれからの作業内容が書かれた紙と“鳩さん”のお守りが結び付けられ無重力の中でゆらゆら揺れていました。“鳩さん”とはワタルさんが毎年初詣にいくところです。もちろん正しい名前があるのですが地域の人たちは親しみを込めて“鳩さん”と呼んでいます。境内には沢山の鳩が飛び、額の題字には鳩のマークがついています。「鳩さんと一緒におまいりを」という合言葉も有名です。
ワタルさんは数日前、発射基地に見送りに来た奥さんの事を思い出しました。
「ありがとう。お守り、うけとったよ。初詣に行ってくれたんだね。」
「どういたしまして。あなた、今回、お正月に帰国できなかったから代わりにお守りも頂いてきたわ。でもお礼は…。」
「『鳩さんに』だろう。」
「そうよ。お守りは頂く時よりお返しする時が大切って言うじゃない。日本の上を飛ぶときもあるでしょう。その時に“鳩さん”に『ありがとうございました』って言っておいてね。」
「わかった。言っておくよ。でも、これ、いつもの“大願成就”のお守りじゃないね。」
「・・・ちゃんと、やりとげてね。・・・だから今年のあなたのお守りはそれにしたわ。」
「僕が乗るのは宇宙船だよ。」
「同じようなものよ。」
「ははは・・・」
「ワタルいよいよだ。」シャトルの船長に声をかけられました。
日本時間六時ちょうど。シャトルは日本上空にさしかかり、ロボットアームの作業予定時刻です。
ワタルさんは操作レバーを握りなおしました。もし頭上の天井の窓を見上げればそこに日本が見えるはずです。
「ありがとうございました。無事打ち上げも成功して僕は宇宙にいます。」
ワタルさんが日本語で小さくつぶやきました。
その時です。お守りの紐がするっとほどけて、無重力の中なのに天井の窓の地球に向けて“落ちて”いってしまいました。
「あっ」ワタルさんは思わずそれを拾おうと手を伸ばしましました。
シャトルが少しゆれました。ワタルさんの手のレバーのゆれと共にロボットアームが大きくゆれてしまったのです。「しまった・・・」こんな初歩的なミスをしてしまうなんて・・・。
操縦席から船長と操縦士の大きな声が聞こえてきました。ワタルさんは直ぐに報告をしました。
「申し訳ない。ぼくのロボットアームの操作ミスだ。」
それに対して船長が答えます。
「なんだって?ワタル。その話は後にしてくれ。」
そして操縦士と話し始めました。
「今、窓枠をかすっていったものは何だったのだ?」
「待ってください。録画を再生してみます。あ。隕石ですね。」
「大きさとスピードは?」
「指先ぐらいの大きさ。秒速3メートル。高速道路の自動車ぐらいのスピードです。」
「それでシャトルがゆれたのか。」
「いいえ。もしまともにこれがぶつかっていたのなら、シャトルの窓に傷がついていたかもしれません。むしろシャトルがゆれてくれたおかげで、かすっただけですんだのでしょう。」
そこで、船長と操縦士がワタルさんの方をふり返りました。
「で?ワタル、ロボットアームがどうしたって?」
「ぼくのミスです。ロボットアームを急激に動かしてしまいました。それでシャトルを揺らしてしまったのです。」
「オー!ワタル・・・助かったよ!」
船長が握手を求めてきました。ワタルさんは手の中のお守りを見ました。それは交通安全のお守りでした。
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