『ミハルとアミ』 プロローグ
夏の終りの陽はまだ長く、ヒグラシの声がキキキと耳につく。確かもう午後六時をまわったはずだ。後からタクシーを降りた黒い服の母親が「こっちよ」と促す。
側面を夕陽に照らされた大きな建物。玄関のガラス扉が開かれる。いつの間にか母親に手を引かれ、一歩その空間に足を踏み入れると、効き過ぎたエアコンの冷気が首もとに貼り付いた。同時に、目に飛び込んで来たのは黒い服を着た大人たち。一様に皆しんみりした面持ち、というより無表情に近く、薄いドア一枚を隔てて現れた非日常さに小学五年生の巳晴は少したじろいだ。
お通夜の意味は、さっき母親から教えてもらって知った。理解はしていながらも、はじめて体験するその場の異様な雰囲気に、巳晴の背中の肌は一面、何かゾワゾワとした感覚で覆われた。たくさんの見知らぬ人。どの大人も〝感情が表に出ない仮面〟を顔に貼り付けているかのように、巳晴には映った。自分もそうしなければいけないのだろうか。急に不安な、すごく寂しい気分になる。巳晴は、いつもならすぐに離してしまう母の手に、この時ばかりは自分から力を込めた。着なれないズボンから覗く靴が、母の歩調にテンポを合わせる。
何度か廊下を曲がって進むうち、母の足があるドアの前で止まった。軽くノックをしてドアノブをつかむ母。その顔に、少しだけ視線を忍ばせてみると、母もまた、神妙な顔つきをしている。化粧は薄く、これまで見た母の、不安な顔、不機嫌な顔、落ち込んだ顔、を全部ミックスしたような顔。見なければよかった。巳晴は、初めて見る母の複雑な表情に戸惑い、目を逸らした。
部屋に入るとすぐに、横たえられた少女の姿を見つけた。アミだ。大人たちが何やらひそひそと挨拶をかわしているのをよそに、巳晴は足を止めずにそのままアミに向かって近づいた。この建物に入ってから、はじめて自分の意思で体を動かしたような感覚を覚え、巳晴は安堵した。
目を閉じているアミ。巳晴の記憶の中にあるアミのさらさらと揺れていた髪の毛は、今は頭皮のすぐ近くで重々しく下へと垂れている。生きる輝きを失い、精巧に作られた人形の髪のようだ。肌も、かつては顔の筋肉に押されていろんな表情を見せていた愛らしさが消え、うす肌色のとても綺麗な色をしてはいるが、ただそこに物言わずアミの顔の上にのっかっている。
「巳晴くん、来てくれてありがとう。亜巳もきっと喜んでいるわ」
アミのお母さんが話しかけてきた。しゃがんで目線を合わせる。
「痛かったでしょうに、すごく安らかな寝顔をしているの。事故に合ったとは思えないでしょう?」
「うん」
とたんに、アミの死が現実のものと感じられた。もうあの笑顔は戻ってこないのか。声を聞くこともできないのか。つい三日くらい前のことだ、アミが言った。
──同じ学年に、巳晴くんのことが好きな子がいます。さて誰でしょう?
巳晴がクイズやなぞなぞの類が好きなことを知っていて、アミはよくこういったなぞなぞ口調で話しかけてきた。
──知らない。
お互い意識し合ってることはなんとなく感じつつも、それまで二人とも自分の気持ちを言葉にしたことは一度も無かった。あの時、口から出た言葉、あの時、なぜ知らないなんて言い放ってしまったんだろう。アミにとっては、とても勇気を振り絞ったなぞなぞだったに違いないのに・・・。
ここに立ったまま何を考えても、何を悔やんでも、何を願っても、どうあがいても、この現状を変えることのできない〝死〟というものの圧倒的な存在が、厚く強固なコンクリートの壁のように巳晴の四方に立ちはだかった。
自分に話しかけてくる生前のアミの姿が一気に頭の中に押し寄せ、思いがけずまぶたを閉じると、その隙間から涙が頬に伝った。口がへの字に曲がり鼻の下がモゾモゾする。我慢しようと考える前に、巳晴は声を殺して泣き始めてしまった。
巳晴とアミは、親同士が仲が良く、生まれた頃から互いの家に遊びに行く仲だった。アミは、明るく誰とでも話のできるような快活な性格であるのに対し、巳晴は友達もほとんど無く〝読書が好き〟という内向的な性格。それでも二人は互いの家に行くと、とても仲良く遊んだ。
学校では、昼休みになると、教室の入り口から「巳晴くーん」と呼ぶ声が聞こえ、まわりからヒューヒューと冷やかされたものだが、アミの声が無くなった二学期から、巳晴はクラスの誰からも声をかけられることが無くなった。小学五年生にという若さでは、幼なじみを亡くして塞ぎ込んでいる級友に対し、どんな言葉をかけてよいのかわからなかったのだろうか。元々友達が少なかった巳晴は、アミのいない日々に孤立を感じ、いつしか、周りの全てのものを排除し、言葉を発することをやめてしまった。巳晴にとって、過ぎていく毎日は灰をかぶったように単調な景色に映り、その得体の知れないグレーの粒子の中で自分の感情を表に出すということなど、意味を失ってしまったのだ。
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https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3