見出し画像

【空間論6】カント「空間と時間」

「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」 といわれるように、カントはそれまでの哲学を一変させます。
カントは、我々が経験できるのは認識によって作られる「現象界」だけで、認識の外にある「物自体」を理解したりすることはできないとしました。
そして、これまでの哲学は「現象界」と「物自体」を混同することで誤りが生じたと考えます。カントにより「空間」や「時間」にも全く新しい役割が与えられます。


対象が認識に従う

カント以前、哲学は「神の存在」や「絶対の真理」といった形而上学的な議論を続けてきました。カントは、そもそも我々は形而上学的な事物を理解できるのかと批判します。そして人間は、このように経験の外にある事物を認識できない、という結論に達します。

それでは、人間はどのように世界を認識しているのか。
我々が知覚を通じて認識している事物は、事物そのものと異なります。我々ができるのは、事物そのものを認識することではなく、事物が我々に現れる通りに認識することだけです。認識が対象(事物)に従うのではなく、対象が認識に従うことになります。

そうであれば、それまでの形而上学は、そもそも認識できないものを対象にしていたことになり、これを改める必要があります。これは、認識論における「コペルニクス的転回」と呼ばれます。

そしてカントは、人間の認識能力は、「感性」と「悟性(知性)」からなり、それを理性で統一しているといいます。「感性」とは直観する能力のことで、対象と直接関係しながら対象を出会わせるものであり、「悟性」は思考する能力で、対象を妥当な概念として規定します。

カントの空間と時間

「空間」と「時間」は、この「直感」の形式です。人間は、知覚したものを「空間」と「時間」の形式に当てはめることで、この二つのフィルターを通して初めて対象を直感することが可能になります。

対象である物自体は、我々の外にあるものなので、「空間」の形式を介さなければ直感することができません。「空間」は、対象である事物の同時的な隣接関係や、並存関係を規定することができます。このように「空間」は、外的直感の形式です。

繰り返しになりますが、カントにとって世界は、物自体でなく、我々に現れてくる現象にあります。「空間」によって得られた外的直感は、そのままでは一つの現象として立ち上がるとすぐ消えて無くなります。それを再生し、持続させることができて初めて、個別の外的直感が一つの現象として形づくられます。この一連の作用が「時間」であり、内的直感の形式といいます。

こうして我々は、外的直感(空間)と内的直感(時間)の連携で対象と出会い、その混沌とした感覚内容を「悟性」により理解します。その際、「時間」は内的直感としての働きだけでなく、「図式」という特殊な働きを支えるものでもあります。

アプリケーションとしての「図式」

カントの「図式」は、「感性」と「悟性」を媒介する働きを持ちます。

「空間」と「時間」の働きで生み出された現象(直観)は、多様で混沌としています。そこに秩序を与え、混沌とした直観に論理的で明晰な形を与えるのは、思考の形式としてのカテゴリー(純粋悟性概念)です。カテゴリーと個別の直観とはまったく別物ですが、両者を媒介するのが「図式」です。

三角形を例にとると、感覚の中に現れる様々な三角形の形象(イメージ)があり、一方で、悟性には純粋概念としての三角形が備わっています。そして、「図式」が、両者をモノグラム(組み合わせ文字)のように重ね合わせます。

そこでは、個別の形象を、純粋概念に包摂させていき、判断を成立させます(総合判断)。「図式」というアプリケーションが起動し、感性データを取り込み、カテゴリー変換(分類)し、判断を成立させる、といいかえることができます。

それでは、どのようなカテゴリー変換が行われているのでしょうか。カテゴリーには「量」「質」「関係」「様態」の4つがあり、判断の論理形式(AはBである)の違いによってそれぞれ3種類の選択肢があります。「量」のカテゴリーであれば、量の図式があり、「すべてのAはBであるか」、「いくつかAはBであるか」、「このひとつAはBBあるか」を判断します。同様に他のカテゴリーでも判断が行われ、総合的判断に至ります。

・「量」を判断(すべてか、いくつかか、このひとつか)
・「質」を判断(~であるか、~でないか、非~であるか)
・「関係」を判断(いつも~であるか、条件付きか、選言的か)
・「様態」を判断(~であるだろうか、~であるか、必ず~か)

カントにとって「時間」とは、内的な感覚能力で描かれる多様な像を結びつける形式的な条件です。「図式」では、この「時間」を媒介にして、カテゴリーが様々な現象に適用されるようになります。

ところで、人間が「図式」を呼び出すことができるのは、構想力を通じてです。構想力は、時間の流れのなかで対象を再構成しながら、同時に再構成する主体としての自己を認識します。それが「超越論的統覚」とカントが呼ぶものです。人間は、この統合された意識のもとで、図式を呼び出し、それを個別の現象に適用し、認識します。

空間はアプリオリな人間の感覚能力

カントの「空間」は、物自体の延長や属性でなく、人間にアプリオリ(先験的)に備わって知覚したものを直観する”能力”のことです。

これは、「空間」を物自体との関連で考えるのではなく、人間の主観的な要素との関連で考えるというものです。この点で「空間」とは、客観的な実在でなく、対象を認識するための主観的な形式となります。

なお、デカルト、ニュートン、ライプニッツのいずれも、空間と時間を「物自体」に関連付けて理解していました。カントは、その点を指摘し、人間には「物自体」そのものを把握する能力は備わっていないので、「物自体」と関連づけたことを批判します。

ただし、空間を「物自体」との関連付けで考えていたのは、遡ってアリストテレス以降といえます。アリストテレスの「トポス(場所)」は、「物質の配置や秩序から場所が生じる」と「物自体」との関連で定義されます。

ライプニッツの「相対空間」も、モナドロジーを背景に独特の世界観を背景にしていますが、空間は物体間の相対位置という以上の意味を持たないと、「物自体」との関連で捉えています。

このようにカントの「空間」は、アリストテレス以来の画期になったことがわかります。カント批判哲学同様、空間論においてもコペルニクス転回がみられます。

パトナムの「水槽の中の脳」

ところで、VR(拡張現実)を議論すると必ずといってよいほど参照される「水槽の中の脳」という仮説が、カントの認識論を下敷きにしているので紹介します。

「水槽の中の脳」とは、「体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢である」という主張で、哲学者ヒラリー・パトナムが1981年「Brains in a vat」の中で定式化したシミュレーション仮説です。

VRが拓く近未来にありうるべき世界として描かれた映画「マトリックス」の設定とも近似しています。そして、これまで見てきたようにカントの認識論も、人間の脳は脳が置かれた世界を知ることが出来ず、自らが生み出す観念のみを経験しているという点で「水槽の中の脳」と同じといえます。

科学者が、ある人から脳を取り出し、特殊な培養液で満たされた水槽に入れる。そして、その脳の神経細胞をコンピュータにつなぎ、電気刺激によって脳波を操作する。そうすることで、脳内で通常の人と同じような意識が生じ、現実と変わらない仮想現実が生みだされる。このように、私たちが存在すると思っている世界も、コンピュータによるシミュレーションかもしれない。

しかし、パトナムは、「水槽の中の脳」のシミュレーション仮説が成立しないことを証明します。
言葉は、これまでの自分や共同体の経験に基づいて事物の種類を指し示す(指示する)ものです。自分に「私は水槽の中の脳である」という意識が生じた場合、「脳」や「水槽」という言葉がコンピュータによって与えられたデータだとすると、言葉の定義が当てはまらず、脳や水槽を指し示すことができません。

また、その意識そのものも、コンピュータが送り込んだデータに基づくイメージにすぎず、本当かどうか疑わしい。つまりこのシミュレーション仮説は成立しません。

さらに、カント的な説明を加えると、脳で生み出された観念は、それが知覚によるものであろうが、コンピュータから与えられたものであろうが、現実の事物とは異なり、本当かどうか疑わしい。

このように、「私は水槽の中の脳である」という意識が二重の意味で疑わしいのであれば、「我思う故に我あり」の「思う我」も疑わしく、我が脳で生み出す唯一信頼できるイメージ(観念)も疑わしい。パトナムは、デカルトの懐疑論を論駁したといわれます。

ただ、パトナム本人は、懐疑論というより、形而上学的実在論を否定したと語っており、そしてパトナムは内在的実在論に転向しました。

形而上学的実在論とは、世界にある範疇や構造は、人間精神と無関係という考え方です。一方、内在的実在論とは、世界は因果論的に人間精神と無関係だが、世界の構造は存在論的に人間精神と相関しており、世界は人間精神と無関係ではないとする考え方です。

カントも、世界の存在を否定したわけではありません。知り得ないと考えただけです。空間や時間のフィルターを通して生れる直観と、カテゴリー(思考範疇)が「図式」において媒介されるのも、世界のカテゴリーと人間のカテゴリーがある程度符号しているからかもしれません。

この点についてパトナムは、世界があらかじめ構造化されているのではなく、人間の概念図式によって世界の構造を押しつけているいいます。そのため、現実についての正しい記述は、認識の数だけ多数ありうると考えました。

最後に

カントで空間論は転回します。カント以前空間論は、世界や宇宙と空間の関係といった「外なる空間」を語ってきましたが、カント以降、認識のフィルター、あるいは生きられた空間など「内なる空間」を対象に加えることになります。

「没入感」で成立するデジタル空間は「内なる空間」と捉える方が理解しやすいと考えています。ただし、我々は「外なる空間」である現実空間とデジタル空間を同時に生きる必要があります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

(丸田一如)

〈参考〉
イマヌエル・カント『純粋理性批判』平凡社ライブラリー
『完全解読 カント純粋理性批判』講談社選書メチエ、竹田青嗣
『理性・真理・歴史―内在的実在論の展開』ヒラリー・パトナム、法政大学出版局