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【現代空間論3】西田幾多郎「場所論」

西田哲学がその根底に抱えるといわれる「場所の論理」とは、存在するもの全ては「於いてある場所」があるという論理です。無字の公案を透過するほど西田は禅に傾向していましたが、場所の論理は決して宗教的でなく、逆に極めて論理的で、自覚という内なる意識を弁証法的に掘り下げ「絶対無の場所」に向かいます。

同時代、同じ弁証法的なアプローチで人間存在に迫ったハイデガーと西田。両者の場所論は、どちらも現代を紐解く重要な知恵といえます。


自覚の場所性

西田が『善の研究』で取り組んだ「純粋経験」とは、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ある」というように、私と世界が一体に結びついている原初的な「行為」の場面のこと。花の匂いをかいでいる私と、花の匂いが渾然一体となったような場面です。

この主体と客体が未分化な状態から、自己を切り分けるのが「自覚」です。この自覚とは、自己を対象とした自己意識という一般的な意味でなく、渾然としている自己が、自らの行為そのものにおいて自己を限定し、こうした自己を自らの意識に映し出すことです。つまり、自覚とは「自己の中に自己を映す」という働きであり、自己言及的な運動です。この運動によって私も、他者も、世界も現れます。

『働くものから見るものへ』に収められた「場所」は、西田哲学の端緒となった記念碑的な論文です。ここで西田は、「自覚」の働きを根拠づけることによって、場所の問題に切り込んでいきました。そもそもこのアプローチは、原初のスープのような純粋経験から自分を切り分けるという手順を踏んでおり、主体と客体の対立から出発する従来の認識論と出発点が異なっています。

自覚の「自己の中に自己を映す」という働きには、映し出す場所が必要ですが、そこは単に知識だけでなく、感情や意志も成立する「場所」です。それが「意識の野」であり、主体も、客体も、同時に包み込む場所としての性格を持っています。

有るものは何かに於(おい)てある

この自覚の場所性が、最も明確になるのが判断の論理形式です。西田はこの判断形式を一種のケーススタディとして「場所」を究明していきます。

 「SはPである」

という基本的な判断形式では、主語(S)が表すものと述語(P)が表すものが別々にあり、判断によって両者が一つに結びつけられています。文法上も繋辞の「ある」によって両者は結合されます。美しい黄昏時に「あの夕日は赤い」といった場合、赤いという性質は一般的なもので、夕日の色についてどこまで限定してみても、目の前のあの美しい夕日の色には至らない。そこには必ず見る者の判断が介在します。しかし、これを西田は以下のように解釈しました。

 「SはPに於てある」

「於(おい)てある」は、「有るものは何かに於てあると考えざるを得ない」と西田が喝破するように、場所論の基本的な考え方です。この場合、述語(P)のところで主語(S)が解釈されるようになり、主語(S)が表すものと述語(P)が表すものが初めから重なります。ここでの判断とは、一般者(述語)が特殊(主語)を包むことになり、さらにいえば、一般者(述語)が自らを特殊化すること、つまり、一般者の自己限定となります。「赤い」が一般者にとどまらず、具体的な美しい「赤い」になるのです。こうして生まれる具体的一般者(超越的述語面)が「場所」です。

これを「類概念」を用いて説明することもできます。

 「Sは~に於てPである」

「SはPである」という形式のなかに類概念を挿し入れたものです。たとえば、「あの夕日は赤い」に「色」という類概念を入れて「あの夕日は色に於て赤い」とします。一般的な性格を持つ「赤い」は、より一般的な性格を持つ「色」の登場によって初めて特殊化します。この特殊化の契機となるのが「場所」です。一般者が自己限定すれば、それですぐに特殊に至るのではなく、そこには場所という契機が必要になります。

また、類概念は、このような相対的一般者としての性格だけでなく、潜在的有としての性格も持っています。色という類概念には、赤い色もあれば、赤でない色も含まれます。赤い色が於てある場所には、赤でない色も於てなければならない。このように類概念には、有(赤い色)と無(赤でない色)を含んだ潜在的有が備わっています。これを「場所」と考えることもできます。

絶対無の場所

しかし、「真の場所」とは、有と無が対立する類概念を超えたところに見いだされます。

「主語が述語に於てある」場合、ここで述語が特殊化していくと、今度は主語に成り代わって「主語が述語に於てある」場所が見いだされていきます。そして、そこでの述語がまた主語になって、さらなる場所が見いだされていく、という具合に判断形式に則って、述語という場所が、主語→述語の方向へ階乗的に深められていきます。西田は、その極限に「述語となって主語とならないもの」を見ます。これは「主語となって述語とならないもの」というアリストテレスの基体の定義とは逆方向の極限です。

判断の述語的方向(遠心的方向)と主語的方向(求心的方向)という二つの方向を極限まで押し進めていくと、判断の包摂関係を大きくはみ出してしまいます。この場合、距たった両者を関係づけられるのは、具体的一般者の自己限定だけです。具体的一般者(=場所)は、あらゆる存在がそこに於て、一般者の自己限定として現れますが、それ自体は何ものにも限定されることがなく、いかなる存在(有)でもありえません。こうして「述語となって主語とならないもの」が、「無の場所」と呼ばれるようになりました。

これは、類概念での潜在的有のような「相対無の場所」ではなく、有と無の対立を超越し、それらを内に成立させる「絶対無の場所」。これが西田のいう「真の無の場所」です。

「いま」と「ここ」

添付図は、西田の場所論を、図化したものです。円錐形の各断面は、具体的一般者としての「場所」です。場所は無数の層をなしており、この円錐形全体が純粋経験を表しています。上方向は主語的方向で、上に行けば行くほど一般者の自己限定が行われ、特殊化が進みます。反対に、上方向は述語的方向を示しており、その極限に半径無限大の断面として「絶対無の場所」が表れます。そして、最上部である円錐の頂点に個(主語)が位置しています。

ある「場所」を取り上げてみると、そこでは自己限定を巡って二つの異なる作用が起こっています。たとえば、私は、男性一般の自己限定で成立します。ここには男性という一般が私を限定する上方向の作用が見られますが、反対に私が男性一般を限定し返すという作用も現れます。

ある同性愛者が、同性の愛人との生活を続けていくと、社会通念との軋轢に苛まれることがでてきますが、ここまでが前者(男性一般の自己限定)の上向きの作用です。ところが、自分らしく生きようと決意してカミングアウトしたとすると、そのことが波及してカップルや結婚に関する社会通念を揺さぶり、結果として法律や慣習が変わることがあります。この場合は後者(個物が一般を限定し返す)の下向きの作用です。

檜垣立哉は、生命哲学の担い手として西田とベルクソン(Henri-Louis Bergson)を対照しています。有名な円錐形のモデル(右図)で表されたベルクソンの「純粋記憶」と、西田の場所論は本質的に重なりあっています。ベルクソンは過去を実在するものとして、現在を包む膨大な全体として描き出します。そのなかで現在(S)は過去の突端にすぎない「即自的過去」と位置づけられます。現在の背景としての過去の総体が「純粋記憶」であり、逆円錐形のモデルを使って説明されます。

円錐の頂点は、自己の「いま」を表しています。そこでは円錐部分の諸層に広がる記憶全体と連動しながら、記憶の現実化(イマージュ化)を行い、たえず前進しています。円錐の断面である記憶の諸層は、「一般概念」として捉えることができます。一般概念は、頂点と底面との間を絶え間なく揺れ動くが、頂点にある現在の場面に展開されると、具体的に概念が切り出されることになります。

この一般概念は、西田の「超越的述語面」に相当します。両者には、限定対象として時間と空間(場所)の違いがあるものの、どちらも自己限定による「いま、ここ」への現実化を起こします。ベルクソンでは、過去としての一般概念の限定として現在(いま)が現れ、西田では述語面の限定として自己(ここ)が現れる。檜垣は、両者が共通して記述するのが「内包的に描かれる実存の多層的な深みに根ざした概念化」であり、「無限の背景に照らされた現実化のあり方である」といいます。

「絶対無の場所」は、「述語となって主語とならないもの」として述語的方向への階乗化の果てに見いだされたものです。それが、主語-述語の全体を超え包むものとしても見いだされることになります。元来、基体としての意味を与えられていた「主語となって述語とならないもの」は主語で行き止まりです。しかし、主語も「絶対無の場所」に包まれることによって、「無に滅し無から蘇る」唯一絶対の個になるという主語の超越が起こります。

この段階になると、場所論は判断形式という表層の議論から脱却しています。「我は、主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と西田がいうように、「主語の論理」は「述語の論理」へと転回するとともに、「絶対無の場所」を得て「述語の論理」が「場所の論理」となります。

ここに至って、主体=基体という長いトンネルを抜け、場所=基体に落ち着きます。場所は、すべての実在を包み込み、有を生み出す無という豊饒です。

終わりに

あらためて自分を問う場合、自分とは何か主語の側で考えるとしまうと迷路に入ります。述語の側で考えことが、問いを成立させることができます。
述語とは「~に於いてある」という場所そのものです。自分の居場所を考えることが、いま・ここの自分への問いそのものになります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

(丸田一如)

〈参考〉
西田幾多郎「場所」『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波書店
檜垣立哉『ベルクソンの哲学 生成する実存の肯定』勁草書房