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やっぱり最後は紙もの


知多の猫

写真をね、しばらく印刷していなかったのだけども。

一眼で写真をたくさん撮るようになって、データの保存を見直して、大容量のレイドと、一応ポータブルHDDにも保存していて、日付の入れ方とかフォルダとかを見直しながら昔の写真を一通り見返すことがあった。

それで、20年くらい前の写真とかがデータで残っているのを見ると本当に面白くて、実家のリビングが全く変わっていないのに父母だけ若いとか、こんな服着てたなとか。私ダサいなとか…。20年前の祖父母がイケイケすぎて笑った。
イケてるところもイケテナイところもそのまま残ってる。楽しかったことも、苦しかったことさえも思いだす。
昔は家族といることが苦しいと思うこともあったし、自分のことだってそんなに好きじゃなかった。正直昔の自分が写った写真を見るのは今でも好きじゃない。将来を悲観しがちだったし、何か才能があったわけでもなく。家族とケンカもした。何者かになりたくて必死だった自分を思い出すのは辛い。
でも大人になって、自分にも子供ができて、父が死に、家族というものが残像となりながら私の人生を支えていることに気が付く。

写真は記憶を思い出すための装置。
あの頃全く価値を感じなかった、ただなんとなく撮っただけの写真が、時を経て熟成されて、今では絶対に手で触れることのできない、行くことのできない時間と場所にタイムスリップさせる。せつない。

写真の中のわたしたちは全員もれなく若いし、死んだおじいちゃんも父も笑ってる。写真を見ると声が聞こえる。

 レイドをセッティングしてみて、大容量で二重バックアップの安心さがある反面、もし私が死んだあとレイドへの接続の方法がわからなくなった瞬間、全ての写真とおさらばということになってしまう。大量のデータを吸収したただの黒い箱になる。そもそも、何十年分もの膨大なフォルダをひとつづつ紐解いて丁寧にみてもらえるような気も全くしないので、後世に残したい写真をどう保存するのかを考えなくてはいけないな、と思う。

データっていうのはつくづく儚いものだ。
少しのミスで簡単に消えてしまう。
もしくは、存在していてもアクセスできなくなる。

データでもずっとずっと残っていてくれたらいいなとはもちろん思うけど。
父が死んだあと、私は父のパソコンをいじることはないし、スマホも見ていない。母もそんなに見ている感じはない。つまり、自分が死んだ後も周りは多分同じ感じになるんだと思う。
家族が、死んでしまった家族のスマホを常々見続けていたらそれはそれでヤベェだろうよ。

やっぱり最強なのは、印刷だろう。
紙に印刷してアルバムにして保存するのが一番、残るんだろうなと思う。
棚からスッと取り出して好きなページをめくれる、家族と回し見ができて、そういえばあの写真どこだったかなとか話しながらワイワイと写真を囲む。
写真ってそういうものなんだと思う。最後はみんなの記憶の軸足になるんだ。そういう時間のための写真だ。

あとは額に入れて飾ること。自分が生きている間は、お気に入りの写真を飾って毎日愛でたい。残された人たちがその写真をその後も愛でてくれたらそれは嬉しい。写真はまず第一に、自分と家族を満たすためのものであって欲しい。

紙だって燃えてしまったり、災害などでなくなってしまうことだってある。
永遠にあり続けることなんてないんだろうと思うけど。

旅行の道中の高速道路にて。息子が喜ぶかと思って撮った道路パトロールカー。


今では見かけなくなったフジカラーのベンチが嬉しくて。

今年はたくさん印刷しようと思う。
ずっと昔の写真も印刷してみよう。


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