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重心と余白、輪郭のぼやけ

“夕焼けにつっかけのまま走り出る”

夕陽のあの美しさは何だろうか。

西の空が赤らんで
建物は赤銅色の反射をする
海は凪いでいて
窓に切り取られた風景と
ぼんやり淡く映る飛行機雲

この美しさは何だろう。
夕陽に見惚れて、ふと考えてしまう。


カフェのバイトを辞めた日、
ベランダから星がよく見えた。
“秋星の隙間をみている、別れかな”
と言葉が浮かぶ。
あのとき自分は何を見ていたんだろうか。


空をぼんやり見ているとき、
何に焦点が合っているんだろう。
この街の風景が好きだと言って、
何を見つめているんだろう。

きっと「場」や「空間」を見ている。
その場所の「空気感」を見ている。
記憶を見ている。存在を思っている。

夕陽は物の色と輪郭をぼやけさせる。
夜景の美しさ、街の営みが光に抽象化される。
ぼんやりと風景を見ている。
そこにない何かを見ている、重ねている。


Boyake - Artistic View


お洒落って何だろう。
「コク」って言葉みたいに色んな要素が詰まってそうだけれど、間接照明とか、ぼやけたものってなんだかお洒落に思える。

言葉は感覚をグルーピングしたものだっていつか書いた。
要は、色んな感覚の共通項とか最大公約数が言葉で、具体的な感覚というものを抽象化して結びつけたのが言葉だという話(持論)

風景を見たとき、「山が奥にあって手前に街が広がってて、空が青い」って言葉で終わらせちゃうと味気ない。
山はどんな形で、どんな色か、どの部分がどんな形で、緑といってもどんな緑か、
そうやって言葉を細かく突き進んでいくと、それ以上進めなくなるところに着く。
それが具体的な「感覚」だと思う。
「何かと同じ、似てる」とか比喩とかなら言い表せるけれど、
言葉の枠組みをはめられないもの
そういう感覚の集まりが
その風景の「印象」になる。


ぼやけているものとか、滲んでいるものとか、何を撮ったのか一見わからないような写真に映る光は、言葉というフレームにぱぱっと当てはめてしまうことができない。

じゃあどうなるのかというと、
色合いや形や、いろんな視覚情報が
ありのまま入ってくる。
感受性をフル動員して、言葉で分かれてしまっていない、そのものを受け入れようとする。


雲の形を真に受けてしまった / 奥田民生


赤ちゃんにハイハイさせるのは凄く大事らしい。
動くことで物の見え方が変わっていくことを知る。身体と世界が繋がっていく。
歩くたびに視界がひらけていって、
一歩一歩、世界が鮮やかに生まれ変わっていく。
まだ言葉を知らない頃の純粋で鮮烈な体験

人は情報を圧縮することで文明を開花させてきた。
言葉や文字は感覚を抽象(圧縮)するもので、
ニュートンの運動方程式は日常のあらゆる運動を一つの関係式で結びつけた。

物を見たときに言葉を当てはめて整理することは生きる上で便利で、省エネに過ごせるから必須。

だから大人になるにつれて、
うまく生きられるようになるにつれて、
風景を新鮮な感覚として全身で受け止める能力を忘れていく。使わないレンズは曇っていく。
エッセンスだけあればいい。

けれど、そればかりだと、
外部に残した言葉に頼りすぎると、内的な動機も埃を被ってしまって、感情のはたらきが劣化していってしまう。と思う。

芸術家は「ものそのもの」を見るのに長けている
例えば、スプーンを見たときに、
スプーンという言葉や、食器であることや、掬って食べるものだということとは切り離して、
形そのものや質感そのものを見る。
曲線の美しさに気づく。光の反射を見る。

美しいとは、ただ、レッテルから解き放たれて、
感覚そのものを受け入れたときの心の高まりなのかもしれない。

ぼやけたもの
ぱぱっと言葉を当てはめられないもの
焦点の合わないもの
そういうものを見たとき、
きっと、ごく自然に、
芸術的な視点になってしまう。

世界が生まれ変わったような、
ありありと目に溶け込んでくる風景や表情


Composition - Balance


写真の話をしたい。

被写体を真ん中に撮るのとちょっとずらして撮るのとでは、写真の感じが違ってくる。
被写体を中央からずらして撮ると、写真の主役がその場所の「空気感」である気がしてくる。
写真の「重心」が被写体の中心からずれている感じがする。洒落ている。


立体でも同じような話をする。

部屋のように切り取られた空間を考えてほしい。
物を置くと、空間は物とそれ以外に区別できる。
物以外のところを「余白」と呼んでみる。
物があって初めて「余白」ができる。

じゃあ、真っ白な部屋の中央に重そうな岩を置いてみよう。
今度はそれを部屋の右奥の隅に置いてみよう。
どんな風に部屋の印象が変わるだろうか。

隅に岩を置いたら「部屋の重心」はやや隅に近いところで、
中央に置いたなら、岩の上部あたりかと思う。
では、天井が極端に高ければどうか。
軽いといっても余白には空気が詰まっているから
岩のもう少し上に重心ができそうに思う。

岩を小石に変えてみたらどうか。
小石よりももっと上に重心ができる気がする。


切り取られた平面や空間を意識したとたんに
「重心」を探してしまう。
重心を無意識に探して、そこに焦点が集まる。

渦潮のような、アリジゴクのような、引っ張られるような魔力があるように思う。
視点が重みとなって、安定する場所を探してしまうのか。

Yohaku

余白をつくって物を描けば、それにつられて絵の重心は物からずれる。そこに意識が向いたとき、物にはピントが合っていない。ぼんやりとしていて、言葉のフレームをはめられないのだから、

視界の端に映る物の感覚の記憶の残滓が
ありのままの感覚に近いかたちで感じられる。

余白がないときよりももっと感覚的に絵を味わえる。

部屋であれば、家具が立体的に配置されていて、
それぞれの感覚もまた立体的な配置をとる。
その感覚の立体的な配置が「場」をつくる。

山の中は人と自然の境目はなくなり、輪郭がぼやける。都会で見る蝉より、森の中の蝉が好きだ。

生け花で、重心が外側にあって、絶妙なバランスで生けられたものに凄みを感じる。

俳句や詩、言葉の余白についても、
言葉の組み合わせの先を、自分の鏡に映して遠くまで見渡せば、美しい空気感が匂う


余白をつくることは、
構成に余裕をもたせて風通しを良くするとともに
視点の重心を物からずらして、感覚的に味わいやすくすることにもつながっていると思う。

余白は、ものへの感受性を開いてくれる。
深いところで水脈のように感覚がつながって、そこにはないものをも重ねて見せてくれたりする。
だから美しいのだと、最近はそんなイメージをしている。



自分でもまだ考え中のところもあって、
こういうことは、どこまでも話し合う余地があるような気がします。
勝手に持論を書いちゃってますが、ひとつでも、面白い視点とか想像とかがあったなら幸いです。
読んでくださった方、ありがとうございました!

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