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全部どうでもいいし何も好きじゃないのかもしれない

数週間前、ある大切な人の言葉がきっかけで気づいたんですよね。家族も友達もサッカーも音楽も勉強もバイトもお笑いも、おれは全部どうでもいいのかもしれないって。厨二病みたいですよね笑 でもほんとに思ったんですよ。その大切な人の言葉を借りれば、全部僕の世界の「外」にある感じ。

もちろん、それらのことを大好きなつもりで生きてきたし、かなりの時間と熱量をかけて向き合ってきました。でも、それでもなお、どこか他人事というか、都合いい付き合い方というか、、上手く言えないけど「外」にあるなって感覚があるんですよ。

そんなに全部「外」にあるなら、お前の世界の「中」には何があるんだよって思われるかもしれませんが、その問いにははっきりとした答えがあって。それは、僕の生活です。精神生活って言い方の方が適切かもしれません。ごはん作ったり、人と会ったり、本を読んだり、夜更かししたり、バイトしたり、ぼーっとしたり、散歩したりしながら、僕の頭の中では常に僕と僕が会話しています。で、ごはんも人も本も時間もバイトも川沿いの道も「外」で、それらに触れながら頭の中で行われる会話だけが僕の世界の「中」にあるんです。

住野よるのこの恋もきっと忘れるって本(結構ハチャメチャでよく分からない話でした。。笑)のセリフで「私は私の頭の中と部屋の中にあるものが大好きなの」みたいなセリフがあるんですけど、そんな感じです。

その自分だけの部屋のドアを開けて、部屋の外に出向いて、そこで人と喋ったりなにかに打ち込んだりするイメージです。で、そうやって外で手にした感情や言葉や思い出を大事に持ち帰って、部屋の中でじーっと眺めるみたいな。そんなかんじです。

もうちょっと「外」って感覚の言語化に挑戦するならば、その人/それを失っても立ってられる、ってことかもしれません。もちろん大事だし大好きだけど、その人/それなしじゃ生きていけないってわけじゃない。BUMP OF CHICKEN風に言うなら「あなたを失くしても僕で生きていく」ってわけですね。

これは、俺が小4で父、小6で祖父、高3でペットの犬を亡くしてる影響も大きい気がします。どれだけ大好きでも、自分の一部だと思ってても、みんないつか死んじゃう。「かけがえのない存在」が欠けても、僕は普通に笑って生きてけるし、世界は変わらず回り続ける。どこまでいっても絶対的な「他者」なんだな~って感覚があります。自分とは根本的に異質な存在。分かり合うことも一つになることもできない。まあよく聞く話かもしれませんが、そんな感覚が僕にはめっちゃはっきりあります。全部関係ないし全部消えちゃう。

そんな中、唯一僕にとって絶対関係あって絶対消えないのが〈僕〉です。僕が死ぬまで僕の知識と経験、記憶と思考は、それだけは、僕とともにある。だから僕の軸足は常にそこに置かれてます。今の僕は、それをいいことだとも悪いことだとも思いません。どうにかしようとも、どうにかしたいとも思っていません。でも、間違いなく僕の根底にある感覚なので、これからも考え続け、書き続けたいです。

とりあえずこの記事はここまでにしようと思うんですけど、近々続編を書くつもりです。絶対的に異質な僕と他者がどうやったら繋がれるかって話です。キーワードは「地獄」!僕の持つ地獄と誰かの持つ地獄が重なったときに、一時的かもしれないけど、繋がることができたように、一つになれたように、思えるんじゃないでしょうか。でもそれは「地獄を持ってる俺たちの方が偉いんだ!すごいんだ!賢いんだ!」という排他的で閉じた考え方と紙一重の、すごく危うさを孕んだ話でもあると思うんですよね。。。また気が向いたときに書きますね。読んでくれてありがとうございました。


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