見出し画像

『ボランティア拒否宣言』

ボランティア拒否宣言、というのをご存知でしょうか。ボランティアって、本当にいい活動なんでしょうか?

こんばんは、りこです。今日は早速、本題に入ります。

ボランティア拒否宣言/花田えくぼ

それを言ったらオシマイと言う前に
一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの向うにしかハジマリは無い
その向う側に私は車椅子を漕ぎ出すのだ

ボランティアこそ私の敵
私はボランティアの犬達を拒否する

ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧みに甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上っている
ボランティアの犬達は 私をお優しい青年達の結婚式を飾る哀れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼等の子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑なさを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる

私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされ
汚い手で顎をさすられた
私は もう彼等をいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛みついてやる

ごめんね
私の心のかわいそうな狼
少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で
オシマイの向こう側に
車椅子を漕ぎ出すのだ

花田えくぼ「ボランティア拒否宣言」(おおさか・行動する障害者応援センターの機関誌『すたこらさん』1986年10月号)

☆身にしみて、感じる

この作品、読んで何を感じましたか?私は、ぐさぐさっと心に刺さるものがありました。
自分自身、ボランティアをする側に立つことが多いですが、ボランティアを受ける側が、このような気持ちになっているのかもしれないと思うと、やりきれない思いがあります。
もちろん、ボランティアをする人の態度の問題もあるし、同じ態度でもされる側の受け取り方は違います。この詩は「ボランティアはどうあるべきか」という問いに、根本的に拘わると思います。

☆ボランティアは相互であるべき

私は今、いくつかボランティアをしています。zoomで無料で授業を教えていたり、特別支援学校でスポーツボランティアをしていたり。そのような中で、ボランティアを「する側」と「利用者」に分けるなら、その二者は平等であるべきだと思います。どちらかが間違った行動をとっても、この詩を書いた方の様に苦しくなってしまう前に、指摘しあえる関係である必要があると思います。対人関係がなくしては成り立たないボランティアなので、失敗は必ず生まれるもの。「ずれ」が生まれたときに、意見しあえる関係であるべきだと思います。

☆そもそもボランティアは何のため?

じゃあ、「ボランティア」って、何のためにするのでしょう。私はボランティアを、「楽しくて学びがある」と思っているからやっています。しかしこう振り返ると、あくまで自分本位。自分が楽しくて、自分に学びがあるから。だからこそ、相手も同じくらい楽しくて、相手も同じくらい学びがあれば、それでもいいのかなと思います。ボランティアは利用者の望みを全て叶える必要はないし、利用者はボランティアのいうことにすべて従う必要はない。ただ同じ空間で1つのものを作っているだけのような気がします。あれ、これはボランティアじゃなくて遊んでいるだけ…?笑


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?