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多様性を学ぶと、社会は生きづらくなる

生きづらいから、多様性を学ぶのに、多様性を学ぶと、もっと生きづらくなった、そんな経験はないでしょうか?あるいは、友達が障害学とかセクシャルマイノリティについて学んだから、話が合わなくなった、とか。

こんばんは、くつばこ+のりこです。私は障害学などを学ぶと同時に、大学でジェンダーなどについても学んでいます。そうすると、たまに聞いたり、ネットで見たりするのが、「世の中はどんどんめんどくさくなっていく」という意見。それは本当か?と考えながら、じゃあどうしたらいいのかを考えていこうと思います。

☆世の中はどんどんめんどくさくなっていく、のか?
まずめんどくさいと感じる人によって、2種類に分けてみます。関心はないけど世間で批判されることが増えてめんどくさくなっている人と、多様性に関心があって学ぶことでめんどくさくなる人と。

☆興味はない人にとって、めんどくさい世の中になったのか?
これは疑いなくそうでしょう。だって今まで「女性だから家事やって」とか、「男性だから女子を守ってよね」でうまく回ってきた社会が、「それはジェンダーバイアス」って言われたら、知らない社会に変わってて、やりづらいでしょう。セクハラとかもそうですね。何でもかんでもセクハラにされてめんどくさい、って思ってる人いると思います。(自分も昔は、なんでそんなみんなセクハラセクハラって騒ぐんだろう?って思ってました。子供だったからっていう理由も大きい。)でも、でも、そのめんどくささは目をつぶっちゃいけないと思うんです。
めんどくさいって思うってことは、いくらか、その「めんどくさい」意見がまっとうだと思う部分があるのではないでしょうか。考慮すると複雑で、めんどくさいけど、無視はできない。子供のころ、大人が言うことにめんどくさいって思ってたのと同じだと思うんです。でも、大人になったとき、「昔の自分って子供だったな」って思うのって、自分が成長しているから。障害とかジェンダーについても、いつか振り返って、「昔の自分って、考え方が違ったんだな」って思えるように社会が変わることを祈ってます。

あ、でも、「多様性ってめんどくさいよな」っていう愚痴は、ちゃんと言葉選べば、言っていいと思うんです。(「いろんな人が生きやすい社会って、大変だよね。」とか。)今社会に生きてる多くの人が生まれたときは、まだ「多様性」が十分じゃない社会で、多様性を大事にする人は「多様性を大事にしよう」っていう意識の中で、変化してきた経験があると思うからです。

そして、めんどくささを楽しめるようになったら、勝ちです。

☆勉強していくと、めんどくさく感じるようになるのか?
私も障害学やジェンダーについて大学でしっかり学ぶようになり、様々な意見や、様々な視点で困っている人の実情を知るたび、世の中に対する疑問は増えていきます。それによって、単純に楽しめていたものがそうではなくなったことはあります。例えば、この間テレビで「令和のバリキャリ女子」という特集をやっていて、これは「令和の、男性並みにバリバリ稼ぐキャリア系女子」の略ですと紹介されているのを見て、昔なら「かっこいい~」「自分もそうなりたい~」とたんに思えていたのに、今は「男性並みに女性が稼げないのが問題だよなぁ」と思ってしまいます。もちろん、女性も働いてかっこいい!って思える社会になるのは大きな前進だったとは思うんですが。
障害に関しても、例えば24時間テレビ。以前はテレビに出ている友達を見て、いいなぁ楽しそうでとほっこりしていただけですが、「感動ポルノ」っていう考え方を知って(そのうちノートに書きますね)なんか単純に面白くは見れなくなりました。

☆じゃあ、勉強しないほうがいい?
まず、多様性を勉強して、いろいろな視点を知ったところで、全部の芸術作品がつまらなくなるわけじゃありません。人間を深く知ることで、もっと深く知ることができる作品もたくさんあります。
でも、ほわーっと何も考えずに楽しめなくなる、という経験はあると思います。とか、友達や親の意図しない差別発言に心が痛むようになる。
苦しいけど、もし自分が勉強していなかったら、同じように誰か自分の大切な人を傷つけていたかもしれない、それを防げているんだと思うだけで、だいぶ楽になります。

大切な友達や、人生を広げてくれる友達を、傷つけたくないから、私は今の勉強を続けているし、様々な場所に足を運んでいると思います。そして、社会が、大切な人を傷つけることも、防ぎたいと強く思っています。


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