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『余命10年』を見て

『余命10年』の映画を見てきました。
こんにちは!くつばこ+のせんです。夜の地震、かなり揺れましたね。特に2回目の縦揺れは大きくて長くて怖かったです。東日本大震災から11年、あの日のことを忘れないようにというメッセージなのかもしれませんね。

※今日のnoteは映画のネタバレを含むので、まだ何も情報を入れたくない人は、映画を見てから読んでもらえると嬉しいです。

☆『余命10年』

この前紹介した『余命10年』の映画を見てきました。字幕メガネの感想は一昨日のnoteに書いたので、ぜひそちらも読んでみてください。

「主人公が亡くなる物語はストーリーが予想できてしまう」「病の話は見ていて辛い」と思う人もいるので、好き嫌いは分かれるかもしれません。せんはいろんな人の感情が見えるものが好きで、登場人物の期待や葛藤、意思などがストレートに描かれていたので、見に行けて良かったです。

☆それぞれの思い

主人公や周りの人たちの感情が細かく丁寧に描かれる中で、こんな言葉がありました。

「私たち家族って、どっちがかわいそうなんだろうね」

これは、主人公茉莉の病気をなんとか治せないかと、新しい病院を見つけて提案する家族に、茉莉が言った言葉です。本人だって、治せるならどんな治療をしてでも治したい。家族が自分に生きてほしいのもわかってる。でも、治療法がない。家族に「もう諦めてよ」と言った後に続いた言葉でした。
せんはこのシーンがすごく切なかったです。まだまだ人生これからというときに余命宣告をされる茉莉、我が子を先に失う両親、そして両親と茉莉の間に立ち双方の思いを受け止める姉。みんながそれぞれの立場で苦しんで、もがいて、それでも今を生きるしかない。家族全員の感情が、この一言、このシーンにぎゅっと詰まっていました。

☆「日常」を生きたい

茉莉は誰よりも、自分の状況を冷静に客観的に見ているんだなと感じるようなキャラクターでした。基本弱音は言わず、家族や友だちの心配にも「大丈夫だよ」と返します。でもそれは、そうせざるを得なかったのかもしれません。
「自分がマイナス思考になっていると、周りの人も辛くなってしまう」
「周りの人にできるだけ心配をかけないようにしたい」
こういう思いがあると、なかなか自分の感情を素直に表に出せません。きっと茉莉は、「日常」を生きていたかったんだろうなと思います。難病、治療法なし、余命10年、自分や家族、友だちがこれから過ごそうと思っていた毎日とはかけ離れすぎていて、必死に守っていないと「日常」が埋もれてしまう。茉莉は最後の最後まで、「日常」を守りながら生き抜いたんだなと感じる物語でした。

今回は初めて映画の感想を書いてみました。音楽も映像もとてもきれいな映画で、もう一度見に行こうか迷っているほどです。原作と少し描かれ方が違うそうなので、読んでからまた見ようかなと思っています。
人と人とが出会いつながるからこそ生まれるもの、これをずっと大切にしたいなと改めて思う映画でした。

※人によってはかなり感情がもっていかれるので、シーンや映像・音と感情が相まって過呼吸になりやすい人は少し気をつけながら見ると良いかもしれません。(せんは途中でハアハアなりながら見てました…)

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