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私は『書くこと』に恋をしている

ああ、何かを書くってほんとうに楽しい。

例えるなら、本屋に行って適当に手に取った本が自分の超ドストライクで、心がギューッとなる、あの感覚。
一般的に言うなら、恋をしている感覚に似ている。

これを書いている今も、心がギューッとなって苦しい。

どうやら、私は『書くこと』がとっても好きらしい。
それも、恋をする程に。


この恋が始まったのは、いつからだろう?

きっかけは覚えてないけど、確かにいつも紙とペンを持っていて、暇さえあれば頭の中にあることを書き出している。

ノートを見返してみると、「理想的な1日のタイムスケジュール」とか「理想的なお金の使い方」を考えていることが多い様子。
昨年末にパートナーと一緒にほぼ日手帳を買ったから、毎日少しだけ日記も書いている。

もはや、私にとって『書くこと』は生活の一部で、なくてはならない存在だ。


では、どうして私にとって『書くこと』が必要不可欠になったのか?


アウトプットの手段は、『書くこと』と『話すこと』しかない。
(他には『絵を描くこと』とかもあるけど、私にはできないので除外する)

当たり前のことだけど、話すときは必ず相手がいるから、理性フィルターにろ過された、相手が喜びそうな言葉ばかりを選んでしまいがちだ。

もちろん、関係性によってフィルターの目の粗さに違いはあるものの、フィルターを介さずに話すことは決してない。
それはパートナーや親友、親も例外ではない。

理性フィルターでろ過した後に残った言葉は私の中にあるままで、時折悪臭を放っては、私を不快にさせることがある。
「あの言い方は良くなかった」「もっと違う言い方をすれば、もっと相手を喜ばせることが出来たのに」って、時間が経ってからあーだこーだ考えてしまうのだ。

そんなんだから、人と会う予定が続くと、私はあからさまに元気がなくなっていく(笑)
そして毎回「もう誰とも会わない!」とパートナーに宣誓しては、「いつも大変だねwww」と笑われる。

必要以上に気を使いすぎてしまう私には、『話すこと』は負荷が大きい。


でも、『書くこと』は違う。

手紙でないなら、書く相手は自分か顔の見えない誰かしかいない。
自分になら理性フィルターを使う必要はないし、顔の見えない相手を喜ばせるなんて至難の業だから、そもそもやろうとすら思わない。

『書くこと』だけが、自分を素直に表現できる唯一の手段なのだ。

しかも、自分で言うのもおかしな話だが、私の書く文章は面白い(笑)

特にこの2つは力作で、何度も自分で読み返しては「こんなに面白い文章はもう二度と書けないだろうなぁ」としみじみ思う。
(つまらないと思った人には、本当に申し訳ない)

こんなに面白い文章を書けるのは、私自身が面白いからではない。

人の目に触れるまでに何度も何度も推敲できて、自分らしい言葉を紡ぐことができる『書くこと』最大の特徴が、私に面白い文章を書かせている。

だから私は、私の面白さを引き出してくれる『書くこと』が大好きで、「次はどんな私を引き出してくれるんだろう?」とワクワクする。

こんなにワクワクさせてくれることに、恋しないなんてありえないでしょ?


この記事も、最初はどんな風に着地するのか全く見えていなかった。
構想段階では「人を喜ばせたい」と結論付けようと思っていたのに、書き終わったら全く違う結論になってるし(笑)
これだから『書くこと』はやめられないな(笑)


いつかこの恋が終わって、自分が書いた文章に面白さを感じなくなって、『書くこと』をやめてしまう日が来るかもしれない。
でも、その時は『書くこと』に感謝して、潔く次に進むから。
それまでは、全力で恋し続けるね。

ピンクのスイートピーの花言葉は「恋の愉しみ」。

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