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言葉の解釈を(都合よく)拡張する

パートナーとの日課として、寝る前にその日の気づきや感想をお互いに話す。(9割以上私が話しているが)

先日、アイデンティティーの話をした。
私にはアイデンティティーが3つあり、肌(人からよく褒めてもらえる)と特徴的な垂れ目(自分的にはそこまで垂れていないと思っている)、珍しい苗字(地元県の同じ苗字の人は全て自分の親戚レベル)だ。
この3つが私を私と評価するのに大切な指標なのに、肌は老化で衰えるし、苗字は結婚することで変わってしまうから、垂れ目以外にも死ぬまで持ち続けることができるアイデンティティーが欲しい。
そんな話をした時のパートナーの反応は「大変そうだね」。

……ん?それだけ……?
苗字はお主も関係あるけど…?
(言葉には出していない)

なぜそう思ったのかを聞いてみると、「評価軸が他人に依存していることが大変そうだ」ということだった。

「そもそも【アイデンティティー】とは、"社会や他人の評価の中で、『自分とは何者か』という問いに対する解"(意訳)であって、評価軸が自分ではなく、他人にあることが前提なのでは?」という問いに対し、「言葉の定義通りに生きていたら、息苦しいだけ」と。

……ほう。
数学を専門とするお主が、定義や前提を軽視してよいのか…?
(言葉には出していない)

確かに、私は自分の言葉に苦しむことが度々ある。
同僚に対し「なんでも聞いてください」と言えば、多少忙しくても相談に乗るし、「今度飲みに行こう」と誘われて「はい」と答えれば(というか、断ることができないのだが)、次回誘われた際には「何としても行かなければ」と気負い過ぎてしまい、行く前はいつも後悔している。

全てを素直に100%の力で受け止めてしまうのだ。

いつもなら100%の力で受け止めてしまうところを、言葉の解釈を広げて70%の力で受け止めるように考えてみる。

「「なんでも聞いてください」とは言ったけど、この内容はあの人が詳しいから断ろう」とか、「「今度飲みに行く」って言っちゃったけど、行きたくないから行かなくていいや」と、自分が辛くならない程度の頑張りで収める。
最悪、他人に嫌われたっていい。

パートナーが飄々と生きることができるのは、自分に都合よく言葉の解釈を広げているからなのかもしれない。

この話で、アイデンティティーを喪失することに変わりはないけど、他人の評価が関係ない、自分を自分たらしめるアイデンティティーについて考えてみよう。

そんなことをふと思い、ここに綴る。

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