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訪れた国

Episode 22 – China 1
 
 1976年頃の中国はまだまだ謎に包まれた国でした。香港の落馬州の丘の上からみると、あまり大きくない川が国境線で田んぼが続いていました。見渡す限りの田園風景の中に国境警備のトーチカのようなものが見えました。
 1970年代の終わり頃に中国側の国境の街になっている深圳を訪れました。深圳の街にビルはなく農家が続いており、街というよりも田舎の村でした。あちこちで道路を造っていたのは、将来の都市を意図した計画に沿っていたのでしょう。昼食は建設中の道路沿いにあるトタンで囲ったにわか作りの食堂で取りました。
 郊外の貯水池を見学しました。1960年代に香港が水不足で困っていた時、3か月間の人海戦術でダムを築いたそうです。香港側では新界から香港島まで縦断する送水管を敷設しました。広九鉄道で新界に行くと鉄道沿いに地上を走る2本の直径2mくらいの送水管が見えます。送水管はだんだん小さくなって、九龍の市街地では地下に埋められています。直径600㎜になった2本の水道管はでビクトリア湾を渡って香港島まで送水しています。
 1970年代の半ば頃に文化大革命の堅持を主張する4人組(毛沢東夫人の江青政党治局委員、張春橋国務院副総理、姚文元党政治局委員、王洪文党副主席)が支配を確立しようとしていた時期がありました。彼らはx1976年1月に周恩来、9月に毛沢東が亡くなった後も権力を握ろうとしましたが、華国鋒国務院経理、葉剣英国防部長などにより逮捕されました。その間、鄧小平は2度にわたって失脚させられています。
4人組が逮捕された後開放政策が始まりましたので、1979年頃に中国へ行きました。解放されて間もないころの街は多くがレンガ造りで、すすけていてどんよりと曇っている感じでした。建物には白いペンキで大きく「農業は大寨に学べ」とか「工業は大慶に学べ」などのスローガンが書かれていました。街中では狭い道路の地べたに生鮮食料品を並べて売っていました。皮をはいだ犬も数匹並べられていました。
街が海外からの旅行者に解放され始めた頃です。駅などにある公衆トイレは板の仕切り壁があるだけでドアがありませんでした。みなさんが並んでしゃがんでいる姿が丸見えです。わたしたちがドアのない公衆トイレに入るのは、かなり勇気がいることだろうと思いました。にわか作りでべニア板で囲っただけのトイレもありましたが、わたしたちが訪れる外国人を受け入れた街には、十分安心して使用できるトイレ設備がありました。おそらく、トイレ施設の整備ができた街から順番に旅行者の受け入れを始めたのでしょう。
 桂林で散歩していると日本語で話しかけてくる若者がありました。どうしてそんなに上手に日本語が話せるのか聞くと、NHKの日本語講座で学んでいますとの返事です。まだ外国人は珍しいころなので、Gパン姿を見かけると外国人だとわかって、話しかけてくるのです。現地の方たちが着ている服は人民服が当たり前の頃でした。
1970年代に初めて中国を訪れてから、2000年代まで何度も中国を訪れました。1990年ころまでの中国はゆっくりとではありますが、確実に進んでいる感じがしました。特に鉄道は混雑しているし、多くの道路は舗装してありましたが、都市間の移動に時間がかかりました。
 1990年代の終わりころから2000年代の高速道路網の建設には目を見張るものがあります。毎年二桁の経済成長が続いていました。上海から蘇州まで5時間位かかっていたのが、2時間くらいで行けるようになったのです。
 同じころに多くの日本の製造業が中国へ進出しました。多くの企業が中国の習慣に合う工場運営をしてきました。モノつくりの技術移転が進み、その後中国の製造業が大発展してきたのはみなさんが御存じのとおりです。そして中国のGDPは2010年に日本を抜いて世界第2位に躍り出ました。モノつくりのハードの技術は日本をお手本にしましたが、組織の運営は伝統的な中国型でした。
後続の国や地域、会社組織は日本からモノつくり(ハード)の技術を学びましたが、社会を運営する手法はお手本にしませんでした。なぜでしょう。
 

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