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経済成長をしていた頃 (When Japanese economy was growing)

 日本経済はバブル経済の崩壊(1991年)以降30年以上にわたって対処療法的な政策に追われて現在も安定的な成長をしていません。見方を変えれば危機的な状況は、社会の運営手法を見直す絶好の機会だったともいえます。しかし、社会が立ち直るために必要な修正を加えることはできませんでした。結果として、現在の日本は世界から3周後れとなり、先進国から脱落するかもしれない危機に面しています。
日本は戦後の復興から高度経済成長期(1955年~1973年)を経て安定成長期(1973年~1984年)には「Japan as Number 1」とまでいわれるほどの発展をしてきました。ところが、無秩序な発展は過熱しすぎて異常ともいえる状況となりバブル経済といわれました。1991年にバブル経済はあっけなく崩壊して、金融業を含む多くの会社が破綻して金融危機を招きました。1990年代は、日本社会の運営責任者たちが経済の立て直しに追われた10年間でした。
その間、国策レベルでは経済立て直し政策が総動員されました。産業界では得意な分野に集中する経営改善が行われました。しかし、21世紀を迎えても持続的な成長は得られず、失われた10年といわれました。その後も元気のない日本の社会は続いて2024年を迎えた今では日本の一人負け状態が明らかとなってきています。
新しい政策や経営を導入しても目指す改善が達成できなかった原因の一つに、政策や経営が過去の成功体験をもとにたてられていたことがあります。社会の運営責任者たちが過去の成功体験を忘れられなかったからだろうと推定できます。本当の原因は、政策や経営が間違っていたわけではなくて、社会の根本的な運営手法が時代に合わなくなっていたことへの認識が十分ではなかったことにあると思われます。
どのような成功体験をしてきたかを振り返ってみますと、好調な経済成長を続けてきた要因として、重厚長大あるいは軽薄短小といわれた「モノつくり」の輸出産業が日本経済の柱となって社会を引っ張って成功したという事実があります。
当時の「モノつくり」の生産現場には「みんなで一緒に」の教育で育った責任感の強い人が多くいました。職人気質といわれて丁寧な仕事をする従業員は、細かい仕様要求が文書化されていなくても製品の品質を守って生産することに専念しました。新しく参加する従業員は先輩の仕事ぶりを見習って仕事のコツを覚えて技能を磨きました。忠誠心が高くウデのいい従業員を抱える生産現場が、品質が高く計画通りの生産を可能にしていたのです。
1970~1980年代の日本の生産現場の文化は「技能オリンピック」で何度も1位を取る人を育てました。日本独特の文化と特徴を背景にした「モノつくり」の技術と技能があわさって製造業の発展を支えていたのです。戦後、欧米外国製品の物まねから始まった日本製品は「安かろう、悪かろう」といわれたものですが「Japan as Number 1」といわれたころの日本製品の品質は世界一といわれて消費者の絶対的な信頼を得るまでになったのです。

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