見出し画像

1月20日(土) 天気:雨 大寒 アートは意味から逃げることができる場所、「分からない」ものが差し出されるありがたみ

友人と大濠公園で待ち合わせ。道すがら、いま福岡市美術館で開催されている「ローマ展」が気になっているということを話すと、行ってみようと言ってくれたので向かうことにする。道中、地域の特産品などを扱うカフェを通りがかったときに「大寒たまご」という張り紙を見つけ、生なのか茹でなのかでひと悶着あり、入って確かめようということになった。見つけたそれはパック入りの生卵であった。ばら売りもされていたが、「ケース無し」との注意書きがあり帰宅まで無事が保証できないためすごすごと退散。

ローマ展は圧巻だった。とにかく狼が双子の赤子に授乳しているモチーフが多数あり、「ここにもいる」「ここにもいるね」と確認しし合ったほどだった。全く知識がなく、それが何を表しているかまでは分からなかった。
帰宅した今調べてみると、ローマの建国神話を表しているようだった。これに限らず、知識は物事の見え方を広げる手助けをしてくれる。このあと立ち寄った喫茶でもそのような話になり、知識があるからといって何か得するということはないかもしれないが、物の見方が確実に広がるという話をしたのだった。本を読むのはその角度が少しずつ増えていくということだ。知識が増えることで想像力が付く。相手の心情や境遇を推し量ることができる。

ローマ展のあとに常設展も見た。昔はよくわからないからという理由で避けていた現代アートだが、いまはむしろそちらのほうに惹かれるようになっている。解釈が自由ということもあるが、りんごがりんごでなかったり人と言われるものが人に見えなかったりと「これは何だろう」と考えるところから出発できるからだ。風景画や静物画においてはりんごはりんごとして目に入ってくるが、現代アートはそうではない。「分からない」ものが差し出されることのありがたさを思う存分享受できる。そしてそこには正解もない。

今日気に入ったのはマーク・ロスコの「無題」という作品。キャプションにはまさにそのようなことが書いてあった。普段意味のあるものを多く摂取しているからこそ、アートは意味から逃げることができる大切な場所だ。一緒に行った友人にそんなことを話し、友人の見え方も聞き、同じ空間にいて同じものを見ていても惹かれる作品や受け取り方が違っているのがとても新鮮だった。考え方や受け止め方こそ違うが、「これ何だと思う」という問いかけに面倒くさがらずに面白がって答えてくれたのもとても楽しかった。
大好きなアニッシュ・カプーアの「虚ろなる母」も数年ぶりに見ることができてとてもよかった。久しぶりにじっくり見て、ただ目の前に広がる黒にずっと溺れていた。空間が「ない」空間にずっと引き込まれていた。

美術館を後にして立ち寄った喫茶店は、雨天のため立ち飲み形式のカウンターのみの営業になっていた。持ち帰ることにし、注文した珈琲を目の前で淹れているのを見守りながらふと壁の方に目を見やると本棚があった。「気になるものがあれば取りますよ」という店主の声かけに、鷲田清一の『「待つ」ということ』をお願いした。そこから話が広がり、結果的に持ち帰りではなくカウンターで珈琲をいただきながら國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』など店主いわく「國分四部作」をおすすめしてもらった。いつか読もうと思っていたもののまだ手をつけられていなかったので、とうとうこのときが来たかといよいよ腹をくくった。店主が「もし読んでいて分かりづらい部分とかあったらうちにきて話しましょう」と言ってくれたのがなんだかとても心強かった。四部作のうちの一つの帯に書いてあった「人はただ生きているだけでいいのか」という言葉に目がいった。店主曰く、「何かあったときに"命があっただけよかった"と言いがちだが、果たして本当にそれでいいのか。命だけあっても、例えば災害に遭った人に移住すればいいと言うのは簡単だけど、人と土地にはただならぬ関係があるものだからその土地を離れるということは生きる意味を失くすという人もいる。それでいいのか」ということだった。私もつい生きているだけでいいと考えてしまいがちだが、アートのようにひょっとしたら無駄なものかもしれないけど生きるためには必要なものというのは必ずあって、それがないとなると生きている意味などないのかもしれない。

カウンターで飲んだことにより、その後訪ねてきたお客さんたちと自然と会話になり、格闘技や麻雀、狩猟など多岐にわたる話題で盛り上がった。ここ数日両親以外の人とほとんど会話をしていなかったため、人と話すのってこんなに楽しかったのかと久しぶりに血が通った感覚になった。この時間を味わうために生きているのだとさえ思った。芸術に触れ、同じような空気感の人たちと会話を楽しみ、くだらない話で盛り上がれる友人と酒を飲み交わす。これさえあれば生きていける。去り際、「無職だけどちゃんと散歩とか行くようにします」と言った後にちゃんとは余計だったかなと思ったのも束の間、すかさず店主などから「ちゃんとはしなくていいと思いますよ」と指摘が入り背中を縮こめながら店を後にした。
夜は今どきの大変おしゃれなごはん屋さんに行きたらふく食べ、いけ好かない人間の話に花が咲いた。いけ好かないという表現いいな。

美術館でピカソ缶バッジのガチャガチャを見つけ、回してみると「昼寝」だった。太陽が穏やかな表情で眠っている。この日の思い出は昼寝のように幸福な時間をこれから先もきっと私にもたらし続けてくれることだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?