ホームレスとデートの記事の残酷さ~貧困消費と感動ポルノ~
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ホームレスとデートの記事の残酷さ~貧困消費と感動ポルノ~

ヒオカ|ないものにされる痛みや弱者性に想像力を

先日こんな記事を目にした。

西成区、新今宮という土地でホームレスの方とデートするという内容。

読んだ感想は、残酷だな、これに尽きる。

「西成」と聞けば関西の人でなくても、多くの人はどのような土地であるかは想像できるだろう。少なくとも関西でその名を知らない人はいない。

その土地の特性の説明についてはほかに譲る。知らない人は調べることをお勧めする。(その前提があるかないかで、また印象がさらに変わる)

”無自覚の特権層”である女性が、日雇い労働者の町に繰り出し、あくまで対等な関係として、”無邪気”にホームレスとの交流を描く。

「どんな人とでも同じ人間としてフラットに交流し、楽しめる私」を描きたかったのか、「ここは人情や温かさのある街だ」と言いたかったのか、そこはわからない。

社会が生み出した、人間の尊厳に関わる深刻な問題の中にいる方をして、ここまで無邪気に、何も触れずに書き上げられることに不気味さを感じた。

そもそも、最初たまたま飲食店で隣になったおじさんから奢ってもらったことから、街で出会う人々と「貸しと借りを相殺するルール」を作って旅していくのだが、自然発生的な流れで借りができた状態から、お金のない人の町で無理やり貸しと借りを作る、損得表を埋めていくみたいな流れにモヤっとする。

途中こんな描写がある。

筆者「助かった……ほんとありがとうございます」
ホームレスの男性「うん。あと、100円持ってない?」
筆者「ひゃくえん?笑」
筆者「も、持ってますけど…」
ホームレスの男性「くれへん?」
物乞い…? でも100円だけでいいのか……? そもそもこういうときって、どうするのがいいんやろう、と悩んだのもつかの間。そうだ。今こそ、貯まりに貯まった「借り」を相殺していくタイミングなのでは? とりあえず、使い道を聞いてみる。

ここで、相手の男性は100円にも事欠く状態であることが推察できる。

ひゃくえん?笑


筆者「なんかすみませんね。後ろ、予定とかなかったですか?」
ホームレスの男性「いや、今日はなんもない…っていうか、いつもなんもないっていうか…
筆者「よかった!」

筆者は「いつも何も予定がない」=「仕事がない状態」のホームレスへの返答に、「よかった」と返している。ここで、相手の深刻な状況も自分の都合でいいほうに解釈していることがわかる。

服はぼろぼろだけど清潔感があって、お酒のにおいはしない。独特の甘いにおいもしない

ホームレスの男性を指しての言葉だが、甘い匂いが何を指すのかはわからない。

(独特の甘い匂いは薬物使用者を指す場合がある、自衛しているともとれる。そうとも取れてしまう描写が不適切であるといえる)

お兄さんは、喫煙席でタバコを吸う人を眺めていた。
ホームレスの男性「……持ってへん?」
筆者「私? 持ってないですねー、吸わないんで」
ホームレスの男性「買っ……てくれたりせんよな、あかんよな?」
筆者「うーん。ちょっと考える」
ホームレス「1本くれへんかなあ?」
2000円使うと決めたけど、「一緒にお昼を食べたいから定食をごちそうする」と、「お兄さんが吸いたいタバコを買ってあげる」は、何かが違う。うまく言えないけど、対等じゃない感じがする。

「たばこを買ってくれないかな?」というホームレスの打診に、「何かが違う。対等じゃないかんじがする」と渋る場面がある。

そもそもこれは、「借りができた分、貸しをつくる」というルールから始まったこと。お兄さんも私に「貸し」を作るのがいいかも、と思った。
「お兄さんの特技と交換だったら、いいですよ」
「特技??」

「ホームレスにたばこを買う」ということを”貸しを作る”とすることで自分を納得させ、代わりに男性に特技を要求するところに、ぞわっとした。

そもそも、ホームレスと、筆者が経済的に対等であるわけがないのだから、変にフラットさを装って対等さを求めることが異常なのだ。

ホームレスの男性「あ、九九は? 九九は得意!」
筆者「くく?!笑 んー、九九は困ってないかな!笑」
「そうか…」と、少ししょんぼりするお兄さん。

たばこを買う代わりに特技を求められ、とっさに「九九」、と答えたホームレスの男性。

ホームレスの男性「……ってかあんた薄着やな。寒ないん?」
筆者「さむい。笑 お兄さんは防寒術すごそう。教えてください」
ホームレスの男性「いっぱい着込む」
タバコの箱を返すと、お兄さんはそのまま、
ダウンジャケットのポッケにしまった。

「防寒術すごそう」って、家がないんだよ。生きるために防寒せざるを得ないのだ。

この街には、いい銭湯がいっぱいあるらしい。
ホームレスの男性「ここ、たまに来るところ」
筆者「うわ〜いいなー。今すぐ入りたい」
ホームレスの男性「入ってきたら? 俺、外で待っとくわ」

お兄さんの俺、「外で待っとくわ」切なすぎる。

下駄箱で靴を脱ぐ。お兄さんの靴下、ボロボロだった。かかともつま先もがっつり破れてて、もはや、リストバンドの足首バージョン

もはや~って、ホームレスの方の「服装イジり」は不謹慎すぎやしないか。

「タバコより靴下にすればよかったですね」
「いいねん、これはまだ履ける。消毒液かける」
「あはは笑 確かに除菌はされるけど、破れたとこは治りませんよ」
「服はよく配られるねんけどなあ。なんでか知らんけど、靴下はないんよな」
(ちなみにこの後、私は漫画のようなヘマをして、お兄さんに爆笑された。入口の色が同じで分からず、男湯側に突進するという。止めてよ笑)

洗濯ができないから、消毒液を使ってまだ履けるという男性に、

「あはは  除菌はされるけど破れたところは治りませんよ。」

その後

 Google Mapを見せながら、いくつか候補のホテルを指差した。
筆者「ここ、一泊1000円台。めちゃくちゃ安くないですか?」
ホームレスの男性「あー、うーん……」
筆者「レビューも良い。女の人も泊まれるって」
ホームレスの男性「うーん……できれば、駅越えて向こう側、泊まってほしいかな」

(中略)

筆者「まあでも、せっかく新今宮に来たし、普通のビジホより、」
ホームレスの男性「お願い。」
お願い、って、久しぶりに言われた。
ホームレスの男性「それか家。家に帰ったほうがいい。あんたは、家があるねんから」
ハッとして、「わかった。帰るね」と言った。
お兄さんが、「それがいいよ」と言った。

”家がない”。お兄さんの言葉の重み。

私が手を差し出すと、背筋を伸ばして、ゆっくり握手してくれた。
「近く寄ったら、会いに来るね」と言うと、
来なくていいよ。じゃあ、またね」と、高架下に帰っていった。

駅を超えたら、またそこは全く別の世界が広がっているのだろう。外と内の境界線が見える。

どうしても内でホテルを探そうとする筆者に、必死に外に行かせようと、「お願い」と言う男性の言葉が、また胸を締め付ける。

街の”こっち側”には泊まるな、もう来なくていいよ、みたいなことを言わせてしまっているのに、本人が気づいていない。用もない人が、ほこほこ綺麗事にコーティングして消費していいよな場所ではない、ということだ。ここは貧困のキッザニアじゃない。

そして、「高架下」に”帰っていった”お兄さん。そこが彼の帰る場所なのだろうか。

新今宮という街は、なりゆきでも「行けばなんとかなる街」だった。
「助け合いの街」で、そして、「信じる力が潜む街」だった。

残酷な美化。街の実態を知る人ならわかるはず。問題をコーティングしてキラキラにしないでくれ。 

ちなみに「行けばなんとかなる街」という言葉は「新今宮ワンダーランド」なる、この西成地域のイメージ刷新計画のパンフレットに踊る文言だ。

そこに住む人々の視点との乖離が、また恐ろしい。

そしてその話に「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」なんてタイトルをつけてしまうのは何重にも残酷だ。

「ティファニーで朝食を」という映画がある。けれど、私にとっては「松のやで定食を」。残さずふたりで平らげた、ボリューム満点のハンバーグとエビフライ定食。私の人生がもし映画なら、必ず予告編に入るシーンだと思う。それくらい贅沢な、そして大切な時間だった。

"私の人生がもし映画なら、必ず予告編に入るシーンだと思う。それくらい贅沢な、そして大切な時間だった。"

内容を読んでから改めてタイトルを見ると、貧富のコントラストがまた怖い。(ティファニーで朝食は宝石を肴にという内容でお金持ちの話ではないけれど、イメージとして名門貴金属店とドヤ街の定食屋のコントラストがえげつない)

ピュアで無邪気な女の子に、不器用で素直な男性が戸惑ったり振り回されたりしながらも、心温まるひとときを過ごす、新今宮のおとぎ話みたいにまとまっているけど、よく見るとホームレスと奢れる人(電通と地域の大きな仕事で稼げる人)という、生活&経済的に非対称な中で繰り広げられるのが、いびつで背筋が凍る。

”さっしーみたいにまっすぐ”な(でもにおいは嗅ぎ分けれる)筆者と、100円に困って家もない、女の人と10年しゃべってなくて”いつも1人で無視されて”生きているお兄さん。そういう深刻なベースの格差が、「私には帰る家があって彼にはない。”それだけ”」「久しぶりの女の人はどうですか?」みたいな軽口でポジティブに回収されている所に、消費感がにじみ出ているのだと感じた。
文体は、街が孕む内情や彼の背景を完全に透明化した、一方的な視点からの描写に終始している。

ホームレスとの話を美化することが悪いのは、ホームレスの方がどうこうだからじゃない。その背後にある社会構造のゆがみに蓋をしてしまうからだ。

明日の生活にも困る人たちの町に土足で上がり、楽しみ、キラキラネタにする。

これをハートウォーミングな話として、「温まった」、「いい話だ」、と絶賛する声で溢れているのを目にしたとき、自分は世にも奇妙な物語の世界に迷い込んだのだと信じたくなった。だれかここはディストピアだと言ってくれ。(心の叫び)


これが大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」の一環であり、PR案件であったことはさらに醜悪さを増す事実ではあるが、「PRだったのか、騙された。」という感想は絶対に違う。

PRであったことは、社会から取り残された人たちの問題を行政が覆い隠し、よい街として印象を上塗りする意図が感じられてさらに疑問は増すが、それがなくても文章単体で残酷さには気づくべきである。この文章を読んで絶賛した人たちは、自分の感覚を今一度疑ってみてほしい。切実に。

現地の方々の声


貧困の消費とエンタメ化

正直、またか、と思った。この感じ。既視感が半端ない。普段から、障害や貧困、社会的弱者の問題が”消費”される記事を目にし、強い違和感を抱いている。

一旦例の記事からは離れて、「貧困の消費」について書こうと思う。

私自身、精神障碍者の父を持ち、長年極度の貧困を味わった身として、その体験談をさまざまな媒体に寄稿している。

ホームレスの問題含め、貧困の当事者の声を可視化し、それを生み出す社会構造を描くことはとても重要なことだ。

しかし、ネットには、単にセンセーショナルな話題として、PV稼ぎに使われている記事をよく見る。

深刻な体験ほど人々の好奇な目を集め、そのグロさだけが消費される。

人の人生から抽出された、壮絶さやエグさだけを並べ、その背景はよく見えてこない。

社会問題を扱うライターとして、日頃取材もする中で、消費との境界線を考えているが、一つは。「読後感としてその問題について考えるキッカケ」を与えられているかどうかが焦点だと思う。

個人の体験に終始し、背後の社会問題がずっこ抜ければ、それは残酷な消費記事になり得るのだ。

性犯罪の被害者の体験談が、エログロコンテンツとして消費されるのがこの例だ。

そしてそれにキラキラスパイスをかけ、ハートウォーミングに仕立てると、それは”感動ポルノ”へと変貌を遂げる。

当事者として、体験談を書くとき、もちろん、ある程度自らがネタになる覚悟を持って書いている部分はある。

さらけ出し、傷つく覚悟がなければ、そもそも自分の体験なんて書けない。

しかし、そこで忘れてはならないのは、n=1の問題から見えてくる社会の構造をあぶりだし、問題提起することだ。

また、ネタにしていいのは自分のことだけだ。他人について書くときは、さらに細心の注意が必要とされる。

シビアな話をすると、PVという結果が伴わなけらば、ライターとして次は呼ばれないかもしれないし、原稿料も上がらない場合もある。

しかし、そのために他人のバックグラウンドや体験を利用していないか、は毎度丁寧かつ慎重に、その確認が必要だ。

相手のバックグラウンド、体験を丁寧に寄り添い、問題提起へつなげていく。

そこで読者に自分事として感じてもらえるよう勝負する。その中でPVは、あとからついてくるものなのだ。

ホームレスや貧困層のひとと交流すること自体はおかしくないことだ。しかし相手の置かれた立場への想像力と配慮、自らの内在化した加害性に自覚的になる必要があろう。また、記事にするならまたさらなる配慮が求められる。

また、貧困などがエンタメで表現されること自体、必ずしも悪いことではない。しかし、どんな手法を使っても、最後に、受け手が問題について考えるキッカケを与えられず、単なる消費にとどまってしまったとしたら、それは敗北である。

最後に

私が貧困問題を書き始めたのは、無自覚の特権層と、貧困層のあまりの見える世界の違い、分断に絶望したからだ。

明日を生きることすら不安な、足元がおぼつかない孤独感。

あがき。

誰にも声が届かない虚無感。圧倒的格差の前に、もはや立ち尽くすしかない。

この記事を手放しで感動した、なんかほっこりした、なんて言えてしまうのは、ホームレスという属性に紐づく、そこに至るまでの言うに言えない複雑な背景や人間の尊厳を守られない日本の闇に思いを馳せる思考回路も切れていて、他者へ共感する心の深い部分が不感症になってしまっている人たちなのではないか。

日々、揺るがない(と思い込んでいるに過ぎないが)無自覚のベースに支えられた安寧を得られる立場から、痛みある他者の領域を踏み荒らせるのだろう。

どこまでも、無邪気に。どこまでも、残酷に。

西成という土地や、ホームレスという存在の特性を、視界から排除し、どこまでも透明化したうえで、自分に都合のいいものだけ見えてしまう(意図的に見ようとしている)のは、彼らが無自覚の特権層である所以、なのかもしれない。

↓当事者の声明文(2021.5.8追記)




西成区の支援先はこちらだそうです↓

今回の件でもやもやされた方はぜひ。


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東京住み、95年生まれ。自己責任論と闘うフリーライター、Spot Rightsプロジェクト代表。"無い物にされる痛みに、想像力を"がモットー。弱者の声を可視化するのがお仕事。子供の貧困、貧困の連鎖などについて。 お仕事のご依頼はTwitterのDMまで。