[一語一会 #2] 土師器
私はもう日本史のことはほとんど忘れてしまったといっても過言ではないけれど,様々な人が話している中で,あったな~そういうの!ということがかなりある.忘れてしまったというよりは取り出す鍵をどこかに失くしてしまったということなんだろう.
土師器というのは,須恵器と並んで日本の古い時代の土器として(私は習った記憶がないけれど)紹介されるものらしい.仮にそれが須恵器より劣っているものだとしても,今の時代まで残って語り継がれているということはすごいんじゃないかと思う.例えば,今私たちが使っている食器は,まぁ金属器ならある程度残るかもしれないけれど,そんなに残っていくイメージがない(残っていくのがいいことであるかどうか,は別問題だろうが).
残っていくイメージがないというのは,自分の育った境遇しか考慮に入っていないことは恐縮だが,割れたときはともかく,少しかけたら危ないからと言って新聞などにくるんで普通ゴミに捨てる人が結構多いんじゃないだろうか,ということ.今も大切な器などは頼んで次いでもらうのかもしれないが,大量生産で安いものが広がってからは,金次ぎ屋さんで次いでもらって改めて使うということはあまりないような気がしている(少なくとも昔ほどは).
もちろん金次ぎだけでなせることではないが,そうやって人の手が入って,大切にされることで,「もの」ひいては「こころ」が残り,継がれていくのだろう.
とは言ったものの,熱力学第二法則(エントロピー増大の法則といった方が一般的だろうか)から考えれば,実はそれは当たり前で,秩序を保つためには,何らかの形でエネルギーないし「こころ」を与え続ける必要がある,というのはこの世の常なのだ.福岡伸一先生があるときおっしゃっていたことが印象に残っている.生命というのは,常に自分自身を壊し続け,かつ生み出し続けているからこそ,エントロピー増大の法則に則りつつも「自分」という秩序を保つという仕組みになっている.そしてそれは地球全体の系として当てはまることなんだと.
そういった生命がコミットすることで,生命の営みとして生じたものやことが持続し,保存されていく.昨年末に訪ねた徳島の山あいにある町では,樹齢千年を超えるとも言われるクスノキの大樹が,今も町の人に大切にされていた.千年にもわたって木が残っているというのは,もちろんクスノキが強いということもあるが,その永きにわたって人々が大切にしてきたということだ(どうやら御神木的な位置づけではあったらしい).
土師器もそうなのだろう.使うというコミットの仕方ではないだろうけれど,時折思い出されては守られてきたのだろう.逆にそれによって守られてきた人々のつながりがあったり,「こころ」があったりするのだろう.
近年の私たちは,そのような営みの記憶とそれへの希望を,それこそ,取り出し見返す鍵をどこかに失くしかけているんじゃないだろうか,とふと考えた月曜日だった.
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