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[一語一会 #5] 名誉毀損

名誉も幻想である.

と思ってもよいだろうか.ハラリが時々述べている基準のようなものとしてSuffer (患う)か否かということがあるが,”名誉”も自然科学の世界ではきっと実体がないものとしてよくて,人間が作り出してきた幻想ということになるんじゃないだろうか.

人々はどのような状態であれば,名誉であると感じ,また,それが毀損されたと感じるのだろうか.歴史に名前が刻まれればよいのか,ノーベル賞とかそのような世界的(ないし国民的)な賞を受ければよいのか,それとも,生まれてきただけでよいのか,はたまた違う何かなのか.しかし,名誉毀損は法律で損害賠償の対象になっているくらいだから,きっと名誉についても法律的な定義が多かれ少なかれあるのだろう(と思って軽く調べたのだが,思ったより多様であったのでここでは諦める).

でも,今後,名誉が可視化されるということがあるのではないかと法律にもテクノロジーにも素人ながらに思っている.今はやりのNFT(Non-fungible token)がブロックチェーンを使っているように,今や個人個人に番号が振られていてデジタルデータとして使えるので,それに紐づけて”名誉”を蓄積し,可視化・公共化することができるだろうし,それを毀損されたときもその情報をもとに議論が行われていったりしないだろうか(毀損自体もデータを基軸に行われるのかもしれないが…).

それこそ”幻想”(しかもおそらく間主観的なものでもないので想像が正しいか)がここに生まれたわけだけれど,実際自分について考えてみたときにそうやって保存できるような名誉を,これまでもこれからの人生でも得ていくような感覚は正直なところない.だから,もし書いた通りになればおそらく毀損されるものも持っていないことになるだろう.

ただ,そうして考えていると,紐づけて検討できると良いかもしれない概念があることに思い当たった.「プライド」である.

私は自分がきちんと「勉強」してきているし,その点で努力も重ねてきたことに誇りを持っているし(人に自慢したいという性質のものではなく,自己満足的),多少プライドがあるといえるだろう.この点で,言葉の端々に蔑むようなニュアンスが入ってしまったり,逆にスマートさを強調してニヒリズム的な要素が顔を出したりすることがしばしばあるということは認識している.

それを完全に否定する意図はないのだけれども,例えば泥臭いやり方で,誰かから批判非難罵倒されながら,ジグザクとしても進むということも積極的に経験し,取り組んでいった方がよいのだろうな,という気もしているところなのだ.いわば,毀損されるほどの名誉も持ってないよ,ということを認知レベルでインプットしてもっと成果や本質的なことにこだわっていくべきなのではないか,ということだ.そのためには,それこそ私みたいな思考起点でなく行動起点で物事を進めていくことがよいのだろう.

”名誉”そのものが名誉毀損にならないために.

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