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井脇満敏 -親子のパラダイス-

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 宮崎駅から電車に揺られること1時間。緑と清流と温泉の町、宮崎県日南市北郷町にやってきた。無人駅となっている北郷駅から5分程歩いたところに、魚やモアイ像、二宮金次郎像などのイラストが外壁に描かれた家がある。中を覗くと、雑多な品が並ぶ庭先に2体の人型のオブジェが見えた。

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 「これは僕の両親がモデルでね、チェーンソーでつくったものなの」と中から声をかけてきたのが、作者の井脇満敏(いわき・みつとし)さんだ。

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 井脇さんの車に乗って、しばらく県道33号線を走っていると道沿いの切り開いた斜面に並ぶ無数の作品群が目に飛び込んでくる。着物姿の女性や動物に富士山、そして作業する人の姿まで…これら全て井脇さんが木を切り倒しチェーンソーで加工した作品で、「井脇アート」と命名している。

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 井脇さんは、昭和29年に3人きょうだいの末っ子として、この山の麓にある南那珂郡北郷町板谷(現在の日南市北郷町北河内板谷)で生まれた。

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 何しろ山ん中でね、オモチャなんか買ってもらえないから、ちっちゃい時から、木を使って自分でつくるしかなかった。だから、何かをつくることは昔から嫌いじゃなかったね。板谷小学校を卒業後は、バスに乗って1時間かけて北郷中学校へ通った。その頃からずっと柔道をやってて、社会人になっても5年くらいやってたかな。

 中学卒業後は、「こういう林業の仕事があんまり好きじゃなかったから」と昭和45年に大阪にある産業機械や建築材料のメーカー「クボタ」へ就職。「あの頃はみんな集団就職で東京や大阪へ行く時代だったからね」と当時を振り返る。全国から集まった様々な企業の人たちと同じ寮生活だったが、会社から科学技術学園工業高等学校へ4年間通い、高校卒業の資格も得ることができた。

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 「人波に揉まれるのは物凄く苦しかった、それでも勝ち抜いていかんとな」と井脇さんは、溶接の技術で頭角をあらわし、やがて責任者として中国を中心にカナダやアメリカなど外国にも何度か渡航。定年退職するまで44年間勤めたあとは、宮崎県日南市北郷に転居した。理由は、ひとり暮らしを続けていた母親の面倒を見るためだ。「親父との約束なんでね」と井脇さんは唇を噛み締める。

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 大正15年生まれの井脇さんの父・芳偉(よしひで)さんは、満州に戦争に行き、シベリアで捕虜になった。黒パン1個で炭鉱仕事をさせられ、雨が降ったときは、水溜りの水を飲んで飢えをしのいでいたそうだ。帰国してからは林業の責任者に従事。昭和59年ごろには、「土砂崩れやダムの建設で住めなくなるから」と集落の皆を引き連れて北郷へ転住したこともある。

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 親父は、昔から心臓が弱くてね。「動悸がして苦しくて仕方ないから」と僕が大阪に行って3年ほど経ったとき、鹿児島大学の病院で大きな手術をすることになった。助かる見込みは80パーセントで大丈夫やったんやけど、運が悪かったんやろうね。「満敏、母ちゃんのこと宜しく頼むで。絶対約束してな、俺、元気になって帰ってくるから」と手挙げて手術室に入ったのを覚えとんですよ。それが最後の姿やった。享年74歳。だから、その約束は絶対守るっていう感じ。お袋は、宮崎グランドホテルで仲居として働いててね。大阪にだいぶ呼んだんですけど、やっぱりここがいいみたいで。女房も最初は「こっちに来る」って言っていたけど、やっぱり大阪に慣れてしまうと向こうの暮らしがいいんですよね。

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 3年前にUターンした井脇さんは、母親と2人で暮らしている。帰ってきてすぐ「昔は近くに小学校もあって賑やかだったのに、今は誰もいないし、自然が好きで名残惜しいから何かしなくちゃいけないなぁ」と荒れ放題になっていた所有林の整備を始めた。そのときに、杉の木をチェーンソーで伐採してつくりはじめたのが、こうした作品群だ。

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 会社では何かつくることはやってたけど、チェーンソー使うのは初めてだったから怖かったですね。この山はずっと畑だったんやけど、僕がしないから「ほんなら、お前、杉を植えろや」いうて、親父に怒られながら、小学校6年くらいの時に杉を植えたんです。杉の木を伐採して最初につくったのは母親の姿。丸太を切ったやつを上に乗せてるだけですよね。その次に、親父、僕、京都にいる姉、2番目の姉さんと順番につくっていった。それらをお袋が見て、「もうちょっとつくったら」と言ってくれたんで、上にモアイ像をつくったり下にバス停をつくったりと広げていったんです。

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 半年ほど経ったときに、偶然通りかかった新聞記者から取材を受けたことで、だんだん見学者も増えるようになった。それに伴い、作品数もどんどん増加し、これまで約130体を制作。見上げると、斜面の上の方にも人型の作品が見える。

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 井脇さんが使うのは、ホームセンターで購入した小型のチェーンソーだけで、一切図面も書かないし下書きをしない。足元に敷いた砂利や斜面につくった道路も、たった一人で、しかも全て人力というから驚きだ。家族や親戚の顔など身近な人をモデルにした作品も多いが、切り株をそのまま利用したり木の造形を生かしたりした作品もあったりするのが面白い。

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 近年は、その技術にも磨きがかかり、貰った自転車を利用して制作した近作などは、その驚いた顔などがとてもユーモラスだ。その自由な発想に感化され、県内の著名な彫刻家もわざわざ見学に来ているんだそう。

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 そして斜面から伸びるロープにはプロペラ機が吊るされており、当初は人を乗せる計画だったらしいが、危険なので中止したんだとか。どこまで壮大な計画だったんだろう。

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 なかには、「オバケのQ太郎」や「じゃりン子チエ」、「ドラえもん」などリクエストに応じて制作したキャラクターの作品もある。体操の白井健三選手に至っては、鉄棒まで木で制作しているが「ズボンがちょっと脱げちゃってるけど」と笑って教えてくれた。

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 井脇さんは、敷地内に杉丸太を使った4畳半ほどの休憩小屋や風通しの良い「あずまや」も自作。訪れた人や家族が自由に休憩できるスペースとなっている。ここで奥さんや神奈川に住む息子家族と、カラオケやバーベキューをして楽しんでいるんだとか。近くにある木製のシーソーやブランコなどは、孫のためにつくったものだ。

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 そして道路沿いには、現在の母親の姿を模した人形や「板谷バス かあちゃん停」の文字が書かれた木彫りのバス停もある。「25時」と明記しているものの、「いつ停まるんですか」と間違える人もいるんだとか。でも、僕がこれらの作品から感じるのは井脇さんの母親に対する愛情だ。デイサービスに通う86歳の母親は、いま週に3度ほど井脇さんとここで過ごしている。

 「一日楽しく過ごせたらいいかな」とね。お袋は、僕が帰った時はボケかかってたんだけど、今はしゃんとしてますからね。やっぱり自分が生まれ育った場所でもあるんやろうねぇ。ここへ来たら生き生きしてますわ。もう目の輝きが全然違う。お袋とおんなじ年代の人たちが見学に来るんですよね、一緒に「昔はこうやったなぁ」と団欒したりするのがいいんちゃうかなぁと。お袋は、草をむしってくれたり、畑を作ってくれたり、あくまきを作ってくれたりしてますわ。肥やしなんか全然やってないけど、ここは何でも育つんです。去年はカボチャが92個なりましたよ。自然の力がすごいんやろねぇ。だから近所に配りましたよ。

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 そんな井脇さん親子の「楽園」になっているこの場所には、地域の人からの善意も集まってくる。よく見ると、「ありがとうございます」というプレートを下げてお辞儀する人形のカゴには、たくさんの小銭や缶ジュースが入っていた。見学に来た人が自然と寄付してくれるのだとか。また、作品に着せている衣装は、県内全域から多くの人が不要になった衣類をここまで持って来てくれたものを利用している。中には、大島紬の高価な着物まであるそうだ。

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 僕が写真を撮っている間にも、道路沿いに数台の車が止まり、次々と見学者がやってきた。「私に似た顔もあっこにあるわー」なんて声が下から聞こえてくる。それにしても、ものすごい急斜面だ。僕なんて写真を撮っているだけでも滑り落ちそうになるのに、よくこんな場所で作品制作が出来るものだ。

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 今ちょっと考えてんのは、電話機の古いやつがあるから、電話かけてるところとかね。だいたい1体つくるのに3時間くらいやねぇ。前はもっと時間かかって1日1個つくればいい方やったけど、もう慣れたからねぇ。「売ってください」って声もあるけど、これはボランティアでやってるもんだから売らなくて、「だったら見に来てください」と答えてるわ。

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 そうそう、桜の苗木を500本植えたんですが、予定では来年くらいから咲く見込みでね。だから、それが咲くようになると、もうちょっと有名になるかな。今後はちょこちょこ増やしていきたいけど、桜の木で見えなくなっちゃうかもなぁ。まぁ、まだ向こうにも山があるんで、つくろう思えば幾らでもね。

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 携帯電話の電波も圏外になるような山の中だが、ここでお弁当を広げて自然を満喫しながらくつろいで帰る人も多い。道路沿いに面しているため、杉林だった頃は、ゴミを投げ捨てる人が多かったようだが、今は皆マナーを守って利用してくれるんだそう。先祖代々の杉林を使った井脇さんの創作は、訪れる人に、かつての郷里を呼び起こさせる。そして、使われている衣装も全て誰かが着用した思い出がたっぷり詰まったものだ。

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 こうした組み合わせが、ちょっと不気味でユーモアたっぷりな造形にどこか懐かしさと優しさを与え、人々を自然と呼び寄せているのだろう。「やって良かった。自分も楽しくなるし、他の人とも会話が弾む。まぁ、一度っきりの人生ですから」と井脇さんは楽しそうに笑う。その背後で少しずつ侵食していく不思議な「井脇アート」の世界が、次に訪れた時には、さらに大きなテーマパークになっていることを期待しつつ、僕は帰路につく。

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<初出> ROADSIDERS' weekly 2017年6月7日 Vol.262 櫛野展正連載





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