長谷川 千幸「人生の劇場」
1.バルーンアートのきっかけ
「昔、『TVチャンピオン』という番組で放送されていた「全国バルーンアート王選手権」を観て、『私もやってみたい』と思い立ったんです。その番組の優勝者が同じ福岡在住だったので、すぐに師事して習いに行きました」
そう話すのは、福岡市在住の長谷川千幸(はせがわ・ちゆき)さんだ。
1998年、自身が携わるデザイン会社のなかにバルーン事業部として「バルーンハウス」という名の店舗をオープンした。
2014年には、世界公認バルーンアーティストの資格取得し、各地でバルーン教室などを開催している。
「デザインの仕事って企業相手が中心なので、良いものをつくれば喜んでいただいているんですが、本当に伝えたい相手に届いていない気がして、悶々としていました」
そんな想いを抱いているとき、長谷川さんはバルーンアートに出会った。
その根底にあるのは「誰かを喜ばせたい」という思いのようだ。
いったい、なぜ彼女はそうした想いを抱くようになったのだろうか――――。
2.将来の夢は
長谷川さんは、1967年に2人姉妹の長女として生まれ、幼稚園などの発表会が大好きな子どもだった。
小さい頃からバレエ教室に通い始め、将来の夢は、バレリーナかダンサーになることだった。
「妹が生まれたとき、『また女か』と父が愚痴をこぼしたことを、幼い頃に、母から聞いたんです。父はどうやら男の子を望んでいたようなんですよ。それを聞いて、父のために『男の子になろう』と決意しました」
大好きな父に喜んでもらおうと、髪を短く切り、スカートを履くのもやめた。
そして男の子のように、父とキャッチボールもしてみたが、どうもしっくりこなかったようだ。
自分なりに「男の子」になる努力を続けていくなかで、近所に住むバイク乗りの青年と仲良くなった。
彼のバイクの後部座席に乗せてもらううちに、オフロードバイクにまたがって、子ども向けのレースにも出場するようにもなった。
転機が訪れたのは、小学校4年生の夏休みのこと。
その男性が運転するバイクがカーブを曲がりきれずスリップして転倒。
男性は怪我を負ったが、後部座席にいた長谷川さんは、幸い軽い打ち身で済んだ。
ところが、しばらく経って歩行時に膝の皿が外れて痛みを感じるようになり、病院を受診。
「調子が悪いときは膝の皿が外れてしまうんですが、自然と戻ってしまうので、病院での診断が難しく、しばらく病院を転々としていました」
通院の結果、両膝にある皿の骨が小さなきっかけや外力で脱臼をくり返す「反復性膝蓋骨脱臼」になっていると診断を受けた。
3.あたらしい夢
12歳で初めて左足を手術したが、改善せず、半年後に2度目の手術を行った。
16歳のときには右足を、19歳で再び左足にメスを入れるなど、これまで4度の手術を繰り返してきた。
「バレエを習っていたとき、先生から『体が柔らかく素質がある』と褒められていたんですけど、いま考えると筋が柔らかく外れやすい体質だったのかも知れません。激しい運動ができなくなって、階段を降りるときはいまでも気を使います。入院したときも、病院が父の職場の近くだったから、昼休みのたびに父がお見舞いにてくれたんですよね。ポロッと口が滑って『お父さんのせいよ』と言ってしまったことがあるんです。そのとき、父が『アホか、男でも女でも、子どもは子どもやん』と言ってくれて嬉し泣きしたことを覚えています。踊ることができなくなって、夢を諦めざるを得なくなってしまいましたが、すぐに別の夢ができたんです」
初めて12歳で整形外科の子ども病棟へ入院したとき、病室で絵を描いていたら他の子どもたちが集まってきて、一気に人気者になった。
このときの経験から、「将来は絵を描く仕事に就いてみたい」と思うようになったそうだ。
中学校卒業後は、福岡市内にある九州産業大学付属九州高等学校のデザイン科へ進学した。
デザインや陶芸などの実技を学び、卒業したあとは2年間専門学校へ行く予定だったが、膝の手術のため1年で退学。
市内の広告代理店で3年ほど働いたのち、23歳ごろにフリーランスとして独立を果たした。
「その頃はパソコンも普及していなくて、手描きでポップや看板を描いていたので、よく仕事が入ってきていました」と当時を振り返る。
4.増え続ける借金
収入が増えてくると長谷川さんの周りには多くの人が寄ってくるようになった。
ところが、それは彼女にとって良い面ばかりではなかったようだ。
「実は26歳のときに、お金を上手く回すことができず2000万円ほどの借金を抱えていたんです。色々な人が頼って来たんですが、なかには『お金を貸してもらえなかったら死ぬしかない』と訴える人もいて、たくさんの人にお金を貸していました。借金が膨らみ、いつもどうやって死のうかと考えていました。その頃に付き合っていた現在の主人にも告げることができず、昼間は主人と一緒に会社を立ち上げる準備をして、夜は内緒で弁当製造の会社へ働きに出ていたんです」
夫からプロポーズをされたとき、借金のことを打ち明け、どうやったら早く返済できるかを共に考えていくようになった。
簡易裁判所に行って債務整理を実施し、やっと借金が無くなってきた32歳ごろに結婚。
「借金を抱えていた頃は、同居していた両親に私が夜働きに出ていたことがばれないように、家を出てマンションを借りて生活するようになったんです。そういうのも無駄な出費となって、余計に借金を返済するのに時間を要してしまいました。途中で両親に借金のことを告げて、父は退職金を前借りして援助してくれたんですが、あのときは本当に迷惑をかけてしまいました。私は長女だったこともあって、いつも『しっかりしている』と思われ続けていました。だから、すぐに両親へ借金のことを告げることができなかったんだと思います」
5.いつも気合と根性で
そして1996年には夫を中心に広告デザインや印刷、イベントなどを行う会社「I・WA・MI株式会社」を設立。
10年前からは、別事業として、「いつ障害者になってしまうか分からないし、そうなったときに社会復帰できる場所をつくりたい」と障害のある人たちが働くことのできる場である「芙蓉 株式会社」をつくった。
「会社経営は大変ですが、苦労して借金返済した経験があるので少々のことでは動じず頑張ることができています。バイク事故で入院したことが、結果的にデザインの道を志すことに繋がっているなど、自分の人生のなかでそのときは分からないんですけど、あとになって『こういうことのために過去があるんだな』と思うようになってきました」
長谷川さんは子どもの頃のバイク事故で、結果的にある種の「障害」を負ってしまったわけだが、発する言葉の端々から後悔は感じられない。
もちろん僕らだって、突然に事故や病気によって「障害者」となってしまう可能性を秘めている。
考えてみると、病気や老いにより、多くの人がいずれ「障害者」となってしまうはずなのだ。
それなのに、いつも僕らはその来たるべき日から目を背け続けている。
それに比べて長谷川さんはどうだろう。
これまで、手術や借金など幾多の困難に襲われることがあっても、最後は前を向いて、父親の口癖だった「気合と根性」でその壁を乗り越えてきた。
その姿に、やがて周囲の人たちは救いの差し伸べるようになり、彼女はたくさんの仲間を増やしてきた。
そして、まるで自分を助けてくれた人たちに恩返しをするかのように、バルーンアートなどで多くの人に笑顔を振りまいている。
バレエダンサーという夢の舞台に立つことはできなかったけれど、もっと大きなステージで彼女はいまもスポットライトを浴び続けている。
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