見出し画像

榊原 敏満「少年漫画のように」

1.その男、JIME(ジメ)につき

知多半島の中央部に位置する愛知県半田市。

古くから続く醸造業や工業、知多酪農発祥の地として全国的に知られている。

名鉄河和線の成岩駅(ならわえき)から徒歩15秒ほどの場所に赤い看板を掲げたPublic Space JIMEという店舗がある。

画像10

この店を20年ほど経営しているのが、JIME(ジメ)こと、榊原敏満(さかきばら・としみつ)さんだ。

画像4

「ジメってのは、小さい頃からのあだ名で、『自由の女神に愛された男』って意味。ほら、『ゆうのがみに愛された男』で『ジ』『メ』。でも本当は、小学校3年生のときに遊んでた缶蹴りの『缶』の『缶づめ』『缶じめ』って間違えたことからなんよ」

ここ半田市で生まれ育って来たという榊原さんだが、いったいどんな半生を歩んできたのだろうか――――。

 

2.  白球を追いかけた日々

「うちの母ちゃんが安城市にある実家の喫茶店でアルバイトをしてたんだけど、みんなから人気があったみたい。長距離トラックの運転手をしてた父ちゃんと恋に落ちてトラックの荷台でできたのが俺なんよ。父ちゃんは喧嘩っ早くて東京まで荷物運ぶのに途中で3度も喧嘩してるような人で、小学校のとき、助手席に乗せてもらったら、いまでいう『あおり運転』をガンガンにしようたわ」

1974年に3人兄弟の長男として生まれた榊原さんは、小学校3年生から野球に熱中した。

キャプテンとしてチームを率いていたこともあるようだ。

画像11

中学1年生のときには、右投げ右打ちだったが、あるときからどれだけ打ってもフライしか打てなくなってしまった。

ボールの下をバットが擦っていたことが原因だが、当時はその理由を知る由もなかった。

試行錯誤の末、中学2年生からは左打ちに変更したものの、やはり結果は同じだった。

進路を決める時期になり、野球をするためにベスト16に入ったこともある学校を選んだものの、いざ高校に入学してみると「才能ないな」とあっさり野球を辞めてしまった。

「野球を辞めて髪の毛伸ばし始めたら、白球じゃなくて女の子を追いかけだした」と当時を振り返る。

画像7

高校時代、授業を抜け出してはパチンコに行くなどして、本人曰く「無駄な時間を過ごしていた」という榊原さんは、大好きだった尾崎豊に憧れて、学校への不信感の在り様を自分なりに模索し、突然「学校を辞める」と宣言した。

しかし、3学期の高校卒業間近だったため、「馬鹿か、お前は」と親友らに止められ、なんとか卒業することができたようだ。


3.上司からの助言

「高校のとき、隣の席の女の子が、トヨタグループの自動車部品メーカーに就職が決まって、『会社も綺麗だし週休2日で給料も良い』って話だったから面接を受けてみたら受かったのよ」

ちょうどその頃、「やんちゃをしてた」という2歳下の次男がバイク事故で突然他界

画像12

喧嘩ばかりしていたという弟の死は、榊原さんにとって相当ショックが大きかった。

そして、いざ就職してみたものの、若気の至りからか、流れ作業の工程で他のスタッフに怒ってしまうことなどが続いた。

あまりにも会社の環境が整いすぎていたため、榊原さんは自分の存在意義をそこに見出すことができなかったようだ。

そして1年ほどで退職を決意。

『会社を辞めたら俺みたいになれないぞ』と当時の課長が引き止めてくれたんだけど、『お前みたいになりたくないんじゃ』と啖呵を切って辞めたんよ」


4.逆境をバネに

退職後は、1年ほどパチンコなどで食いつなぎ、知人の誘いを受けてパブで働き始めた。

7ヶ月でチーフに昇格し、その後は店長を任されることもあった。

1999年には、店のお客さんと結婚し、子どもを授かることができた。

弟夫婦と3 世帯で同居していたが、ある日、弟夫婦の定期預金が勝手に下ろされる事件があり、警察に調べてもらったところ、防犯カメラに妻が預金を引き下ろす姿が映っていた。

画像14

その一件が引き金となり、2年で離婚。

離婚前になると前妻の借金は膨れあがっており、ついには働いていた店舗にも取り立ての電話が頻繁に掛かってくるようになり、「これ以上、店に迷惑を掛ける訳にはいかない」と辞表を提出。

離婚後も前妻が借金をし続けていたため、両親にも「やっぱり孫は可愛いと思うけど、もう死んだことにしてくれ」と、縁を切ることを告げた。

そうした経緯を経て、2000年から現在の地に「Public Space JIME」をオープンしたというわけだ。

画像3

妻の借金の影響で、親戚に借りるなどしてお金をかき集めたが、それでも内装費200万円が不足していたため、同級生の女性に出資してもらい、共同経営という形で運営を始めた。

当初は、スナックとメンズパブというミックスバーの形態で運営していたが、運営時間や形態を時代が求める形に変化させつつ店の進化を続けている。

画像10

店をオープンしてからは2度目の結婚を果たし、2人の子どもも授かり、公私ともに順風満帆のようだ。


5.生き残るために

飲食店に行ったことがない人はいないくらい、飲食業界というのは僕らにとって身近な存在と言える。

裏を返せば、それだけ挑戦しやすい場にもなっているが、その半数は3年以内に潰れているのが現状だ。

例えば、家の近所にオープンした一流料理人の店でも、しばらく経って閉店してしまった事例は星の数ほどあるだろう。

画像13

もちろん料理などの販売商品が魅力的であることは重要な要素かも知れないが、それよりも店舗が利益を上げるために必要なのは経営者のビジネスセンスだろう。

料理や接客だけでなく、どうすれば利益を生むことができるかを常に考えておく必要がある。

実のところ、その思考を続けている店舗だけが長い間、生き残っているのだ。

2000年11月に誕生した「Public Space JIME」は、既に20年も経営を続けている。

画像9

榊原さんは、この間、商工会議所や青年会議所の団体組織にも所属し、自己研鑽を続けてきた。

「その当時は、尾崎豊が好きだったこともあって、集団で群れずに孤独でやっていきたいって思ってた。ひとりでやったほうが格好良いしね。でも、知り合いが何度も誘ってくれて入ってみたら、自分が井の中の蛙だったってことが分かったんよ。青年会議所の世界会議でブラジルへ行ってからは、地球が小さく見えてきたよね。そのときから『冒険家』って肩書きを名乗りだしたわけ」

画像4

夜に店舗をやっているため、昼間にそうした会議などへ出席するためには店を休んだりしなければならない。

最初はそれを断る理由にしていたが、やがて会議所で役職などを任されるようになってからは、アルバイトなどを上手く使って自分が抜けてもお店を回すことのできる環境を整備していった。

このときに青年会議所など出逢った仲間は、いまでも大切なこころの支えになっているそうだ。


6.少年漫画のように

そして、2003年頃には父が食道がんで他界した。

弟と父という2人の身内の死を経験した榊原さんは、彼らの分まで生きることを胸に刻んだ。

決めたことは、どんなときでも「NO」と言わないこと。

「死んだ彼らは文句も言うことができないから」と何事に対しても常に前向きな姿勢で望むようになった。

近年は、新しく若者が挑戦することのできる場として、「#カラフル」というレンタルスペースもオープン。

画像7

コロナ禍での経営は大変なようだが、常に前向きな榊原さんには、もはや期待しか無い。

画像6

「今日は、昨日の自分より成長したい」と語るその瞳は、まるで少年漫画の主人公のようだ。

「ごめん、ちょっとオシッコ行ってくるわ」

画像5

突然に話を中座し、画面から姿が消えた。

何より裏表がないのが榊原さんの魅力なのだろう。


※5枠完売しました。

※10枠完売しました

※10枠完売しました

※15枠完売しました

※25枠完売しました

※25枠完売しました




よろしければサポートお願いします。 取材のための経費に使わせていただきます。