樫木 美喜恵「助け合いの果実」
1.幻の果実
和歌山県の南部に位置し、古くから水陸交通の要衝として栄えてきた西牟婁郡上富田町(にしむろぐんかみとんだちょう)。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の中辺路入口にあることから「口熊野(くちくまの)」と呼ばれてきた。
この町の木として指定されているのが、独特の酸味と甘さを感じさせてくれる赤い果実、やまもも(山桃)だ。
見た目は小さくて可愛い果物だが、収穫のタイミングが非常に難しく、日持ちがしにくい果物のため、「幻の果実」という異名さえある。
この「やまもも」を使ってジャムやジュースなどを製造することで、まちづくりを行っているのが「口熊野かみとんだ山桃会」代表の樫木美喜恵さん(かしき・みきえ)さんだ。
2.将来の夢は
樫木さんは、1971年に和歌山県中南部に位置する田辺市で、3人姉弟の長女として生まれた。
小さい頃は、おとなしく自分から前に出るようなタイプではなかったが、子ども会の会長や学級委員に任命されるなど、何らかの役を任されることも多かったようだ。
小学校の文集に書いていた夢は「スチュワーデスになりたい」だったという。
「スチュワーデスになって、プロ野球選手と結婚してお金持ちとになることが夢だったんです」と笑う。
音楽が好きで、幼稚園からはピアノを習っていたこともあり、中学・高校時代は、ブラスバンド部に所属した。
「中学高校もおとなしい性格だったんですが、いろんな役だけはやらされていたんです。友だちと群れて人の悪口を言ったりするのが嫌だったので、良い子ぶってたわけじゃないけど、誤解されて一匹狼のように見られることがありました。だから、学生時代はあまり良い思い出がないんです」
高校3年生になって、いろいろな大学を受験してみたものの、合格することができず、唯一内定通知が届いたのが市役所だった。
ところが、そこで働く気がなかった樫木さんは、4月になって慌てて進路先を探し、スチュワーデス科のあった大阪の外国語専門学校へ進学。
英語だけでなく、化粧の仕方や接遇マナーなどを学んだ。
「初めてのひとり暮らしは快適で、すぐに友だちもできました。ただ、朝起きることができなくって、『昼からしか学校に来ない人』と思われていたようです。だから1年生のときには、既に単位が足りない状態で『卒業できないよ』と言われていました。『就職したら卒業させてあげる』と言われてたんで、学校の就職支援課へ相談に行ったら、その場で電話してくれて採用が決まったんです。卒業するための課題は、何人かの友だちが手伝ってくれて、当時の友たちとは今でも仲良しなんです」
3.社会人としての日々
学校からの斡旋で2年次の9月から大阪の港湾運送業者で働くことになり、商社への営業や通関などが樫木さんの仕事だった。
男性優位の会社であり、女性にとっては安心して長く働くことのできる職場環境ではなかったため、5年半ほど働いて「そろそろ潮時かな」と退職した。
「退職金もあったし1ヶ月ほど遊ぼうと思ったんですけど、じっとしてることができない性格で、1週間ほど経ったら働きたくてウズウズしてきたんです。前職の系列会社の人たちとも飲みに連れて行って貰ったりしていたから、そういった伝手で大阪の海運会社の派遣社員として働くことができるようになりました」
船員のパスポートを持って通関手続きの手伝いをしていたが、めったに船が来ることなどなかったため、とにかく暇だったようだ。
働きたくて仕方なかった樫木さんは、次第に物足りなさを感じるようになり、1年も経たないうちに退職。
「そう言えば、どの会社に行っても旅行の手配や接待など何らかの役割をやらされることが多かったんです」と当時を振り返る。
その後は、求人情報誌を見て、大阪市内にあったゲームや玩具の仲介会社へ就職した。
男性社長以外は、20代後半の樫木さんを入れて3名の女性スタッフという小さな会社だった。
ところが、働いているうちに社長と折り合いが悪くなり、女性スタッフ3名が揃って退職。
どの仕事も続かないことを危惧した樫木さんは、「休みの日には海外旅行にでも行けるように」と短期間の派遣の仕事を続けていくことを決意。
大阪でさまざまな仕事に携わっていたとき、転機は訪れた。
大阪商工会議所で働いていた際、手足に痛みを感じるようになり、上司の指示で通院したところ、「慢性関節リュウマチ」と診断を受けた。
4.子育ての中で
29歳で実家へ帰郷し、入院。幸いにして薬が効いたのか、1年ほど経つとすっかり元気になったようだ。
動けるようになると、再び樫木さんのなかで「働きたい」という意欲が湧き出てくるようになった。
英会話教室の受付業務の仕事を見つけて、就職。
「英語は全く喋れなかったんですけど『喋れる』と嘘ついて採用されたから、必死になって英語を勉強することにしたんです。教室の外国語教師の彼女が通っていた英会話サークルへ足を運ぶようになり、そこで4歳下になる現在の旦那と知り合ったんです」
35歳のときには、5年働いた英会話教室を寿退社し、2人の子どもを授かった。
結婚を機に上富田町へ移住し、夫が携わる産業廃棄物処理業者の仕事を手伝うようになったというわけだ。
2人の子どもを育てていくうちに、樫木さんは行政の子育てに関する支援や保証が母親目線で見ても不十分だと感じるようになり、意見書などを提出してみたものの反応もなかった。
5年ほど前に、知り合いを通じて「観光コンシェルジュ」として町役場で勤務を始めた女性を紹介してもらったことで、樫木さんは「手伝えることがあったら何でも手伝います」と協力を申し出た。
「そうは言っても何して良いか分からなかったんです。行政が、いつもできない理由のひとつに資金不足をあげてたから、町でお金が入ってくる仕事を生み出せるようになれば何か変わるんじゃないかと思うようになりました。そんなときに、町の木が『やまもも(山桃)』だってことを教えてもらったんです」
5.賽は投げられた
樫木さんは「一緒にやらへん?」と仲間に声を掛け、2015年8月には「口熊野かみとんだ山桃会」を結成。
「観光コンシェルジュで一緒に活動していた女性も任期が終わっていなくなちゃったので、いつの間にか私が会の代表になっていたんです」と微笑む。
やまももを使ってシロップやジャム、飴などの商品開発を進め、特産品としての販路拡大に向けてホテルや空港などへの営業を続けている。
今後は、町の耕作放棄畑にやまももを植樹する計画もあるようだ。
さらに、町にある唯一の無人駅である朝来駅(あっそえき)の構内にある「口熊野かみとんだ観光案内所」の委託運営をしたり、「こども用品のおさがり会」を開催したりと、町のために樫木さんは走り続けている。
「みんなが生きやすい世の中になれば良いなと思って活動を続けています。肩肘張らなくて良いから、私のように好きなことをすれば良いんですよ。そういうことが許される社会になれば良いなと思っていますね」
そう語る樫木さんは、やまももの実の収穫の際、少しでも社会と接点をもってもらうために、あえて障害のある人や引きこもり経験のある人にも仕事を頼むようにしている。
「活動を続けることが私自身の自己実現にも繋がっているんです。ときには偽善的と言われることがあるかも知れないけど、募金しないよりはしたほうが良いですから。行動しなければ始まらないことってあるんですよ」
お話を伺っていくなかで、詩人の江口榛一による「地の塩の箱」の運動の話が頭をよぎった。
「地の塩の箱」とは、黄色いペンキが塗られた巣箱の大きさの募金箱で、金銭的に余裕のある人が箱にお金を入れ、困っている人が自由にお金を取り出すことができるというシステムだ。
「もはや戦後ではない」と言われた1956年に始まったこの運動は、最盛期には700箱以上が全国で設置され、海外でも設置されたという報告もある。
性善説に基づいたこの運動は、残念ながら衰退してしまったが、街の人たち互いに助け合うというこの相互扶助のシステムは、きっと樫木さんのような活動に引き継がれているのだろう。
上富田町という小さな町から始まった活動が「地の塩の箱」のように大きなムーブメントに広がることを、僕は期待している。
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