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蒲生 弘明「それは、ワインのように」

1.店名を変えてしまった男

「オステリアレガーメって、その店名、めちゃくちゃ覚えにくいんすけど。神楽坂でイタリアンのお店を探す人は、『神楽坂 イタリアン』で検索するので、店の名前を『神楽坂イタリアン』に改名してしまえば、神楽坂でイタリアンを探している人を丸っと誘い込めるんじゃないですか」

キングコング西野亮廣さんから、そう言われて、すぐに自身の経営する店舗を「神楽坂イタリアン」に改名してしまった人がいる。それが神楽坂でイタリア料理店を営む蒲生弘明(がもう・ひろあき)さんだ。

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「タクシーの移動中に西野亮廣さんのコンサルを受けたんですが、最初に聞いたときは正直『かっこわる』と思ったんです。難色を示したら、車内がピリついたことを覚えています。でも、タクシーを降りてから『わざわざ西野さんの時間を奪ってまでアイデアを出してもらったんだから、絶対面白いことをやったほうが良いじゃん』と思うようになってきて、翌月にすぐ『オステリアレガーメ神楽坂』から神楽坂イタリアンに改名したんです」

ロゴを変えたり改名した旨をお客さんに伝えたりと、そのあとの手続きが大変だったという蒲生さんだが、ここ至るまでの道程がまた面白い。

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2.良い大学を目指して

1973年に、東京都大田区蒲田で2人兄妹の長男として生まれた蒲生さんは、小さい頃は、人見知りで人と接することが苦手だったという。

ちょうど蒲生さんが生まれたのは、毎年200万人以上が出生した第二次ベビーブーム、いわゆる「団塊ジュニア」と呼ばれる世代だ。

競争時代を経験した団塊世代の人たちの教育も影響して受験戦争が活発化した時代で、蒲生さんも母親から、「良い大学へ入って欲しい」といつも告げられてきた。

10歳ごろから塾に通い始め、中学受験を経て、横浜市にある中高一貫校へ進学。

ちょうどその頃と言えば、1980年代後半に起こった「第二次バンドブーム」が日本中に旋風を巻き起こしていた時代だ。

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蒲生さんもバンドブームの洗礼を受け、友だちとバンドを組んでエレキギターを弾いたり洋楽を聴き漁ったりしていた。

そのため成績は上がらなかったが、高校へ進学して勉強のコツを掴んでからは、一気に成績が急上昇。

気づけば、学年トップにまで昇りつめていた。

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そのままの勢いで、卒業後は日本大学法学部法律学科の法職課程へと進んだ。

弁護士や裁判官などを目指す人が多く在籍するコースで、偏差値も相当高かったようだ。

「法律には全く興味がありませんでした。10歳の頃から、親の言うことを聞き続け、まるで洗脳されたかのように勉強してきましたから『トップのところに行ったんだから文句ねぇだろ』という思いがあったんです。だから、入学した途端に『もう務めは果たした』と思って、バンド活動に専念しましたね」


3.料理人への憧れ

目指していた大学へ入学したことで、目標を見失ってしまった蒲生さんは、「法律に興味が無かったから勉強は面白くないし、俺はいったい何がしたいんだ」と悶々と考える日々が続いたという。

お好み焼き屋や居酒屋など飲食店でのアルバイトを続けていくうちに、転機は訪れた。

「大学3年生のとき、テレビ番組『料理の鉄人』が大ブームで、フランス料理のシェフが店にやって来て、憧れを抱いたんです。『料理人になろう』と決めて、すぐに大学へ退学届を出しちゃったんです。やりたいと思ったらすぐやらなきゃ気が済まない性格だったんですけど、母親はそのあと何ヶ月も口を利いてくれませんでしたね」

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小さい頃から料理をしてきた経験もない蒲生さんにとって、専門学校へ行くことも考えてみたものの、『時間をロスしている暇はないから』と就職を決意。

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そのシェフが勤めていた千葉のリゾートホテルで住み込みとして働き始めた。

「意気揚々と入ってみたものの、居酒屋で少し料理をかじったくらいでは全く歯が立たないことがすぐに分かりました」と当時を振り返る。

それでも蒲生さんは辞めることなく、働き続けた。

根底には、アルバイト時代に自分がつくった料理を、お客さんから「美味しい」と褒めてもらった喜びがあるようだ。

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働いていくうちに、「もっとレベルの高い東京に勤めてみたい」と思うようになり、4年で退職。


4.「死」が頭をよぎっていた

東京へ戻ると、当時、フランス料理の代わりに流行していたのが、イタリア料理だった。

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「イタリア料理店を新規出店する」ということを聞き、居酒屋やレストランを中心に展開する大手外食チェーン店へと就職したが、「その店は22歳までしか働けない」と通達を受け、同じく流行っていたダイニングバーの店舗で働き始めた。

夢を抱いて入社したものの、店の業務効率化とコストダウンを図るためにセントラルキッチン方式が導入されており、蒲生さんが調理できるのはほんの僅かな部分だけだった。

しかも少ない社員で多くがアルバイトという雇用形態だったため、蒲生さんいわく「やりがいのない仕事で、いつまで経っても仕事が終わらない状態」だったと言う。

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「毎日20時間労働なんて当たり前で、通勤で往復2時間掛かっていたから、その時間さえも惜しくって店に寝泊まりしていました」

当時は周りも相談できる人もおらず、身体は限界を迎えていた。

他店も同様の状態で、逃げ場さえなかったようだ。

料理人としての糧にさえならない毎日に、ついには「死にたい」という希死念慮さえ抱くようになった。友だちにポロッと「死にたい」と告げたところ、「だったら辞めればいいのに」と返事が返ってきた。当時は、退職の選択肢さえ気づかないくらい精神的に追い込まれていたようだ。

「次の日に上司へ辞表を提出したら、めちゃくちゃキレられて『家行くから待っとけ』と脅されました。『来れるもんなら来てみろ』って喧嘩して辞めましたよ」

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この一件で、料理の道に嫌気が差してしまった蒲生さんは、父が社長を務めていた冷凍食品の卸売会社で働き始めた。

ルート営業として働き、50店舗ほどのカラオケチェーン店の配達を担当していたが、店舗を拡大し続けるカラオケ店に対して、次第に会社の営業業務が追いつかなくなっていくのを感じた。

そのカラオケ店からの収入が売上の大半を占めていたため、「今後もカラオケ店からの売上に頼り続けるんだったら、もう仕事を続けれない」と2年ほどで退職。

その後、店舗拡大したカラオケチェーン店は、蒲生さんの予想通り、父親とは別の会社へ契約を鞍替えしたそうだ。


5.ワインを極めるために

再び料理人としての道を模索し始めた蒲生さんは、新橋にあるイタリア料理店へ就職した。

既に28歳となり、料理人としては遅い再スタートだった。系列会社間で数店舗の異動を経験したあと、最初に働いていた千葉のリゾートホテルで総料理長をしていた男性から「独立して洋風居酒屋をオープンするから手伝ってくれ」と誘いを受け、承諾。

その店舗がワインに力を入れることになったが、誰もワインの知識を持っている人はいなかった。

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そこで、お酒が苦手だったが、自腹を切ってワインスクールに通い、ソムリエの資格を取得した。

働き始めて2年ほど過ぎた頃、2店舗目の経営が下り坂となり、店の借金は膨らみ、蒲生さんはリストラ対象になってしまった。

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「リストラになったとき、独立するために貯めていた貯金のことを思い出したんです。以前、乗っていたバイクと車が接触事故を起こして脾臓(ひぞう)が破裂して出血多量で死にかけたことがありました。そのときに多額の慰謝料が入ってきたんです。『せっかく助かった命だから、何でもやりたいことやったほうがいいじゃん。このお金で店をやろう』と思うようになりました」

蒲生さんは独立にあたって、「融資のときに、自分の名刺代わりになるような店舗に勤めていたほうが良いのでは」と考えるようになった。

そして、五反田の有名イタリアレストランに就職し、シェフとして3年ほど勤務した。

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「働いているうちに独立することを忘れていたんです。嫌な上司がいて、ずっと我慢していたんですけど、38歳のとき、溜まっていたストレスが爆発して『てめぇとは働かねぇ』と啖呵を切って辞めちゃいました」と笑う。

当時、子どもはまだ4歳で、突然の辞職に専業主婦だった妻は大激怒。

当然だろう。

勢い余って「独立するから大丈夫」と妻に宣言してしまったことから、そこから本腰を入れて、アルバイトをしながら物件探しを始めた。

そして2013年3月末、牛込神楽坂駅のすぐそばに念願の店舗をオープンしたというわけだ。

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6.それは、ワインのように

当初の店名は「オステリアレガーメ神楽坂」で、「オステリア」はイタリア語で「居酒屋」のような店舗のことを指し、「レガーメ」とは同じくイタリア語で「絆」や「繋がり」を意味する言葉だ。

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「これまで色々な人に助けられてきて、繋がりの大切さを痛感していたので、この店名にしました。でも、1年ほどは無収入だったんです。なんにも知名度がない状態でしたし、喧嘩して色んなものを断ち切って始めたお店だったのでね。今とはなっては間違いだと分かるんですが、当時は『美味しい料理さえ提供していたら、自然とお客さんも増えるだろう』と勘違いしていたんです」

「つくるだけでは駄目だ、お客さんに食べてもらってからが勝負なんだ」と気づいた蒲生さんは集客の勉強を始め、チラシを出したり来店してくれたお客さんにお礼の葉書を書いたりと地道な努力を重ねていった。

ところが、そうした集客のノウハウも他店舗に真似されるようになり、蒲生さんは行き詰まりを感じていた。

そんなときに偶然手にした西野亮廣さんの著書『新・魔法のコンパス』を読んで一気に引き込まれ、オンラインサロンへ入会。

そして、コンサルへと繋がっていった。店舗の改名に対して、なじみの客からは反対の声があがることもあった。

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「『なんで変えるの』『せっかく格好良い名前だったのに』と散々言われました。『じゃあ、店の名前が格好いいから来ていただいているんですか』と言ったら、全員静かになりましたよ」

改名は話題となり、過去最高の売り上げにも繋がった。

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コロナ禍の現在は、収入が激減しているが、蒲生さんは諦めてはない。

「西野亮廣さんに命名して貰った『神楽坂ショコラ』といオリジナルのチョコレート菓子を通販しようと計画しています。将来的には、神楽坂土産の代名詞にしていきたいですね」

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「神楽坂イタリアン」は、105種のワインボトルと15種のグラスワインを楽しむことができる料理店で、蒲生さんがゲストの好みと料理に合わせて奨めるワインの相性は好評を得ている。

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振り返ってみると、ワインだけでなく料理や勉強など、蒲生さんは常に何かに挑み、それを極めようと努力してきた。

そして、思い立ったらすぐに行動に移すというその俊敏なフットワークこそが、それを支えてきた。

僕らは大人になればなるほど、「安定」を求める傾向にあるため、どうしても行動力が低下してしまう。

しかし、蒲生さんの姿勢から、「新しいことを始めるのに遅すぎるということはない」ことを教えられる。

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ワインが酸素と触れて化学反応を起こすように、蒲生さんの挑戦も、また何かと出逢うことで進化し続けていくに違いない。


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