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松田 牧人「道を照らす人」

1.ある教会の話

宮城県中央部に位置する人口35,000人ほどの町、宮城郡利府町。

駅から徒歩3分ほどの場所に、「オアシスチャペル」という教会がある。

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ここで牧師をしているのが、松田牧人(まつだ・まきと)さんだ。

1999年よりこの教会で牧師として携わり始めたというから、今年で22年になる。

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当初、牧師になるつもりは無かったと語る松田さんだが、どういった経緯でここに辿り着いたのだろうか――――。


2.牧師の子どもとして

松田さんは、1976年に、宮城県北西部に位置する大崎市で4人兄弟の長男として生まれた。

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クリスチャンの家庭で、父親は牧師(のちに大学教員と兼務)をしていた。

「小さい頃は、知的好奇心が旺盛な子どで、図鑑を見たりテレビを観ても『それってどうなっているのだろう』といつも考えたりしていました。ただ、父は各地の教会を巡って仕事をするタイプの牧師だったので、引っ越しも多かったんです」

父の異動により、幼稚園から小学校5年生のときまでは神戸で、小学校6年生から高校卒業までは札幌で過ごした。

松田さんの学生時代といえば、1980年代後半に起こった「第二次バンドブーム」が日本中を席巻していた時代だ。

松田さんも大きな影響を受け、ハードロックやヘヴィメタルを経て、ブラックミュージック、そしてリズム・アンド・ブルースやスムースジャズなどを聴き漁るようになった。

とくに高校生になってからは友だちとバンドを結成し、ボーカルとして歌ったり曲をつくったりもした。

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そもそも「ロック」とは、既成概念や体制に対する反抗心や怒りを強く表現した音楽とされてきた。

当時10代だった松田さんは、「親の愛情も感じていたし恵まれた環境だったけど、親の都合で引っ越さなきゃいけないことが嫌でした。常に窮屈さを感じていて、牧師になるつもりもなかったんです」と語る。

2020年の『宗教年鑑』によれば、キリスト教徒は約190万人。

日本の総人口が1億2602万人(2020年1月)のため、クリスチャンは1.5%程度となる。


宗教としてはよく知られているが、人数としてはまだまだ少ないのが現状だ。

例えば、日曜日ともなれば礼拝があるため、一般家庭のように家族で出かけることも難しいだろう。

そうした環境から逃れるように、松田さんはいつからかバンドマンを夢見るようになった。


3.キリスト教の奥深さ

高校卒業後は、宮城県仙台市のミッションスクールである東北学院大学へ進学。

文学部に入り、キリスト教を学んだ

「当時は札幌にいて、音楽の専門学校や大学に行きたかったんです。でも、お金もかかるし音楽方面に進む大義名分もないので、両親が望む学校へ進んで、そこでバンド活動に専念しようと思っていました。親元を離れて『キリスト教の勉強をしている』といえば、親も納得すると思っていましたから」

ところが、大学で勉強を進めていくうちに松田さんはキリスト教の奥深さと面白さを知るようになったようだ。

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そもそも「聖書」とは旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻からなる書物で、バラバラな内容が書かれている訳ではなく、驚くほどの統一性と調和を保ちながら、その全巻がイエス・キリストというひとつのテーマに集約されている。

松田さんによれば、歴史に関する記述や法律や倫理など記述の仕方も多彩で、詩などは文学的に大変美しいものなのだという。

そして、親元を離れて聖書に触れていくうちに、松田さんは、これまで両親が動じることなく自分を信じてくれたり向き合ってくれたりしたのは、聖書の教えに基づいてのことだったことを認識したようだ。

バンド活動と牧師の道という2つの間で松田さんは揺れ動くようになる。


4.人生の岐路

「友だちは東京に出てバンドをする人もいましたが、牧師になるために神学校へ進むことを決意しました。大学で4年間修業してきたので、横浜にある日本バプテスト神学校では1年だけ学びました。それでも『まだ学び足りないな』と感じ、アメリカの神学校へ留学する予定だったんです」

ところが、横浜で寮生活を送っていたとき、熱が数ヶ月続き、咳や倦怠感も現れるようになってきた。

当時は5箇所ほど病院を回ったが、原因はよく分からなかったそうだ。

そのため、留学も断念せざるを得なかった。

「いま考えると、シックハウス症候群ではないかと思うんですよね。建材や家具などに含まれる化学物質が発散する有害なガスが原因となっていることが多くて、そのときの寮は新築でしたから。寮生活を終えた途端に症状が収まったんです」

「どこかの教会で1〜2年お手伝いをして、体調が回復したら留学しよう」と考えていた松田さんだが、日本バプテスト同盟からいくつかの教会を紹介されたなかで、「日本バプテスト利府キリスト教会」つまり現在のオアシスチャペルに目が留まった。

「この教会は、1932年に初代牧師・齊藤久吉氏が建てたものでした。大きな夢を抱いていた方で、社会的弱者の支援国際交流の推進、そして人材育成という3つの柱を地域ぐるみで実現しようとされていたようです。ところが年月が経って世代が進むにつれて、教会としての使命感は薄れ、なんとか礼拝にだけ人が集っているような状態でした。いま考えると、若気の至りというか、『この一番困っていそうな教会へ行こう』と思ったんです」


5.揺れる大地

先代と入れ替わる形で、松田さんは若干23歳にして10代目牧師に就任。

幸いにして小さい頃から父の姿を見てきた松田さんは、自分なりに手探りで改革を進めていくことができたようだ。

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「昔からのことを踏襲するんじゃなくて、新しいものを生み出したい」とさまざまな実践を重ねていった。

まずは教会名を、地域に親しみやすいようオアシスチャペルへと改称し、朝から晩まで悩みの相談に乗ったり、聖書の勉強会を開催したり、ときにはミッション系の学校で講演や授業を行ったりもした。

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私生活では赴任した翌年にピアノ教師をしていた妻と結婚し、4人の子どもを授かった。

妻と子育てに奮闘しているなか起こったのが、2011年3月11日の東日本大震災だ。

「幸いにして、高台にあった自宅の津波被害はありませんでした。山を切ってつくられた新興住宅地だったので岩盤も強く、家が倒壊することもなかったんです。そのとき、教会の事務所にいたんですが、強烈な揺れでなかはグチャグチャになりましたが、建物自体が被害を受けることはありませんでした。ただ、初代牧師が青少年の健全育成を目的として1万8千坪の広大な敷地に設立した『キリスト教 森郷キャンプ場』内の2つの合宿棟が被災し取り壊しになってしまったんです」

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震災直後から、無事だった建物をベースキャンプとして海外ボランティアの受け入れを始め、国内外からのボランティアは3年間で延べ15,000人にも及んだ。

そしてキャンプ場をオアシスセンターと改称し、2017年1月からは敷地内にカフェ「生石庵」(おいしいあん)の運営を始めた。

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店名は、初代牧師に協力し布教活動へ尽力したアメリカの宣教師テッド・リビングストンの名前と聖書に出てくる言葉「生ける石」から引用して、「Living stone」。

それに日本語の「美味しい」を掛け合わせたことに由来する。

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ゴスペルシンガーでもある松田さんの弟(三男)が店に立ち、自然の中で非日常を味わうことのできる場所として、地域の人たちの集いの場にもなっているようだ。


6.道を照らす人

「今後は、初代牧師が掲げていた弱者救済・国際交流の推進・人材育成という3つのフィールドをより切り拓いていきたいですね。『オアシスセンター』を上手く活用して、夫婦関係や子育ての支援、野外教育を用いたリーダー育成、学校に馴染めない子たちの受け皿づくりなども進めていきたいと考えています。もちろん全ての活動は聖書に基づいています。『聖書は、あなたにも関係があるよ』ということを伝えていきたいんですよね」

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お話の最後に松田さんは「いまの道を選んで良かった」と教えてくれた。

そして大切にしている一節が、「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」(旧約聖書・詩篇119篇105節)だという。

聖書の言葉が、人生のともしび、生きる道を照らす光であるということを歌っている詩文だ。

僕らは人生を歩んでいく上で、ときに絶望的な状況に陥ることだってあるだろう。

そうしたときに、神の言葉が詰まった聖書の中には、僕らの示すべき道を照らしてくれる言葉が溢れている。

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いまや教会は、布教や信者の信仰生活の場としてだけではなく、地域住民の集いや繋がりの場として、さらに教育・福祉・様々な社会課題に取り組む拠点として、機能することが求められている。

多くの人たちが何らかの生きづらさを抱えてながら生きているこの時代にあって、そうした受け皿としての教会の役割は大きい。

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さらに、信仰へと目覚め、志を持って教会を立て直すことに努力してきた松田さんの経験を経た言葉は、ズシン僕らの心に響いてくる。

悩み多き人生という暗闇のなかで、僕らをあたたかい光で導いてくれるのは、きっと松田さんのような存在なのだろう。


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