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ほんとうは怖~い源氏物語(7)

前回、原文の

☆「命婦(みょうぶ)、かしこにまで着きて、門(かど)引き入るるよりけはひあはれなり」

が背筋も凍るような名文と絶賛されていると書きました。

なぜものすごい名文なのか私たちには分からない。でも橋本治氏が『源氏供養』のなかで、バチッとそこに触れています。

研究者ではない素人がさらりと源氏を楽しむのにそこまで知る必要はないとも言えますが、これは根本的な「美意識」に関わることだと思うので紹介いたします。

前半は、帝の使いである命婦さんが主語です。「命婦さんが更衣さんの母の屋敷に入ってゆく。門の中に車を入れるやいなや」

後半は突然主語が変わる。「けはひあはれなり」となる。突然「秋の気配」という自然が平然と主語になるのです。

大体、この時代の文には主語がない。不思議な文体なのです。ですから、平安時代の古典を読むとき、わたしたちは必死になって主語を捜さなければならない。

この文は途中で突然「けはひ」という自然が主語になる。命婦さんが、この屋敷の佇まいを「あはれと感じたかどうか」は問題ではない。

よく考えると、微かに怖~い文。

事実として「気配」がそこに存在していて、それは「あはれ」だった……つまり、この文の最大の主役は「秋の気配」。(橋本治説)

 

人間は誰かの死が悲しいのではない。あまりに月が美しいから、あまりに秋の気配が寂しいから、悲しくなる。

それが紫式部の(というか、当時の)美意識なんです!もちろん例外はあります。それぞれの歌で読みとることが大切です。

主役は「情景」。人間はどうでもいい。情景が人間の感情を動かしてゆくのだ~、と思うと、ちょっと源氏が読めてくるような気がしません?

言い換えると、自然描写こそ最大のマターだということ!それをいつも頭の片隅に置いていたら、自然の描写だけ拾い読みすれば源氏は分かる、ってことになるかも。

ですから、桐壷の更衣さんが亡くなって悲しみにくれていた帝は、更衣さんにそっくりな藤壷さんをキサキとしてあてがわれたとたん、もう、藤壷さんにぞっこんで、更衣さんのことなどいつのまにか忘れてしまう。

☆「おのづから御心うつろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり」

自然に藤壷にお心が移って、格別にお気持ちがなぐさめられるらしいのも、人情の自然というものであった。(小学館・新編日本古典文学全集訳)

帝の目に映る辺りの情景が変わってしまったのだから、帝の心が変わるのも自然なことです、と紫式部は書いているのでしょうか。訳者は「あはれなるわざなりけり」を「人情の自然」と訳していますが。

ワタクシ自身は「どうしようもない人間の性(さが)なのでした」と訳したいです。

訳は人それぞれ。「オトコの愛情なんてそんなものです。そんな愛情に振り回されるオンナってあわれですねえ」という訳もあります。

好きなように訳してくださいな、とはるかな時の彼方で紫式部は嗤っているのかも知れません。

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