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戦う教師──彼は学校を去った 

 そのシンポジュームは音楽教室で開かれた。その教室が使われたのはちょっとしたステージがある小さなコンサートホールといった部屋で、おまけに教室の窓の真下に尊徳像が立っているという演出効果もあった。市内や福井県下の学校からだけなく、関西や新潟県の学校からも教師たちがやってきて、席が埋まるばかりの盛況な集会になったのだが、しかしその日の参加者は同時に、音楽教室の窓から異様な光景を目にすることになった。一人の人物が尊徳像の台座に上がり、その全身を銅像にロープでぐるぐると何重にも巻きつけて立っているのだ。
 
 その闘争はそれで頓挫してしまった。というのはこのシンポジュームを取材にきた地元日刊紙の報道者は、石の抗議行動こそニュースになるとばかりに、尊徳の銅像にロープをぐるぐると巻きつけて立っている写真を大きく紙面に載せるのだ。その写真は読者に強烈な印象を与えたのか、朝から学校の電話は鳴り続けた。その記事は地元紙だけではなく全国の新聞に配信されたものだから、それこそ日本各地から途切れなく電話がかかってくる。それは思いもよらぬ展開だった。彼がわが身を銅像に縛りつけたときは、反戦のプラカードを胸と背中にぶら下げて、お茶の水の駅からたった一人の行進をはじめたときと同じように、また長い孤独な戦いがはじまると思っていたのだ。それが一週間たっても鳴り続ける電話、全国各地から発信されてくる夥しい数の手紙や葉書、そして右翼団体の車がやってきた。
 
 思いもよらぬ騒動の発端となった尊徳の銅像にロープで縛りつけた写真を見たとき、石は自身の姿の醜さに嫌悪した。安っぽい猿芝居に登場する猿そのものに見えたのだ。自分はこんなにもあさましいことをしたのかと。しかしそれは彼の行為があさましいからではなく、マスコミが切り取ったアングルのせいなのだと彼は嫌悪感をぬぐい去ろうとした。が、しかしこの騒動はなにやら彼が嫌悪する通りに展開になっていった。マスコミが報じたのは、その猿芝居的なポーズであって、彼がなぜ銅像撤去に反対をするのか、なぜ尊徳の銅像にわが身を縛りつけるような意志を表示をしたのか、そんなことはどうでもいいことだった。
 
 しかし結果的には、マスコミが作り出したその騒動によって、銅像撤去の闘争は消え去るのだが、石はこういう結末を見たときこう思ったものだ。あの戦争のさなかに、胸と背中にプラカードをぶら下げてお茶の水の駅からスタートしたたった一人の反戦の行進が、たとえ猿芝居の猿のように報道されたとしても、このような波紋の渦が日本各地で起こっていたなら、戦争はもっと早く終結していたはずだと。

 その翌年度の人事異動で、校長はこの学校を去り、闘争を主導していった教師たちも他校に転任させられた。この人事異動によって、尊徳像撤去の闘争は完全に鎮火されて、いまでもこの学校には薪を背負った少年の尊徳像は立っている。

 石もまたその年に学校を去った。彼にもおそらく懲罰人事といえるような人事異動が下るはずだったが、しかしその内示が下される前に辞表を出していた。同僚たちは、騒動を引き起こしたことに対する責任をとったのだろうなどと噂しあったが、石の側からみればそれはまったく逆で、尊徳像にわが身を縛りつけた彼の闘争にさらに深く踏みこんでいくためだった。そのことを彼はすでにある人物に語っていた。彼はその人物に語ったことに踏み出すために学校を去ったのである。
 
 日本が全面降伏したその年の十月に、三千人にも及ぶ政治犯が獄から解き放たれるが、そのとき石も釈放されている。土屋文明は傷害罪も絡んだ複雑な事例だったが、それでも翌年には釈放された。封印されていた東条狙撃事件が次第に世に伝播されていったからか、獄を出た土屋の周囲に一人また一人と熱く燃える人間たちが集まってきた。日本を滅亡に導いた大帝国にたった一人で立ち向かった土屋の声望は高く、彼が日本党を創立したとき、会費を払う党員が一万人をこえるほどだった。石もまた創立されたときからの党員であった。別に政治活動をするわけではなかったが、それでも日本党福井県支部なるものをつくって、彼は彼のやり方で日本党を支援していた。土屋の真摯なる生き方に熱い友情を感じているからだった。
 
 それは土屋もまた同じで、六歳年上の石を人生の師であるかのように接していた。関西あたりに所用があると必ず福井を回って石のもとを訪ねる。土屋は彼と会うとなにか魂が浄化されると感じるほどに石を慕っていたのである。だから、銅像にぐるぐるとロープで巻きつめた石の写真を新聞と見たときの驚愕と言ったらなかった。土屋はただちに日本党の隊員を四台の車に分乗させて、福井県新庄中学に長駆した
 
 昼夜を徹して、まるで学校を襲撃するかのように勢い込んで駆けつけてきた土屋を、石はやんわりと諭した。「この騒動は私の学校内の問題である。私が立ち上がったのは、学校を政治的闘争の場にすることへの抗議であった。それが断りもなく、新聞は私の写真を載せた。それでいま学校は、嵐に見舞われたような騒動になっている。あなたたちまでが東京から駆けつけるようになってしまった。あの新聞報道は非常に不愉快で、なにか泥をかけられたような思いだった。その不愉快な記事で巻き起こったこの騒ぎがまた私を不快にさせ、私が抗議したことの本筋からいよいよ離れていく。そんなわけで、あなたの気持はうれしいが、ただちに部隊を引き返してもらいたい」と。そしてそのとき石は彼の本心を土屋に語るのだ。
 
「銅像にロープを巻きつけるなどまったく猿芝居的行動であった。まんまと興味本位の報道に走るマスコミの餌食になってしまった。私がこのような行動を起こしたのは、ただ尊徳像を撤去する闘争を排撃することにあるのではなく、この闘争を背後で仕組んでいく日教組に立ち向かうためだったのだ。日本の教師たちの大半が日教組の組合員たちである。これは恐ろしいことだ。

 日本の子供たちは日々、マルクス主義や共産主義や社会主義に洗脳された教師たちの授業を受けていく。日本の教育の危機であり、日本の危機なのだ。いまや巨大な組織になってしまった日教組を一人の力で打ち倒すことはできない。しかしその巨体に銛を打ち込むことはできる。これは以前から考えていたことだが、私は次年度に学校を退職する。そしてあなたが日本党を創設して日本の政治の中に深く切り込んだように、私もまた日本に真の教育を取り戻すための結社を旗揚げしようと思っているのだ」
 
 大きな鐘は強打すればするほど大きな音を響かせるということなのか、このとき土屋もまた石の魂の鐘を強く叩きかえしてきた。

「今日の騒動、左翼運動の日本の地殻を揺り動かすばかりのうねりや、学生たちが引き起こす騒乱は、まことに日本の危機であり、このままでは日本丸は転覆するという危機感を、私もまた強く抱いているところであります。急激に左傾化していく日本丸を救い出すために日本人は何をすべきなのか。それは左翼の波を迎え撃つ大きな右翼の波を起こさねばならないと思っているのです。しかし現在の右翼的勢力はいずれも小さく、しかもばらばらの地点に立って、狼の遠吠えよろしくむなしく吠えているばかりです。しかしいまようやくこの国難に、いまこそ立ち上がらねばならない。立ち上がって勢力を結集しなければならない。先生のお話をうかがって、とうとうその時が天から下されたように思われました。先生が日教組の胴体に、銛を打ち込まんと創設する政治結社の旗が空に高く翻るとき、私もまた先生の決起に呼応して、右翼運動の波動をつくりだす政治連盟を結成したいと思います」
 
 学校を去った石は、自宅の敷地に二部屋ほどの小さな家屋を建てた。そこに石塾という看板に掲げ、小学生から中学生たちを教える私塾を開いた。その小さな私塾が同時に、日教組打倒という活動をはじめた政治結社「石の会」の拠点だった。土屋は石に語ったように「石の会」の生誕と呼応させて、全国各地に点在する右翼団体を統合して日本政治連盟を創設する。その連盟に石は薬指を落として加わった。
 
 


 
 

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