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ワーニャ伯父さん アントン・チェーホフ   第四幕

「ワーニャ伯父さん」は、「森の主」を改作した戯曲であるが、前作では自殺することになっていたワーニャを、絶望の中で生きつづけさせるように改めたことによって、作品の主題はいっそう明確になったといえる。四十七年間すごしてきた自分の一生がまったく無意味なものだったことに思いいたったワーニャの絶望は、限りなく深い。だが現実は、それでもなお生きつづけてゆくことを要求するのである。

同じことは姪のソーニャについてもいえる。六年間ひそかに、熱烈に慕いつづけてきたアーストロフヘの愛が、一瞬のうちに打ちこわされ、彼女もまた絶望につきおとされる。しかし、ソーニャは言うのである。「でも、しかたがないわ、生きていかなければ!」と。

ソビエトの演出では、チェーホフが信じた「新しい未来』を強調するあまり、ソーニャのこの台詞をリリカルにうたいあげるのであるが、これはそんなロマンチックなものではない。二十三歳の若い娘が、現実にぶちあたって絶望したあと、それでもなお生きてゆかねばならぬことを自分自身に言いきかせる、健気というよりはむしろ悲愴な言葉の奥に、人生に対するチェーホフの考えが読みとれるのである。

ワーニャ伯父さん   

第四幕 


ワーニャの部屋。ここが彼の寝室であり、同時に領地の事務所にもなっている。窓ぎわに、何冊もの出納簿や、ありとある書類ののった大きなデスク、事務机、いくつかの戸棚や台秤。アーストロフ用のいくらか小ぶりのテーブル。その上に絵の道具や絵具。わきに紙挟み。むく鳥を入れた鳥籠。壁には、およそだれにも必要なさそうなアフリカの地図。レザー張りの巨大なソファ。左手に、奥の部屋に通じるドア。右手には玄関へのドア、右手戸口のわきに、百姓たちが泥で汚さぬための靴拭きマット。
 
秋の夕方。静寂。
〔テレーギンとマリーナ、向かい合って坐り、靴下用の毛糸を卷いている〕

テレーギン  早くおしよ、マリーナ・チモフェーエヴナ、でないともうすぐお別れに呼びだされるよ。もう馬車をまわすようにおっしゃってらしたから。
マリーナ  〔巻く手を早めようと努める〕もう少しですよ。
テレーギン  ハリコフヘいらっしゃるんだってね。そこでお暮らしになるとか。
マリーナ  その方がいいですよ。
テレーギン  お二人とも、肝をつぶしてしまわれたんだね……エレーナ・アンドレーエヴナは「こんなところに一時間だって暮らしていたくないわ……立ちましょう、そう、立つのよ……ハリコフに少し暮らして、慣れた頃、荷物をとりによこすわ」って、おっしゃるしさ。身軽なお立ちだね。つまり、なんだね、マリーナ・チモフェーエヴナ、先生ご夫妻はここで暮らす定めになかったってことだね。そういう定めじゃないんだよ……宿命というんだろうよ。
マリーナ  その方がいいですよ。さっきは大騒ぎを起こしたり、ピストルをぶっ放したりしてさ、みっともないったら!
テレーギン  そう、アイヴァゾフスキーの絵筆にふさわしい主題だったね、
マリーナ  あんなところ、見たくなかったわ。〔間〕また、前みたいに、今までどおりの暮らしをはじめるのよ。朝は七時すぎにお茶、お昼は十二時すぎ、晩は夜食のテーブルをかこんでね。すべて、世間さまと同じように秩序を保って……キリスト教徒らしく暮らしましょう。〔溜息まじりに〕わたしはもう久しく素麺を食べていないわ、罪なことだ。
テレーギン  そうだね、ずいぶん永いこと素麺を作らなかったね。〔間〕ずいぶんになるよ……今朝ね、マリーナ・チモフェーエヴナ、村を歩いていたら、雑貨屋の親父がわたしのうしろ姿に向かって、「おい、居候!」なんて言ってさ。わたしゃ、つくづく悲しくなったよ!
マリーナ  気にしなさるな、旦那さん。わたしたちだってみんな、神さまの居候なんですよ。あんただって、ソーニャだって、イワン・ペトローウィチだって、だれひとり仕事をせずにぶらぶらしてる者はありゃしない、みんな働いてるんですからね! みんな……ソーニャはどこかしら?
テレーギン  庭ですよ。ドクトルといっしょにイワン・ペトローウィチを探して歩いてるんだよ。自殺でもしやしないかと心配してね。
マリーナ  あのピストルはどこかしら?
テレーギン  〔声をひそめて〕わたしが穴蔵に隠しちまったよ!
マリーナ  〔苦笑して〕罪ですよ!
  〔外からワーニャとアーストロフ入ってくる〕
ワーニャ  放つといてくれよ。〔マリーナとテレーギンに〕ちょっと席をはずして、せめて一時間くらい一人にしといてくれないか。過保護はまっぴらだよ。
テレーギン  すぐ行くよ、ワーニャ。〔爪立ちで退場〕
マリーナ  鷙鳥ガアガア、か! 〔毛糸をまとめて退場〕
ワーニャ  放っといてくれったら!
アーストロフ  喜んでそうしたいね、こっちだってとうに引き上げる時間なんだ。しかしね、もう一度言うけど、君が僕のところから取ったものを返してくれないうちは、帰らんぜ。
ワーニャ  何も取りゃしないよ。
アーストロフ  こっちはまじめに言ってるんだ。手間をとらせるなよ。もうとうに帰るべき時間なんだから。
ワーニャ  何も取りゃしないったら。〔二人とも腰かける〕
アーストロフ  そうかね? 仕方がない、もう少し待って、それから、わるいけど、実力を行使せざるを得ないな。君を縛りあげて、身体検査してやる、ほんとにまじめに言ってるんだぜ。
ワーニャ  ご勝手に。〔間〕どじな話さ、二度射って、一度も当たらないなんて、こればかりは、われながら絶対に許せないよ!
アーストロフ  射ちたい気持か起きたら、そう、自分の額にでもぶちこむんだね。
ワーニャ  〔肩をすくめる〕おかしな話じゃないか。殺人未遂を犯したってのに、僕を逮捕もしなけりゃ、訴えようともしないんだから。つまり、僕を気違い扱いしてるってわけだ。〔毒のある笑い〕この僕が気違いで、教授だの学界の魔術師だのという仮面の下に無能や愚鈍やおそるべき冷酷さを秘め隠しているような奴らは、気違いじゃないというんだからな。年寄りと結婚して、あとになってからみんなの眼の前で夫をだまくらかすような女も、気違いじゃないってわけだ。僕は見てたんだよ、君が彼女を抱いてたのを見たんだぜ。
アーストロフ  はい、抱きましたよ、君はこうさ。〔肘鉄砲のしぐさ〕
ワーニャ  〔戸口を見ながら〕まったく、君らみたいな連中をまだ支えてやってるなんて、この地球も気違いだよ。
アーストロフ  ふん、ばからしい。
ワーニャ  仕方がないだろう、僕は気遣いで、責任能力がないんだから、ばかげたことを言う権利だってあるわけさ。
アーストロフ  古い手だ。君は気遣いじゃない。変人なだけだよ。ピエロさ。前には僕も、変人をすべて正常でない変人とみなしてたもんだが、この頃では、人間の正常な状態は変人であることだという意見なんだ。君はまったく正常だよ。
ワーニャ  〔両手で顔をおおう〕恥ずかしい!僕がどんな恥ずかしい気持でいるか、察してもらえたらね! この鋭い羞恥の気持はどんな痛みにもくらべられないよ。〔悲痛に〕堪えられない! 〔デスクに突っ伏す〕どうすりゃいいんだろう? 僕は何をすべきなんだろう?
アーストロフ  別に何も。
ワーニャ  何とかしてくれよ! ああ、やりきれん……僕は今四十七だろう、かりに六十まで生きるとしても、あと十三年もあるんだぜ。永い! その十三年をどうやって生きのびたらいいんだ? 何をすればいい? その十三年間を何で充たせばいいんだい? なあ、わかるかい……〔痙攣するようにアーストロフの手を握りしめる〕わかるかい、残されたその人生をなにか新しい生き方でやっていけたらな。明るい静かなある朝、眼をさまして、新しい人生をはじめたんだ、過去のことはすべて忘れ去って、煙のように消えてしまったんだ、と感じられたらな。〔泣く〕新しい人生をはじめるんだ……どうやってはじめたらいいか、教えてくれよ……何からはじめればいい……
アーストロフ  〔腹立たしげに〕ああ、君って男も! この上どんな新しい人生があるっていう人だい? 君も僕も、状況は絶望的なんだよ。
ワーニャ  そうかね?
アーストロフ  僕はそう信じてるね。
ワーニャ  何とかしてくれよ……〔胸をさして〕ここが焼けるみたいなんだ。
アーストロフ  〔怒ってどなりつける〕やめないか! 〔言葉を柔らげて〕僕らの百年、二百年あとに生きる人たちは、僕らがせっかくの人生をこんなに愚かしく、こんなに味気なくすごしたことに対して、僕らを軽蔑するだろうし、その人たちはことによると、どうすれば幸せになれるか、その方法を見つけるかもしれないけれど、僕らはね……僕らにだって一つだけ希望はあるんだよ。やがて棺桶の中に眠る時に、幻が訪れてくれるだろうって希望がね、それも、ひょっとすると、楽しい幻かもしれないぜ。〔溜息をついて〕そうなんだよ、君。この郡内を見まわしたって、インテリらしいまともな人間はたった二人しかいなかったんだ。君と僕さ。ところが、十年かそこらのうちに、俗物的な生活が、卑しむべき生活が僕らを巻きこんじまったんだ。生活が腐れはてた毒気で僕らの血を汚してしまって、僕らもみんなと同じような俗物になっちまったのさ。〔勢いよく〕それはそうと、ほかの話でごまかそうとしてもだめだよ。僕から取ったものを返してくれ。
ワーニャ  何も取りゃしないよ。
アーストロフ  僕の旅行用の薬箱からモルヒネの小壜を取ったじゃないか。〔間〕いいかい、もし何がどうあっても、自殺したいんだったら、森へ行って、ピストル自殺でもするんだね。モルヒネは返してもらおう。でないといろんな噂や勘ぐりが生まれるし、世間じゃ僕が君にやったと考えるだろうからね……僕は、君の死体を解剖させられるのだけで、十分だよ……そんなことがおもしろいとでも思うのかい?
 〔ソーニャ登場〕
ワーニャ  放つといてくれよ。
アーストロフ  〔ソーニャに〕ソフィヤ・アレクサンドロヴナ、あなたの伯父さんは僕の薬箱からモルヒネを一壜失敬して、返そうとしないんです。言ってやってください、そんなのは結局……利口な真似じゃないって。それに僕は暇もありませんし。もう行かなけりゃ。
ソーニャ  モルヒネを取ったの、ワーニャ伯父さん? 〔間〕
アーストロフ  取ったんです。僕には自信がある。
ソーニャ  返して。なぜあたしたちを心配させるの? 〔やさしく〕返して、ワーニャ伯父さん! あたしだって、たぶん、伯父さんに負けないほど不幸だけど、それでも絶望したりしないわ。あたしは堪えているし、あたしの人生がひとりでに終わるまで、じっと堪えてゆくわ……伯父さんも堪えていって。〔間〕返しなさいよ! 〔彼の両手に接吻する〕大事な、やさしい伯父さん、ね、返して! 〔泣く〕伯父さんはやさしい人でしょ、あたしたちを気の毒と思って、返してくれるわね。こらえて、伯父さん! じっと堪えるのよ!
ワーニャ  〔デスクから壜をとりだし、アーストロフに渡す〕ほら、持ってけよ! 〔ソーニャに〕しかし、早く仕事をしなけりゃ。早く何かしなけりゃ、でないと僕はとても……だめだ……
ソーニャ  そう、そうよ、働くのよ。みんなを送りだしたら、仕事にかかりましょう……〔デスクの書類を神経質に選り分ける〕何もかも放ったらかしになってたわ。
アーストロフ  〔壜を薬箱に入れ、革ベルトをしめる〕これで出発できるってわけだ。
エレーナ  〔登場〕イワン・べトローウィチ、ここにいらしたの? わたしたち、今すぐ立ちます……アレクサンドルのところへいらしてくださいません、何かお話ししたいそうですの。
ソーニャ  行ってらして、ワーニャ伯父さん。〔ワーニャの腕をとる〕いっしょに行きましょう。パパと伯父さん、仲直りしなければいけないわ。これは必要なことよ、
  〔ソーニャとワーニャ退場〕
エレーナ  あたし、出発します。〔アーストロフに片手をさしだす〕ご機嫌よう!
アーストロフ  もう?
エレーナ  馬車の支度ももうできましたもの。
アーストロフ  ご機嫌よう。
エレーナ  あなたもここを引きあげろって、今日約束してくださいましたわね、
アーストロフ  おぼえてます。今すぐ引きあげますよ。〔間〕さっきはびっくりしましたか? 〔彼女の手をとる〕あんなのがそれほどこわいもんですかね?
エレーナ  ええ。
アーストロフ  でないんだったら、このままここにいらっしゃればいいのに! ええ? 明日、森で……
エレーナ  いいえ……もう決めましたから……出発がもう決まったからこそ、こうして大胆にあなたを見ていられるんですわ……一つだけお願いがあります。あたしのことを、もっとまともな女と考えてください。あなたにはちゃんと認めてもらいたいんです。
アーストロフ  えい! 〔もどかしげなしぐさ〕このままお残りなさいよ、お願いだから。自分でも認めるんですね、あなたはこの世で何一つすることがないし、人生の目的なんてものもまるきりない。関心をみたすべきものも何一つないんです、だから遅かれ早かれ、どのみち自分の感情に負けてしまうようになるにきまってます。これは避けられませんよ。だったらいっそ、ハリコフだの、どこかクールスクあたりだのじゃなく、自然のふところにいだかれたこの土地での方がいいでしょうに……少なくとも散文的じゃないし、秋だってきれいですよ……ここには国有林があって、ツルゲーネフ好みの半ばさびれた地主屋敷もあるし……
エレーナ  あなたって滑稽な方ね……あたし、あなたに腹を立てているのに、それでも……あなたのことは楽しく思いだすでしょうね。あなたって、おもしろい、個性的な方だわ。あたしたち、これでもう二度とお会いしないでしょうから、隠す必要もありませんわね? あたし、あなたにいくらか心を惹かれたほどですわ。それじゃ、握手をして、親友としてお別れしましょう。恨みっこなしね。
アーストロフ  〔握手する〕そう、お出かけなさい……〔考えこんで〕あなたって人は、やさしい立派な人間みたいでもあるし、それでいてあなたの存在全体に何かふしぎなところがあるみたいな気がしますね。現にあなたがご主人とここへ来られたら、それまでここで仕事をしたり、あくせくしたり、何かしら創りだそうとしたりしていた連中が、みんな自分の仕事を放りだして、夏いっぱいもっぱらご主人の痛風とあなたとにつきあわなけりゃならなかったんですからね。ご主人とあなたはどちらも、われわれみんなに怠け癖をうつしちまったんですよ、僕もうつつをぬかして、まる一ヵ月何もせずにいたけれど、その間に人々は病気になったし、僕の森や林では百姓たちが家畜を放牧させていたんです……といった具合に、あなたとご主人とはどこへ行っても、いたるところに破壊をもたらすんだ……もちろん、これは冗談ですがね、しかしやはり……おかしいですよ、だから。もしあなたがここに残りでもしたら、蒙る被害たるや大変なものに違いないと、僕は確信してるんです。僕も身を滅ぼすだろうし、それにあなただって……いいことはないでしょうよ。それじゃ、出発なさい。喜劇は終わりです!
エレーナ  〔彼のテーブルから鉛筆をとり、すばやくしまう〕この鉛筆、記念にいただくわ。
アーストロフ  なんだか妙ですね……せっかく知り合ったのに、突然どういうわけか……もう二度と会えないなんて。この世はすべてこうなんだ……ここに人がいないうちは、ワーニャ伯父さんが花束を持って入ってこないうちに、いいでしょう……キスしても……お別れに……ね? 〔彼女の頬にキスする〕そう……これでいいんだ。
エレーナ  お幸せを祈ってますわ。〔あたりを見まわして〕かまわないわ、一生に一度ですもの! 〔発作的に彼を抱く。どちらもすぐに急いで離れる〕もう行かなければ。
アーストロフ  早く出発なさい。馬車の支度ができているのなら、出かけるんですね。
エレーナ  だれか来るみたい。〔二人とも耳をすます〕
アーストロフ  終り!
〔セレブリャコフ、ワーニャ、本を手にしたヴィニーツカャ、テレーギン、ソーニャ登場〕
セレブリャコフ  〔ワーニャに〕すんだことを持ちだすような人間は眼でもつぶれろ、ですよ。あんなことのあったあと、ここ何時間かのうちに、わたしは実にいろいろな気持を味わって、大いに考えぬいたものだから、いかに生きるべきかについて、子孫への教訓に大論文を書きあげられそうな気がするほどです、わたしは君の謝罪を喜んで受け入れるし、わたしからも許しを乞います。許してくれたまえ! 〔ワーニャと二度接吻を交す〕
ワーニャ  今までと同じだけのものは、きちんとお手許に届きますから。万事、前の通りですよ。
〔エレーナ、ソーニャを抱擁する〕
セレブリヤコフ  〔ヴォイニーツカヤの手に接吻する〕じゃ、お母さん……
ヴォイニーツカヤ  〔彼に接吻する〕アレクサンドル、また写真をとって、送ってちょうだい。あなたがどれほど大事な人か、わかっているでしょ。
テレーギン  ご機嫌よろしゅう、先生! わたしどもをお忘れくださいませんように!
セレブリャコフ  〔娘に接吻して〕さよなら………みなさん、さようなら! 〔アーストロフに片手をさしのべながら〕楽しいおつきあい、ありがとう……わたしはあなたのものの考え方や、むきになるところや、情熱に敬意を表します。しかし、この老人の告別の辞に一言だけ非難がましい言葉を加えさせてください。みなさん、仕事をしなければいけませんぞ! 仕事をしなければ! 〔一同に会釈〕それじゃ、お幸せで! 〔退場、ヴォイニーツカヤとソーニヤがそれにつづく〕
ワーニャ  〔エレーナの手に強くキスして〕さようなら……許してください……もう二度と会えないんですね。
エレーナ  〔心を打たれて〕ご機嫌よう。〔彼の頭にキスして退場〕
アーストロフ  〔テレーギンに〕おい、ワッフル、ついでに僕にも馬車を出してくれるように言ってきてくれないか。
テレーギン  わかりました。〔退場〕
   〔アーストロフとワーニャだけになる〕
アーストロフ  〔テーブルの上の絵具を片づけ、トランクにしまう〕どうして見送りに行かないんだい?
ワーニャ  このまま行ってもらう方がいい、僕には……僕にはできないよ。つらいんだ。早く何かで気持をまぎらわせなけりゃ……仕事、仕事! 〔デスクの上の書類をかきまわす〕
  〔間、馬車の鈴の音〕
アーストロフ  お立ちだな。教授は喜んでるよ、きっと。これでもう、どんなことがあったってここへは来んだろうな。
マリーナ  〔登場〕お立ちになりましたよ。〔肘掛椅子に坐り、靴下を編む〕
ソーニャ  〔登場〕お立ちになったわ。〔両眼を拭う〕道中ご無事で。〔伯父に〕さ、ワーニャ伯父さん、何かしましょう。
ワーニャ  仕事、仕事……
ソーニャ  ほんとに、もうずいぶん永いこと、こうしていっしょにデスクに向かわなかったわね。〔デスクの上のランプをともす〕インクがないみたい……〔インク壺をとり、戸棚に行って、インクを注ぐ〕でも、行ってしまわれると、淋しいものね。
ヴォイニーツカヤ  〔ゆっくりと登場〕お立ちになったよ! 〔腰をおろし、読書にふける〕
ソーニャ  〔デスクの前に坐り、帳簿をくる〕まず請求書をつけましょうよ、ワーニャ伯父さん。すごくほったらかしになっているから。今日もまた請求書を取りに使いがきていたわ。書いて。伯父さんはこれ、あたしはこっちをつけるわ……
ワーニャ  〔書く〕請求書……上様、と……〔二人、無言で書く〕
マリーナ  〔あくびをする〕眠くなったわ……
アーストロフ  静かだな。ペンの軋みと。コオロギの声と。ほのぼのとして、いい気持だ……ここから引き上げる気がしないな。〔鈴の音がきこえる〕ほら、馬車がきた……つまり、あとはみなさんにさよならを言って、自分の机とお別れするだけってわけだ……さて行くか、〔統計図を紙挟みにしまう〕
マリーナ  どうしてそんなにあたふたと? ゆっくりなさればよろしいのに。
アーストロフ  そうはいかんよ。
ワーニャ  〔書く〕前の負債の残りが、ニルーブル七十五カペイカ、か……
  〔下男登場〕
下男  ミハイル・リヴォーウィチ、馬車が参りました。
アーストロフ  きこえてたよ。〔薬箱とトランクと紙挟みを下男に渡す〕ほら、これを頼む。気をつけてな。紙挟みをつぶさないように。
下男  わかりました。〔退場〕
アーストロフ  それじゃ……〔別れを告げに行く〕
ソーニャ  今度はいつお目にかかれるかしら?
アーストロフ  早くても来年の夏でしょうね、きっと。冬のうちはどうかな……もちろん、何かあったら連絡してください、伺いますから。〔握手する〕おもてなしや、ご好意や……一口に言って、何もかもありがとうございました。〔乳母のところへ行き、頭に接吻する〕さよなら、ばあや。
マリーナ  それじゃ、お茶もあがらずにいらっしゃるんで?
アーストロフ  欲しくないんだ、ばあや、
マリーナ  なんでしたら、ウォトカでも?
アーストロフ  〔ためらいがちに〕そうだね……
  〔マリーナ退場〕
アーストロフ  〔間のあとで〕僕の馬車の副え馬がなんかびっこをひきはじめてね。昨日、ペトルーシカが水を飲ませに連れて行く時に、気がついたんだ。
ワーニャ  蹄鉄を打ち直さなけりゃいかんね。
アーストロフ  ロジジェストヴェンノエ村で鍛冶屋に寄らにゃなるまいな。やむを得ん。〔アフリカの地図のところに行き、眺める〕きっと、このアフリカは今頃、すごい暑さなんだろうな。おそろしいこった!
ワーニャ  だろうね、きっと。
マリーナ  〔ウォトカのグラスと、パンを一片のせた盆を手にして登場〕召しあがれ。
〔アーストロフ、ウォトカを飲む〕
マリーナ お達者で、旦那さん。〔低く一礼する〕パンをつまみになさればよろしいのに。
アーストロフ いや、このままでいい……それじゃお達者で! 〔マリーナに〕送らないでいいよ、ばあや。いいんだ。
〔退場。ソーニャ、見送るために蝋燭を手にしてつづく。マリーナ、自分の肘掛椅子に坐る〕
ワーニャ  〔書く〕二月二日植物油八キロ……二月十六日にまた植物油八キロ、か……そばの実がと……〔間〕
  〔鈴の音がきこえる〕
マリーナ  お立ちになりましたね。
  〔間〕
ソーニャ  〔戻ってきて、蝋燭をデスクにおく〕お立ちになったわ。
ワーニャ  〔そろばんで計算して、書きこむ〕締めて十五の……二十五ルーブルか……
  〔ソーニャ、坐って、書きこむ〕
マリーナ  〔あくびをする〕あら、すみません……
 〔テレーギン、爪立ちで入ってきて、戸口に近く坐り、静かにギターを爪弾く〕
ワーニャ  〔ソーニャの髪を片手で撫でながら〕ソーニャ、辛いんだよ! ああ、どんなに辛いか、わかってもらえたらね!
ソーニャ  仕方がないのよ、生きて行かなければ! 〔間〕あたしたち、生きて行きましょう、ワーニャ伯父さん。いつまでもつづくはてしない毎日や永い夜を、生きぬきましょうよ。運命があたしたちにつかわす試練に、我慢強く堪えぬきましょうね。今も、年をとってからも、安らぎも知らずに、ほかの人たちのために働くのよ、そして、その時がきたら、素直に死んで、あの世に行ってからこう言いましょうよ。あたしたちは苫しみ悩んできました、さんざ泣きました、辛うございましたって。そうすれば神さまだって憐れんでくださるでしょうし、ね、やさしい伯父さん、あたしたちも明るい、すばらしい、優雅な生活を見られるんだわ。あたしたち、すっかり嬉しくなって、感動しながら、今のあたしたちの不幸をにっこりとふり返って、ひと息つきましょう。あたし、信じているの、伯父さん、心の底から熱っぽく信じているわ……〔彼の前にひざまずき、彼の両手に頭をのせる、疲れきった声で〕あたしたち、ひと息つけるのよ!
 〔テレーギン、静かにギターを弾く〕
ソーニャ  ひと息つけるんだわ、あたしたち! あたしたちの耳に天使の声がきこえて、ダイヤモンドをちりばめた空を一面に見渡せるようになるわ。この地上のすべての悪や、あたしたちのあらゆる苦しみが、世界中をやがて充たすやさしい心の中に沈んでゆくのを、あたしたちも見られるんだわ。そしてあたしたちの生活も、やさしい愛撫みたいに静かな、やさしい、楽しいものになるに違いなくってよ。あたし、信じている、信じているわ……〔彼の涙をハンカチで拭ってやる〕可哀そうに。気の毒なワーニャ伯父さん、泣いているのね……〔涙声で〕伯父さんはこれまでの人生でなんの喜びも知らなかったのね、でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう少しだわ……あたしたち、ひと息つけるのよ……〔彼を抱く〕ひと息つけるようになるわ!
〔夜番の拍子木〕
〔テレーギン、静かに爪弾いている。ヴォイニーツカヤ、文庫本の余白に書きこみ、マリーナ、靴下を編んでいる〕
ソーニャ  あたしたち、ひと息つけるんだわ!

    ゆっくり幕

 原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。


 

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