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歴史小説論争 『蒼き狼』は叙事詩か 大岡昇平

 もう六十年の前にことになる。1961年の雑誌「群像」の一月号に、大作家の道を歩きはじめた井上靖の記念碑的大作「蒼き狼」に、これまた大作家の道を粛々と歩いている大岡昇平が猛然とかみついたのだ。その攻撃は激しく、その長文を大岡は、
「ただそれを歴史小説にするためには、井上氏は『蒼き狼』の安易な心理的理由づけと切り張り細工をやめねばならぬ。何よりまず歴史を知らねばならぬ。史実を探るだけではなく、史観を持たねばならない。この意味で、井上氏の文学は重大な転機にさしかかっているのである」
 と締めくくっている。なにやら罵倒に近い大岡の怒りの根源はどこからくるのか。この攻撃に井上靖はどう受けて立ったのか。大作家たちの歴史小説論争は熱い。

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『蒼き狼』は叙事詩か   大岡昇平

 本紙十八日附文化欄所載、山本健吉『歴史と小説』を読んで考えたことを書かせてもらう。
 山本氏の文章は目下『群像』で井上靖『蒼き狼』について、作者と私の間に行なわれている論争に関するものである。議論の中心、歴史と小説の関係については『群像』で直接井上氏に答えるつもりだから、ここには書かない。山本氏が慣用する「叙事詩性」とか「叙事詩的真実」という言葉に、うなずき難い点があるので、それに関して述べる。

 いったい「詩的」とか「劇的」とか「造型的」とか、元来小説に本質的でない形容で小説作品を彩りで、批評をおわってしまうのは、近頃の批評家の通弊である。むろん小説も同じ芸術活動であるから、詩や劇と共通点を持っている。作品が多少はそんな色合いを帯びるのは当然である。また甲の作品が「叙情詩的」色合いが濃く、乙は「叙事詩的」要素が多いということはありうる。しかし小説はあくまで小説であり、叙事詩ではないのだから、それらの附随的要素をいくら重ねても。作品の真の姿はとらえられない。むしろ輪郭をぼかし、誤った像を結びがちである。

 現に井上氏は『蒼き狼』を書いた直後『「蒼き狼」の周囲』という文章を書いてその意図を語っているが、叙事詩という字は一つもない。成吉思汗の大征服の秘密は探りたかったと言っているだけである。山本氏は『蒼き狼』の叙事詩性(氏によれば)を誇張することにより、作品をゆがめるだけではなく、叙事詩という観念自体もそこなっている。山本氏のほかにも、「出生の秘密」とか生誕から死までを書くのを叙事詩の特色と見るような混乱が、『蒼き狼』を叙事詩的とする批評家に見られたのだが、山本氏の症状は特に重いようである。
 
 成吉思汗『蒼き狼』説が一般に容認された史実とちがうという私の指摘に対し、山本氏はこれは物語りだから史実はどうでもいいという立場である。そこまでは氏の自由としても、ギリシャの叙事詩『イリヤス』について次のように言うのは、いかがなものであろうか。

「『イリャス』では、十年にわたるトロヤ戦争の原因として、美女ヘレネを奪われたからだという、奇想天外の説明を与えておけば叙事詩的発想として十分だったのだ。そこに経済的、社会的原因を追及するのは、後世の歴史家の仕事である。『平家物語』や『太平記』だって、真の戦いの原因なぞに作者は頭を労してはいない」

 はたしてしかるか。『イリヤス』を書いたホメロスは、トロヤ戦争がヘレネの奪取から起こったと信じていたのではないか。だからこそあの大叙事詩が生まれ、聴衆もそれに耳を傾けたのではないのか。源平の盛衰が、まさに『平家物語』に書かれた通りに起こったと、作者に信じられなければ、無常観にあふれた傑作は生まれなかったのではないか。

 これらはすべて今日いう意味の歴史がなかったころの作品である。歴史(ヒストリー)と物語り(ストーリー)はもと同語であり。平安朝では「歴史物語」すなわち「歴史」であったことは、日本の古典に詳しい山本氏は知っているはずである。さらに進んで「『イリヤス』と同じく、ここ『蒼き狼』でも、人間の無償の、純粋行為を描くことが意図されている」と言うごときは、まったくのナンセンスである。『蒼き狼』の意図について誤っているばかりか『イリヤス』について、いっそう誤っている。
 
 周知のように『イリヤス』の第一行は「女神よ。ペーレウスの子アキレスの怒りを歌うてくれ」である。アキレスは「無償」で怒ったのではなく、友人パトロクロスが殺されたから怒ったのである。その怒りは仇敵ヘクトルを殺しただけでは収まらず、死体を戦車のうしろに曳いて帰るほど強烈だったが、ヘクトルの父が幕舎を訪れて息子の遺骸を乞うと、たちまち涙を流して、願いを容れる。
 
 これらの英雄的な行為が、今日なおわれわれを打つのは、それが「純粋行為」として描かれているからではなく、人間性の真実に根ざした行為だからである。「狼たらん」とか「出生の秘密」のような、女々しい理由づけを必要としないのだ。

「もちろんそんな史実(成吉思汗が狼になろうとした)はあるはずもない。ああいう大事業を達成した人は、大岡氏のいうようにレアリストでなければならない。だが、叙事詩的真実の上では、それは可能である」

 なんとか的真実とか、かんとか的真実とか、真実にそんなに種類があるものだろうか。真実に二つはない。それが真実というものである。『イリヤス』も『平家物語』も、そこに語られることが真実だと信じられたからこそ、叙事詩的感動が生じたのである。「奇想天外な説明を与えておけば十分」だったのではなく、今日の目から見れば奇想天外なことが、昔の作者には真実だったのである。

 『イリヤス』や『平家』の、ごくつまらない細部にも、真実のひびきを残しているのはそのためで、これが叙事詩的真実である。山本氏の見ているのは叙事詩の幽霊にすぎない。十何巻の『日本の歴史』や『世界の歴史』が十万部以上売れる世の中に、「成吉思汗は蒼き狼なり」のごとき誤った観念を抱きうるのは小説家だけである。そこに叙事詩的錯覚を起こすのは、山本氏のような叙事詩の幽霊に取りつかれた批評家だけなので、常識のある人間に同じ錯覚を強いることはできない。

 山本氏は別の個所で「物語の論理」という言葉を使っているから、多分「叙事詩的真実」も、もののたとえなのであろう。しかしこんなたとえ話でお茶をにごしているから、批評は混乱するのだ。
「物語の論理から自然に出てくる発想だ」(あたかも物語りに諭理があるかのごとく)なんてことを言うから「話のつじつまを合わせただけじゃないか」という反論をひき起こすのである。

 柿本人麻呂や芭蕉について、あれほど真実を語り、また真実のほかは語らない山本氏が、現代文学となると、たとえ話に終始するのは不思議である。「ヒイキの引き倒し」という言葉があるが、これでは「ヒイキに引き倒され」である。

 最後に「お前も歴史小説を書いたらどうだ」との仰せだが、これは作家として、少し迷惑である。いかにも私には幕末の一事件を主題とする歴史小説のプランを数年来持っていて、来年あたり取りかかろうかと思っているが『蒼き狼』の悪口を言ったばかりに、義務となるのでは気が重い。なまじ小説を書いてるために、他人の作品をけなすとかならず「お前にゃ書けないだろう」というシンパが出て来るんでは、うるさくて仕方がない。

 数ある作家の作品をけなすごとに、同種の小説を書いていては、最低限からだが二つなくてはかなわぬ。山本氏のような批評家はいくつあっても足りぬだろう。
「自分じゃ書けないくせに」はあらゆる作家が内心批評家に持ってるフンマンだが、書けないやつでも批評はうまいことがあるから、批評家という職業が成り立っているのである。自分をタナに上げるのは、いわば批評の大前提で、私も批評文を書く時は、同じ特権にあやからしてもらう。ケチなことは言うまいぞ。

特集 歴史小説論争
『蒼き狼』は歴史小説か  大岡昇平
『蒼き狼』は叙事詩か   大岡昇平
自作「蒼き狼」について  井上靖
成吉思汗の秘密       大岡昇平
歴史小説と史実      井上靖
『蒼き狼』の同時代評   曽根博義
『蒼き狼』論争一     曽根博義
『蒼き狼』論争二     曽根博義
花過ぎ 井上靖覚え書   白神喜美子 

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