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ピーターラビットとナショナルトラストPart5

 十八世紀中葉のイギリス。そのときのイギリスは、まさに世界を征服せんとするばかりに興隆した時代だった。しかしその興隆はまたイギリス内部にいくつもの深刻な荒廃と腐敗をもたらしていった。その一つが農業の荒廃だった。産業革命によって人々は職を求め、生活の向上を求め、都市へ都市へと流れていった。地方から流入してくる労働者たちで都市の人口はふくれあがっていく。生活の向上どころか使い捨てられる労働者。都市の労働環境は荒廃の一途をたどっていく。なかでも労働者たちの住む住宅は劣悪だった。都市のいたるところにスラム街が自然発生的に生まれていった。三つ目が自然破壊だった。美しい自然が建設という破壊によって無残に消えていく。
イギリス社会に危機をもたらすこの深刻な三つの領域に、それぞれの思想と理想を携えて立ち上がった人々がいた。共有地保存協会が生まれ、住宅改善運動が生まれ、そして湖水地方に環境を守る運動が生まれていった。やがてこの三つの活動が一つになって、一八九五年に「ナショナルトラスト」が正式に発足するのである。

 このナショナルトラストは、国の援助などない、まったくの市民による市民の活動によって成長していくのだが、ピーターラビットもまたこの活動に多大な貢献をするのだ。というのはピーターラビットを生み出したビアトリクス・ポターもまたこのナショナルトラストの生誕させた一人だったのだ。彼女がその絵本で描く美しい田園風景がどんどん破壊されていく。イギリス経済の狂気に満ちた成長は、彼女の住む湖水地方まで建設という魔の手をのばしてきたのだ。
 彼女の書く絵本「ピーターラビット」はベスト・セラーになっていた。そのシリーズは爆発的に売れていた。ポターはその印税で、次々に投げ出されていく牧場を買い上げていくのだ。開発から湖水地方を守るため、その地に住む人々の生活を守るために。1943年、彼女は77歳で亡くなったが、その時に彼女が所有していた15の農場とコテージをナショナルトラストに寄託するのだ。ピーターラビットの住む美しき村、美しき田園、美しき家々、美しき湖は守られたのだ。

 このイギリスで生まれた民間人による社会活動──ナショナルトラスト──は歴史を縫い合わせるように成長していって、現在ではその活動を支える会員は四百万人を越えている。年間の総予算も数百億円という規模をもち、その活動で給与を得ている職員の数は三千人にもおよぶ。何キロにも及ぶ海岸線、何百万エーカーという自然保護地域、さらには歴的建造物、庭園、公園、農場、村落、風車や水車、そして絵画や彫刻などその守備範囲は多岐にわたっている。今やナショナルトラストはイギリス社会のもう一つの背骨をなすばかりになっているのだ。

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対話編
──ニア・ソーリーのヒルトップ農場から投函されるあなたの絵葉書が届くたびに、「ミスポター」をみてるのよ。
──レニー・ゼルウィガーのね。彼女が素敵よね。
──そう、ビアトリクス・ポターのイメージは、もう完全にレニー・ゼルウィガーになってしまった。あの映画をみるたびに新しい発見があるんだけど、あのとき彼女は三十九歳だったのよね。
──彼女の絵本を出版したフレデリック・ノーマンと婚約したときね。
──映画では、いくつもの舞い込んできた縁談をみんな断ってきたって描かれているけど、なにか彼女はとても屈折したものをもっていたからじゃないかと思うけど。
──屈折か、屈折という言い方も面白いね。
──だって、暗号を作り出して、その暗号をつかって日記を書いていたなんてことをしてたんでしょう。十五歳のときからなんと二十年間ちかくも暗号の日記を書き続けている。これって屈折した人のやることよね。
──彼女の死後に、その暗号が解読されて公開されたけど、別に秘密にしなければならないようなことが書かれていたことじゃないけど、でもそれはちょっと屈折した行為よね。暗号で日記を書くなんて。
──それから三十歳すぎてからは、キノコの観察に熱中して、キノコの生成の過程を、ものすごく高価な顕微鏡まで購入して、もう菌類学者がしているような研究をはじめるのよね。
──そうなの。王立植物園の外来の研究者となって、そこで本格的な研究をして「ハラタケ属の胞子発生について」という論文まで書き上げているのよ。
──彼女はその論文を学会で発表したかったけど、女性だということで拒まれている。暗号日記のなかで、そのことを非難しているわよね。
──あなたのポターの関心は本格的ね、会うたびにあなたのポター観は深くなっていく。
──それはあなたの影響よ、今年もまたイギリスに行くんでしょう。
──そう、またヒルトップ農場から絵葉書をだすわよ。
──そしたらまた私は「ミスポター」を見ることにするわ。
──今度の旅の主な目的はね、ナショナルトラストを創設した三人の中に一人、オクタビア・ヒルの探求にあるの。産業革命で地方からどっと都市に流入していった労働者たちの住む住居があまりにも烈悪で、その改善に立ち上がった人。
──その人は女性よね。
──そう、女性の参政権のなかった時代に、社会の前面に立って改革活動の旗を振っていった。男性社会の、古い時代の圧政を打ち壊そうと戦った女性。
──なんだか、その人も魅力的ね。
──そう、彼女もまたポター以上に、複雑に屈折した女性なのよ。

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