碌山の源流をたずねて 2 一志開平
苦難のアメリカ時代
アメリカ行きの説得工作で故郷に戻った守衛は異常なまでにその決意が燃えていた。まず両親は「アメリカ行きは困ったことだ」と否定的であり、井口喜源治からも「君の思いつきは無謀すぎる」とたしなめられ、相馬夫妻も初めはびっくりしている。しかし守衛は折しも小山正太郎が絵の勉強のためにフランスへ渡ることもあり、この際川井運吉とアメリカに渡ることによって心機一転、直接欧米の美術に触れて勉強したい一念であった。説得が佳境に入ると守衛のふるいたつ決意にうながされるように兄穂一が賛成の意を表明し、両親に続いて親類、知人、周囲の賛同も得られて、とうとう海外への堆飛が約束されるのである。
守衛の旅立ちを祝福するかのように不同舎の先輩画家三宅克己の懇切丁寧な助言でアメリカ概図やニューヨークの詳細図などで予備知識を得ることができた。その上津田梅子からはフィラデルフィアヘの紹介状までが届いている。守衛はその頃親しかった女性とも別れを告げ、生家では羽織はかまを、本十兄夫妻は帽子や名刺を、そして相馬家と穂一兄からは金の工面まで受けている。
明治三十四年三月十三日横浜の埠頭で見送りの人々と別れ、守衛の乗った香港丸はアメリカ大陸へ船出するのである。
横浜出港から八日目、ハワイのホノルルで同行した川井と別れ、そこからはひとり旅となり、サンフランシスコに上陸してからは三宅克己の指示通り汽車でアメリカ大陸を横断して憧れのニューヨークに到着するのである。
ニューヨークでは先ずマンハッタンの教会に広瀬牧師をたずね、そこから職業紹介所通いでいよいよ職探しがはじまり、皿洗い、靴みがき、そしてケンブリッジでのファミリー、ハウスキーパーの手伝いなど転々と職を変え、落ちつかない日々を過ごしている。ところが渡米から半年が過ぎた九月の終り、富豪であるフェアチャイルド家でのスクールボーイとして働きながら学べる耳よりの話が持ちあがって、いわゆる家僕として家族の身のまわりの世話をする小間使いなどで、月給十五ドルを得て美術学校で学べる幸運を得ている。
十月から通いはじめたアート・スチューデンツ・リーグは当時のニューヨークでは立派な画学校であり、指導の牧師チェイスはヨーロッパに留学した新進の画家でもあった。守衛は当時の様子を井口喜源治に次のように書き送っている。「絵はまた迷いの時代に入ったのでしょうか。僕の画業もいっこうに進歩しないで悩んでいます。時には絵を破り、筆を投げ捨てて帰途につく事もありますが、人生五十年、僕はまだその半分以上も残しています。努力すれば必ず目的が達せられるものと次の日の朝は、少しでも早く用事を片付けて学校へ行っております」とあり、まさに異郷の地での郷愁と孤独とのたたかいに堪えながら画業に専念しようとする熱意を伺うことができる。
しかも月十五ドルの給料のなかから十ドルの月謝を払い、絵を画くための材料等を購入すると残りは僅かで苦しい生活が続くのであった。守衛はそんな時でも自分を支援してくれた先輩を思い、その面影を浮かべながらいつも「人の成せしたことは人の成し得ること」と自己に鞭打つのであった。
その後六月から何とか資金をつくるためにニューヨークを離れてフェアチャイルド家の避暑地ニューポートヘ移ることになった。船で東北へ三百キロ、そこから汽車で八時間半、海岸の丘の上に建つ別荘であった。そこでは月三十五ドルの収入を得ることができて、守衛は働きながらひたすら「聖書の研究」をはじめ数多くの読書を経験することができたのである。
戸張孤雁との出会い
人生における人と人との邂逅は極めて意義深いものである。守衛と孤雁との出会いはニューポートで大西洋岸の絵を画く海洋画家リチャーズの話「ニューヨークの僕の家に志村亀吉(戸張孤雁)という青年がボーイをしながら絵の勉強をしている」に端を発している。
十月のはじめ守衛はフェアチャイルド家の人々とニューポートからニューヨークへ戻り、以前と同じように家僕生活を続けるのであるが、今度は午前九時から午後四時まで勉強の時間が延長されたことを好都合にただちにチェイス・スクールで学ぶことになり、ここで尊敬する師ロバート・へンリーから特に油絵の指導を受けるのである。孤雁は守衛より三つ年下で、守衛より僅かおくれて渡米しているが日本で英語を学び、リチャーズ家に身を寄せながらナショナル・アカデミーで絵とさし絵を学んでいる。
守衛はニューヨークに帰って間もなく自分と同じ境遇にある孤雁に逢うためにナショナル・アカデミーをたずねた。一面識もないふたりであるが、守衛から「君が孤雁君ですか。私は守衛です。君がここに通学していることはニューポートのリチャーズ翁から聞きました」と突然声をかけ、初対面のふたりはギリシャ彫刻の像の足もとに腰をかけて話しあうのであった。こんなふうにして知り合い、その数日後には孤雁が守衛の働いている家をたずねている。守衛はフェアチャイルド家の五階の部屋にミレーやミケランジェロの描いた絵の写真を張りめぐらして孤雁を迎え、その後も最も親しい友として終生まじわりを続けるのである。
守衛はその後、秋のセントラル・パークでメトロポリタン美術館を訪れ、そこでミレー、ラファエル、ミケランジェロ、そしてコロー、ルーベンスの作品に深い感銘を覚え、前途への光明に導かれるのであった。更にまたニューヨークの冬は市内にいくつかの展覧会が開かれ、守衛は学校の帰りに殆どの展覧会を見て廻り、世界の美術の動向や現代絵画の様相を眺めながら美術への眼が開かれていくのであった。
守衛のひたむきな熱意と努力とが実って明治三十六年、守衛は二十三歳をむかえたばかりの学校の定期試験を兼ねた展覧会にはじめて入賞することになる。勿論多くの先輩を飛び越えての入賞であった。その時ロバート・へンライは「萩原の絵はなかなか表現性に富んでいる。そして日本の特性をも発揮したものだ」とほめたたえている。もともとへンライの画風は自己表出的であり、守衛の心情によく合っていることもあり、さすがアメリカに近代美術を定着させ、技術上の巧みさのみではなく、表現に宿る積極性をもだいじにしていた。
守衛はこのヘンライに出会ったことを心の底からよろこぶのであった。守衛は最高賞ではなかったものの大きな喜びであった。郷愁の念が消えない長い年月であったが、今こそ美術を通して自分をみがくことがだいじであって、それ以外に道はないと固い決心でひたすら画業に励むのであった。
守衛はこの頃から「芸術とは何か」を真剣に考えるようになり、人間と芸術との関係を根本的に追及しはじめている。そして何とか早く独立したい気持と、本格的な美術を勉強するにはフランスに渡らねばならぬことを次第につのらせていった。その頃「不同舎」の先輩であった中村不折や岡精一は既にパリに留学していることもあり、守衛は「不同舎」の職人主義的なものへのあきたらなさ、そして今までアメリカで学んだ技術主義的でアカデミックなアート・スチューデンツ・リーグや、印象主義の影響下にあったニューヨーク・スクール・オブ・アート、そしてアメリカ美術界の印象派、古典派、アカデミー派の対立、客概的描写の強要などにも疑問を感じ、ヒューマニスティックな思想性にもひかれてフランス行きの夢を実現しようと心に誓ったのであった。
その頃の守衛は孤雁を自分の学校に誘って一緒に勉強を続け、疲れると誘いあって学校の食堂で一杯のコーヒーと一皿のお菓子をふたりで分けあうこともしばしばであって、ふたりの友情はいよいよ深くなるのであった。戸張孤雁論説「有の儘」で当時の守衛について、孤雁は次のように語っている。「教場に入るとすぐ上着を脱ぐと、他生徒が若しも教室内で騒ぐと大きな声で『騒がしい』と、しかも日本語で怒鳴るのは君であった。怒鳴ったあと、だれが怒鳴ったかというような顔をしておるのも又君であった。君の無邪気は有名ですべての人々からオギャラー、またはミスター・ゴッデームと呼ばれて可愛がられていた。ゴッデームはこの言葉の乱用からだれ命ずるとなく何時か一つのニックネームとなったのである」とある。このことはその頃の守衛にとって孤雁の存在なくしてはこんな雰囲気にならなかったのではないかと察せられるのである。
その頃のアメリカ美術界はいわゆる庶民的、民主主義的性格をもった八人派に、反対派の攻撃がきびしく門戸を閉ざされたかたちになっていたため活発には動きはじめてはいなかったのであるが、守衛はこの八人派のロバート・へンリーに学んだことから人種的偏見や差別を排除する気風に好感を持ち、その後排日運動の激化をも容易に乗り越え、自由で軽決な生活を送ることができたのである。守衛は絵を画く中核に思想がなくてはならないことをひしひし感じ、孤雁ともそのことを語っているが、井口にあてた手紙のなかに次のように書いている。
「わが国の画人の欠点は、その技術にあるのでなくて、その思想の不足にあるのです。雪舟、兆殿司を出し、探幽、光起を生んだ日本は、決して決して西洋美術家の腕前に劣るものでなく、かえって優れているのですが、ただただラファエルのような思想がなく、ガイのような高い理想がないのは残念です」とある。これは絵の評価を技術的のみの見方ではなく、その根底に哲学をそして高い精神性のだいじさを強調しているように思える。そのことはアメリカは新しい国であり、美術の歴史も短く、したがってすぐれた美術家も少ないことから芸術の都パリで何とか絵の修業をしたいとあこがれをつのらせていたのである。
その年も守衛は昨年同様、六月から九月までニューポートの別荘で働き月々三十五ドルの給料をできるだけ節約して貯蓄にまわし、渡仏の費用にと胸ふくらむのであった。九月に入るとその実現可能の見通しがついてきたことから、ニューヨーク在住の日本人学生で結成された五一会の会員が集って守衛の壮途を祝し、心のこもった送別会を開いて守衛を見送ってくれている。孤雁にとって守衛との別れが殊のほか淋しく、ニューヨーク港の岸壁にただひとり、大西洋上の人となった守衛をいつまでも見送り前途を祝福してくれていたのであった。
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