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三人姉妹 第二幕           アントン・チェーホフ

 

一九〇〇年に書かれた、一九〇一年モスクワ芸術座によって初演された「三人姉妹」では、同じ主題がいっそう暗いトーンで展開する。凡俗な地方都市に住む三人姉妹にとって、両親のいない家庭における唯一の男子であるアンドレイがやがて大学教授になり、そして自分たちが明るい少女時代をすごしたモスクワへ帰ることが、唯一の夢であり、生活の支えとなっている。

 しかし、彼女たちのそうした幻想は現実の生活によってしだいに打ち砕かれてゆく。そのことは、第一幕でモスクワ行きの夢を語るオリガとイリーナの会話の合間に、舞台奥での将校たちの「ばかばかしい」という台詞や、笑い声がはさまれていることによって暗示されている。

 アンドレイは浅薄な女と結婚して、イオーヌイチのように、クラブでの力-ドや酒だけが楽しみといった俗物になってしまう、労働にロマンチックな夢を託していた末娘のイリーナは、いざ実際に勤めにでて、毎日の散文的な仕事に追いまくられ、モスクワによって象徴されるばら色の夢がくだらぬものであったことを思い知るのである。

 また、世間的な体面や秩序だけを気にして生きているような教師クルイギンにとって二女のマーシャは、人類の明るい未来を美しく語るヴェルシーニンとの恋に生命を燃やそうとするが、そのヴェルシーニンとて、しじゅう自殺未遂をしでかすヒステリーの妻を扱いかねている頼りない人間にすぎない。こうして、連隊が町を去って行き、三人姉妹のすべての夢と幻想はぶちこわされ、彼女たちはあらためて「地に足をつけて」生きてゆかねばならぬことを決心するのである。

 

三人姉妹  

第二幕

 装置は一幕と同じ。
夜八時。舞台裏の通りでアコーデオンを弾いているのが、かすかにきこえる。灯りはない。ガウン姿のナターシャ、蝋燭を手にして登場。舞台を歩いて、アンドレでの部屋に通じる戸口のわきで立ちどまる。

ナターシャ  アンドリューシヤ、何しているの? お勉強? いいのよ、ただちょっと……〔歩いて、別のドアを開け、中をのぞいてから閉める〕灯りはついてないわね。
アンドレイ  〔本を手に登場〕何してるんだい、ナターシ?
ナターシャ  蝋燭をつけ忘れてないか、見まわっているの……今カーニバルで、女中たちも心ここにあらずといった様子だから、何事も起きないように、用心に用心を重ねないとね。昨日も夜中に食堂を通ったら、蝋燭がつけ放しなんだもの。だれがつけたのか、結局うやむやになってしまったけど。〔蝋燭をおく〕何時?
アンドレイ  〔時計を見て〕八時十五分。
ナターシャ  オリガもイリーナも、こんな時間までいないのね。帰ってこないの。みんな働いてるんだわ、可哀そうに。オリガは職員会讃で、イリーナは電報局……〔溜息をつく〕今朝も妹さんにあたし言ったのよ。「身体に気をつけるのよ、イリーナ」って。でも、きく耳を持たないから。八時十五分ですって? あたし心配だわ、ボービクがまるで元気がないの。どうしてあんなに身体が冷たいのかしら? 昨日は熱があったのに、今日は全身が冷え切ってて……とても心配だわ。
アンドレイ  大丈夫だよ、ナターシャ。坊やは元気だよ。
ナターシャ  でも、やっぱり食餌療法をする方がいいわ。あたし心配だものそれに今夜九時すぎに仮装行列の人たちが来るって言うじゃない。来てくれない方がありがたいんだけど、アンドリューシャ。
アンドレイ  そんなこと僕は知らんよ。だって招いたんだろうに。
ナターシャ  今朝、坊やったら目をさまして、あたしを見ているうちに、ふいににっこりしたわよ。つまり、顔がわかったのね。「ボービク、おはよう! おはよう、坊や!」って言ってあげたら、声をあげて笑うの。子供ってわかるのね、ちゃんとわかるのよ。それじゃ、アンドリューシヤ、仮装行列の人たちは家に上げないように、言っとくわね。
アンドレイ  〔煮え切れぬ口調で〕しかし、姉さんたちがどういうかな。姉さんたちがこの家の主婦なんだから。
ナターシャ  あの人たちだって同じ気持よ。あたしから言うわ、親切な人たちだから……〔歩く〕お夜食にはヨーグルトを出すように言っといたわ。お医者さんが言っていてたわよ。あんたにはヨーグルトしかあげちゃいけません。でないと痩せられないって。〔立ち止まる〕ボービクが冷たい身体をしてるの。心配だわ、あの部屋が冷えるのね、きっと、せめて陽気が瞹かくなるまででも、ほかの部屋に移す必要があるかもね。早い話、イリーナの部屋なんか、まさに子供向きだわ。乾燥してるし、一日じゅう陽がさすし、言ってみる必要があるわ。あの人はさしあたりオリガと一つ部屋だってかまわないもの……どうせ家にはあまりいないんだし、寝るだけなんだから……〔間〕アンドリューシヤ、どうして黙ってるの?
アンドレイ  別に。考えごとさ……それに別に話すこともないしさ……
ナターシャ そうね……あんたに何か言おうと思ってたんだけど……あ、そうだわ、県会からフェラポントが来て、お目にかかりたいって。
アンドレイ  〔あくびをする〕呼んでくれ、
〔ナターシャ退場。アンドレイ、彼女のおき忘れた蝋燭の方にかがみこんで、本を読む、フェラポント登場、古いすりきれた外套の襟を立て、両耳は布でくるんでいる〕
アンドレイ  やあ、今晩は。何の用だね?
フェラポント  議長さんが本と、何かの。書類をお届けしろとかって、……これです……〔本と封筒を渡す〕
アンドレ  ありがとう、わかった。どうしてこんな時間に来たんだい? だって、もう八時すぎだぞ。
フェラポンド  何でごぜえます?
アンドレイ  〔声を大きくして〕ずいぶん遅く来たな、八時すぎだぞって言ってるんだよ。
フェラポント  さようでございますとか。わたしの参った時は、まだ明る
かったのに、通していただけなかったんで。旦那さまはお仕事だとかってね、なら、しかたがない お仕事ならお仕事で、こっちは別にどこへ急ぐ身でもありませんしね。〔アンドレイが何かたずねていると勘違いして〕何でごぜえます?
アンドレイ  別に。〔本を眺めながら〕明日は金曜で、役所はないけど、どのみち僕は行って……仕事をするよ。家にいると、気がくさくさするしね……〔間〕なあ、お爺さん、人生ってのはまったく妙に変わって、人をだますもんだね。今日僕は、何もすることがないんで退屈しのぎに、ほら、この本を手にしてみたんだ、大学の古い講義録だよ、そしたら滑稽になってきたよ……まったくさ、僕はいま県会の書記だ、ブロトポポフが議長をしている県会の書記だから、僕のいだきうる最大の夢は、県会議員になることなんだ。僕がここの県会議員になるなんて。モスクワ大学の教授でロシア全上の誇りとする有名な学者になることを、毎晩夢に見ているこの僕がさ!
フェラポント  わかりませんね……よくきこえないもんで……
アンドレイ  お前がちゃんときこえるんだったら、たぶん、僕もお前にこんな話はしないだろうよ。僕はだれかと話さずにはいられないんだけど、家内はわかってくれないし、姉さんや妹だと僕はどういうわけか、こわいんだよ。僕を笑って、恥をかかせそうな気がして……僕は酒を飲まないし、飲み屋は嫌いだけど、今モスクワのテストフとか大モスクワとかいうレストランに坐れたら、どんなにいい気持がすることだろう。
フェラポント  さっき役所で請負師が話してましたけど、モスクワで、どこやらの商人たちがホットケーキの食べくらべをやって、ホットケーキを四十平らげた男が死んだとかって話ですよ。四十とか五十とか。よくおぼえてませんがね。
アンドレイ  モスクワのレストランの、広々としたホールに坐るとね。だれも知った人はいないし、こっちを知ってる者もいないけど、それでいて、よそ者という気がしないんだよ。ところがここじゃ、みんな知った顔ばかりだし、こっちもみんなに知られているのに、赤の他人の、よそ者なんだからな……一人ぼっちの、よそ者なんだ。
フェラポント  何でごぜえます? 〔間〕それから、これもその請負師の話だと、ことによると嘘かもしれませんけど、なんでもモスクワ中を横切ってロープが張られてるとかって。
アンドレイ  何のために?
フェラポント  わかりません。請負師の話なんで。
アンドレイ  そんなばかな。〔本を読む〕モスクワへ行ったことはあるのかい?
フェラポント  ごぜえません。〔間をおいて〕神さまが連れて行ってくださいませんでしたんで。〔間〕もう行ってもいいですか?・
アンドレイ  行ってもいいよ、気をつけてな。〔フェラポント、出て行きかける〕身体に気をつけろよ。〔読みながら〕明日の朝来て、この書類を持って行いい……〔間〕帰ったな。〔ベルの音〕そう、仕事だ……〔伸びをして、ゆっくり自分の部屋に退場〕
〔舞台裏で乳母が赤ん坊を客かせつけながら、うたっている。マーシャとヴヱルシーニン登場。あとで、二人が話している間に、小間使がランプと蝋燭をともす〕
マーシャ  わかりませんわ。〔間〕わかりません。もちろん、永年の習慣というものが多くの意味を持つでしょうね。早い話、お父さまの亡くなられたあと、あたしたち、家にはもう従卒がいないってことに、いつまでも慣れることができませんでしたもの。でも、習慣を別としても、あたしの心の中で単に公平な気持がものを言ってるだけのような気もしますわ。ことによると、ほかの土地ではこうじゃないのかもしれませんけど、この町ではいちばんまともで、いちばん上品で、教養のある人種といったら、軍人さんですもの。
ヴェルシーニン  咽喉が乾きましたね。お茶を飲みたいもんだな。
マーシャ  〔時計を見て〕もうじき出ますわ。あたしは十八の時に結婚したんですけど、主人がこわくてなりませんでしたわ。だって主人は先生でしたし、あたしはその頃、学校を出たばかりですもの。その頃は主人がひどく学のある、賢い、偉い人みたいに思えたんです。でも今は、残念ながら違いますけど。
ヴェルシーニン  なるほど……そうですか。
マーシャ  主人の話はしませんわ。もう慣れましたから。でも、概して文官の間には、がさつな、不親切な、育ちのわるい人がとても多いですね。がさつなのって、あたしむかむかして、気持を傷つけられるんです。デリカシーに欠けたり、やさしさや親切さの足りなかったりする人を見ると、辛くてなりませんわ。たまに主人の同僚の先生たちの集まりに出なければならない
ような時なぞ、それこそ苦痛なだけですわ。
ヴェルシーニン  そうですかね……しかし、わたしには文官も軍人も同じような気がします。興味という点からいや、少なくともこの町では同じですよ。どっちもどっちです! 文官でも軍人でもいい、この町のインテリの話をきいてごらんなさい、やれ細君のことでへとへとだとか、家のことでへとへとだとか、領地のことでへとへとだとか、馬のことでへとへとだとかって話ばかりですから……ロシア人にきわめて固有なのは、高尚なものの考え方なのに、実生活ではどうしてこう狙いが低いですかね! なぜでしょう?
マーシャ  なぜですの?
ヴェルシーニン  なぜ子供たちのことでへとへとになったり、細君のことでへとへとになったりするんでしょう? 逆にまた細君や子供たちは、なぜ彼のことでへとへとになったりするんでしょうね?
マーシャ  あなた、今日はいささかご機嫌斜めね。
ヴェルシーニン  かもしれません。今日は食事をしなかったので、朝から何も食べていないんですよ。娘がちょっと病気でしてね。娘が病気をすると、わたしは不安にかられて、娘たちの母親があんな女であることに対して良心の呵責を感じるんです! まったく、今日の家内をあなたがごらんになったらね! なんて下らない女なんだろう。朝の七時から夫婦喧嘩をはじめて、九時にはわたしはドアをピシャンと閉めて、出て来ちまったんです。〔間〕こんなことは決して話さないんですけど、ふしぎですね、あなたにだけは愚痴をこぼしたりして。〔手にキスする〕お怒りにならないでください。あなた以外に、わたしにはだれもいないんです、だれも……〔間〕
マーシャ  ペチカがすごく唸ってますわね。お父さまの亡くなる少し前にも、煙突がごうごう鳴ったものでしたわ、ちょうどこんなふうに。
ヴェルシーニン  あなたは縁起をかつぐほうですか?
マーシャ  ええ。
ヴェルシーニン  おかしいな、それは、〔手にキスする〕あなたは実に美しい、すばらしい方だ。実に美しい、すばらしい女性だ! ここは暗いけれど、あなたの眼のかがやきが見えますよ。
マーシャ  〔別の椅子にかける〕ここのほうが明るくってよ……
ヴェルシーニン  好きだ、好きです、愛してます……あなたの眼や、あなたのしぐさが大好きで、夢に見るほどなんです……実に美しい、すばらしい女性だ!
マーシャ  〔小さな声で笑いながら〕あなたがそんなふうにおっしゃると、あたし、なぜか笑ってしまうの、そのくせこわくてならないのに。もう二度とおっしゃらないで、お願いです……〔小声で〕でも、おっしゃってもいいわ、どうせ同じことですもの……〔両手で顔をおおう〕あたしには同じことですわ。だれか来るみたい、何かほかのお話をなさって……
  〔イリーナとトゥゼンバフ、広間を通って登場〕
トゥゼンバフ  僕の苗字は三重なんです。男爵トウゼンバフ・クローネ・アルトシャウエルというんですが、僕にはドイツ的なところはほとんど残っていませんね、わずかに、こうしてあなたをうんざりさせている粘り強さと強情さくらいのものでしょう。なにしろ毎晩あなたを送ってくるんですから。
イリーナ  疲れたわ、とても!
トゥゼンバフ これからも毎日電報局へ行って、あなたをお家まで送ってくるでしょうよ、あなたに追っぱらわれないかぎり、十年でも二十年でもつづけます……〔マーシャとヴェルシーニンに気づいて、嬉しそうに〕いらしてたんですか? 今晩は!
イリーナ  やっと家に帰れたわ。マーシャに今しがたも女の人が来て、息子さんが今日死んだことを、サラトフにいる兄さんに電報で知らせるというんだけど、その人、アドレスをどうしても思いだせないのよ。結局、サラトフ市とだけにして、アドレスなしで打ったわ。泣いていてね。それなのにあたし、これという理由もないのに、ぞんざいな口をきいてしまったわ。こっちは忙しいんですからなんて。なんてばかなことをしてしまったのかしら。今夜、仮装行列の人たちは来るの?
マーシャ  ええ。
イリーナ  〔肘掛椅子に坐る〕休みたいわ。疲れちゃった。
トゥゼンバフ  〔徴笑をうかべて〕お勤めから帰ってらっしゃると、あなたは、まだほんとに年のいかない不幸な娘さんみたいに見えますよ………〔間〕
イリーナ  疲れたわ。厭ね、電報局なんてあたし嫌いだわ。嫌いよ。
マーシャ  少し痩せたわね……それに少し若くなったし、顔なんか男の子みたいになったわ。
トゥゼンバフ  それは髪のせいですよ。
イリーナ  ほかのお勤めを探さなければね。この仕事、あたしには向かないわ。あたしがあんなに望んでいたものや、夢みていたものが、まるきりないんですもの、詩や思想のない労働なんて……〔床を叩く音〕軍医さんが叩いているわ。〔卜ゥゼンバフに〕ね、トントンって鳴らしてちょうだい……あたし、だめなの……疲れてしまって……
トゥゼンバフ  〔床を足で鳴らす〕
イリーナ  今やってくるわ。なんとか手を打たなければね。ゆうべ、軍医さんとアンドレイ、クラブに行って、また負けたのよ、アンドレイが二百ルーブル負けたって話だわ。
マーシャ  〔冷淡に〕今さらどうなるもんですか!
イリーナ  二週間前にも負けたし、十二月にも負けてるのよ。いっそ何もかも取られてしまえば、ひょっとして、この町を出られるかもしれないわね。あーあ、毎晩モスクワを夢に見るの、まるきり頭がおかしくなったみたい。〔笑う〕向うへ移るのが六月でしょう、六月まであと……二月、三月、四月、五月……半年近くあるのね! 
マーシャ  ただ、なんとかナターシャにカードの負けのことを勘づかれないようにしないとね。
イリーナ  あの人、どうってことないと思うわ。
〔夕食後ひと休みして、今しがた寝床から起きだしたばかりのチェブトウイキン、広間に入ってきて.顎ひげをとかしつけたあと、食卓に向かって、ポケットから新聞をとりだす〕
マーシャ  ほら、お出ましよ……あの人、部屋代を払ったの?
イリーナ  〔笑う〕いいえ。八ヵ月間に一カペイカも。どうやら、忘れたらしいわ。
マーシャ  〔笑う〕あの偉そうな坐り方!
  〔一同笑う、間〕
イリーナ  どうして黙ってらっしゃるんですの。アレクサンドル・イグナーチイチ?
ヴェルシーニン  わかりません。お茶を飲みたいんですよ。一杯のお茶のためなら、人生を半分捧げてもいいほどです! 朝から何も食べていないもんですから……
チェプトゥイキン  イリーナ・セルゲーエヴナ!
イリーナ  何かご用?
チェプトゥイキン  こっちへいらしてくださいよ。どうぞこちらへ。〔イリーナ、行って、テーブルの前に坐る〕あなたがいないと、わたしはだめなんです。〔イリーナ、トランプのひとり占いをはじめる〕
ヴェルシーニン  しょうがない。お茶が出ないなら、せめて哲学でもぶちますか。
トゥゼンパフ  いいでしょう。テーマは?
ヴェルシーニン  テーマ? ひとつ空想してみようじゃありませんか……たとえば、われわれの死後、二、三百年たって、生活がどうなっているか。なんて。
トゥゼンバフ そうですね? われわれの死後には、気球で空を飛ぶようになるでしょうし、背広の型も変わるでしょう。ひょっとしたら、第六感とやらを発見して、発達させているかもしれませんけど、生活は相変わらず今のままでしょうよ。困難で、秘密にみちた、それでいて幸福な生活でしょうね。千年後の人間もやはり同じように「ああ、生きてゆくのはつらい!」と溜息をつくだろうし、同時に一方では今と同じように、死を恐れ、死を望まないでしょうよ。
ヴェルシーニン  〔ちょっと考えて〕どう言えばいいかな? わたしの考えだと、この地方のものはすべて少しずつ変わってゆくのが当然だし、現にわれわれの目の前でもう変わりつつあると思うんです。二、三百年したら、いや、結局、千年もすれば、問題は期限なんぞじゃありませんからね、きっと、新しい幸福な生活が訪れることでしょう。その生活にわれわれは、もちろん、参加することはないけれど、その生活のためにわれわれは今こうして生きて、働いているんだし、まあ、苦しんでもいるわけなんで、われわれがその生活を作りだしているんです。そして、そこにこそわれわれの存在の意味もあるし、言うなれば、われわれの幸福もあるんですよ。
マーシャ  〔小さな声で笑う〕
トゥゼンバフ  どうしたんです?
マーシャ  わからないわ。今日は朝から二日じゅう笑ってばかりいるの。
ヴェルシーニン  わたしはあなたと同じ学校を出たんですが、陸軍大学には行かなかったんです。本はたくさん読むものの、本を選ぶすべを知らないから、ことによると、必要じゃないものを読んでるかもしれませんね。しかし、それにもかかわらず、永く生きていればいるほど、ますますたくさんのことを知りたくなるんです。髪は白くなってゆくし、もう年寄りの部類なのに、知っていることときたらわずかなもんですからね、まったく、実にわずかなもんだ! だけど、それでもやはり、いちばん肝腎な本当のことは、知っているような気がするな。しっかりわきまえている、という気がします。だから、われわれにとって幸福なんか存在しないし、あるはずもない、これからもありゃしないんだってことを、なんとか証明したいと思いますね……われわれはただひたすら働きに働かなけりゃならないんだし、幸福なんて、そんなものは遠い子孫の取り分なんです。〔間〕わたしじゃなく、 せめてわたしの孫のそのまた孫くらいでもね。
  〔フェドーチクとローデ、広間に姿をあらわす。腰をおろし、ギターを
弾きながら、小さな声でハミング〕
トゥゼンバフ  あなたに言わせると、幸福を夢みることさえいけないんですね! でも、かりに僕が幸せだとしたら?
ヴェルシーニン  まさか。
トゥゼンバフ  〔両手を打ち合わせ、笑いながら〕どうやら僕たちは、お互いに理解し合えないようですね。さて、どうやってあなたを納得させたもんかな?
マーシャ  〔小さな声で笑う〕
トゥゼンバフ  〔指を一本立てて彼女をおどかしながら〕たんとお笑いなさい! 〔ヴェルシーニンに〕二百年、三百年といわず、百万年後だって、生活は依然として今までと同じでしょうよ。生活は変わりゃしないし、それ自体の法則に従っていつまでも一定不変でありつづけるでしょうね。しかも、そんな法則は僕らには関係ないんだし、少なくとも、あなたにだって決してわかるはずがないんです。早い話、渡り鳥は、たとえば鶴にしても、ただひたすら空を飛ぶだけで、高尚なものにせよ下らぬものにせよ、たとえどんな考えが頭に浮かんだとしても、やはり飛びつづけるでしょうし、何のためにどこへ飛ぶかを知ることはないでしょう。たとえどんな哲学者が鶴たちの中に増えていったとしても、鶴は飛んでいるんだし、これからも飛びつづけるんです。かってに哲学させとくさ、こっちは飛べさえすりゃいいんだ、ってなもんですよ……
マーシャ  それでもやはり意味はあるんじゃない?
トゥゼンバフ  意味ね……じゃ、今雪が降っていますね。どんな意味があるんです?〔間〕
マーシャ  あたし、人間というのは何かを信じなければいけない、少なくとも信じる心を求めなければいけない、という気がするわ、でなかったら生活が空虚で、からっぽですもの………ただ生きているだけで、何のために鶴が飛ぶのか、何のために子供が生まれてくるのか、何のために空に星があるのか、それも知らずにいるなんて……何のために生きているのかを知るか、でなけりや何もかも下らない、むなしいことと割りきってしまうか、ね……〔間〕
ヴェルシーニン  それにしても、青春が過ぎ去ってしまったのは、やはり残念ですね……
マーシャ  ゴーゴリにこんな台詞かあるわ。この世に生きてゆくのはわびしいことだよ、諸君!
トゥゼンバフ  僕ならこう言いますね。あなた方と議論するのは楽じゃないよ、諸君って。あなた方ときたら、まったく……
チェブトゥイキン  〔新聞を読みながら〕バルザック、ベルジーチェフにおいて結婚、か。
イリーナ  〔低い声でハミング〕
チェブトゥイキン  こいつは手帳にメモしておこう。〔書きこむ〕バルザック、ベルジーチェフにおいて結婚、と、
  〔新聞を読む〕
イリーナ  〔ひとり占いをしながら、物思わしげに〕バルザック、べルジーチェフにおいて結婚、か。
トゥゼンバフ  やっと踏ん切りをつけました。ご存じですか、マリヤ・モルゲーエヴナ、僕は辞表を出したんです。
マーシャ  ききましたわ、でも、いいこととは全然思いませんけど。あたし、文官って嫌いですもの、
トゥゼンバフ  同じこってすよ……〔立ち上がる〕僕は男っぷりがよくないし、軍人だなんて? もっとも、そんなことはどうでもいいんだ……僕は働きます。一生にせめて一度なりと、夜わが家に帰るなり、疲れはててベッドにころげこんで、すぐ眠りに沈む、といったふうに働きたいもんですよ。〔広間に歩み去りながら〕労働者はきっと、ぐっすり眠るんでしょうね!
フェドーチク  〔イリーナに〕今モスクワ通りのブイジコフの店で、あなたのために色鉛筆を買ってきたんですよ。それに、ほら、このナイフと……
イリーナ  あなたはあたしを子供扱いするのに慣れておしまいになったのね。でも、あたしもう大人ですわ……〔色鉛筆とナイフを受けとり、嬉しそうに〕まあ、素敵!
フェドーチク  自分用の万能ナイフも買ったんですよ……ほら、見てごらんなさい……ナイフが一本、こっちにもう一本、それから三本目のは耳かき用で、こっちは小さなハサミ、これは爪切りなんです……
ローデ  〔大声で〕軍医さん、あなた、おいくつでしたっけ!
チェブトイキン  わたしかね? 三十二さ、〔笑声〕
フェドーチク  今度は別のトランプ占いをやってみせましょう。〔トランプ占いをする〕
  〔サモワールが出る。サモワールのわきにアンフィ-サ。しばらくしてナターシヤが登場し。これもサモワー儿のわきで立ち働く、ソリョーヌイ登場、あいさつを交してからテーブルにつく〕
ヴェルシーニン  それにしても、ひどい風ですね!
マーシャ  ええ、うんざりしましたわ、冬なんて。あたし、もう、夏がどういうものなのか、忘れてしまったくらい。
イリーナ  占い、うまく行きそうね、わかるわ。あたしたち、モスクワに行けるのね。
フェドーチク  いや、だめのようですね。ほら、八がスペードの二の上に出たでしょう。〔笑う〕つまり、あなたはモスクワに行かれないってことですよ。
チェブトゥイキン  〔新聞を読む〕チチハル発、当地に天然痘、猛威をふるう。
アンフィーサ  〔マーシャのところに行き〕マーシャ、お茶を召しあがれな、ね。〔ヴェルシーニンに〕さ、どうぞ、隊長さん……申しわけありません、お名前と父称を度忘れして……
マーシャ ここへ持ってきて、ばあや。あっちへは行かないわ。
イリーナ  ばあや!
アンフィーサ  今参りますよ!
ナターシャ  〔ソリューヌイに〕乳呑み児って、ちゃんと理解するんですのね。「おはよう、ボービク。おはよう、坊や!」って言ったら、なにか特別な目であたしを見ましたもの。あなたは親ばかの言うことだとお考えになるでしょうけど、とんでもない、違いますわ、本当に! あれは並みはずれた子なんですわ。
ソリコーヌイ  もしあの子が僕の子だったら、フライパンで丸焼きにして、食っちまいますがね。〔コップを持ったまま客間に入り。片隅に坐る〕
ナターシャ  〔両手で顔をおおい〕なんて教養のない、がさつな人かしら!
マーシャ  今が夏か冬かも気づかずにいられる人は、幸福ですわね。あたし、モスクワに行っていたら、お天気になんか無関心でいられただろうという気がしますわ……
ヴェルシーニン この間、さるフランスの大臣が獄中で書いた日記を読んだんですよ。その大臣はパナマ疑獄で有罪になったんですがね。その人が、かつて大臣をしていた頃には気にもとめなかった小鳥を、牢屋の窓から見て、たいそうな感激ぶりで熱っぽく書いているんです。すでに自由の身になった今ではもう、もちろん、以前と同じように小鳥なんぞに気づきもしないでしょう。それと同じことで、あなただって、いざ実際に暮らすようになったら、モスクワにいることにも気づかなくなるんですよ。われわれには幸福なんて現にありやしないし、決してあるはずがない。ただそれを望んでいるだけなんです。
トゥゼンバフ  〔テーブルの上の菓子箱を取って〕キャンデーはどこです?
イリーナ  ソリョーヌイさんが食べてしまったわ。
トゥゼンパフ  みんな?
アンフィーサ  〔お茶を出しながら〕お手紙でございますよ、旦那さん。
ヴェルシーニン  わたしに? 〔手紙を受けとる〕娘からだ。〔読む〕そうだな、もちろん……すみません、マリヤ・セルゲーエヴナ、こっそり退散します。お茶はいただきません。〔興奮した様子で立ち上がる〕いつまでたってもこの騒ぎだ……
マーシャ  何かありましたの? 秘密でなければ?
ヴェルシーニン  〔低い声で〕家内がまた毒を飲んだんです。行ってみなければ。気づかれぬように帰ります。ほとほと厭になりますよ、こんなことは〔マーシャの手にキスする〕可愛い人だ。感じのいい素敵な女性ですね、あなたは……こっちからそっと帰ります……〔退場〕
アンフィーサ  どこへいらしたんです? お茶をお出ししたのに……なんて人だろう。
マーシャ  〔腹を立てて〕うるさいわね! しつこくつきまとって、落ちつけやしない……〔茶碗を手にテーブルの方に行く〕ばあやなんか、うんざりだわ!
アンフィーサ  何だって怒りなさるね? ええ!
アンドレイの声  アンフィーサ!
アンフィーサ  〔口真似をする〕アンフィーサ! 奥に引きこもって……〔退場〕
マーシャ  〔広間のテーブルのわきで、腹立たしげに〕あたしにも坐らせてよ! 〔テーブルの上のトランプをかきまぜる〕 トランプで場所をふさいだりして。お茶を飲みなさいよ!
イリーナ  意地わるね、姉さん。
マーシャ  意地わるなら、口をきかなければいいわ。あたしにかまわないでよ!
チェブトゥイキン  〔笑いながら〕その人にかまいなさんな、かまわんどきなさい……
マーシャ  あなたは六十にもなって、まだ鼻たれ小僧みたいに。いつもわけのわからないことばかりほざいているのね。
ナターシャ  〔溜息をつく〕ねえ、マーシャ、いったいどうして人と話をするのにそんな言葉づかいをするの? あんたのその美しさなら、率直に言って、そんな言葉さえ使わなけりや、上流の社交界でもそれこそ魅力たっぷりのはずなのに、ごめんなさい、マリヤ、でもあんたはいくらかマナーががさつだわ。
トゥゼンバフ  〔笑いをこらえながら〕僕にその……一杯ください……たしか、コニャックがあったはずですから……
ナターシャ  ボービクったら、もう眠っていないみたいなのよ。目をさましたのね。あの子、今日はかげんがわるいの。あたし、行ってみるわ、ごめんなさい……〔退場〕
イリーナ  アレクサンドル・イグナーチイチはどこへいらしたの?
マーシャ  家よ。また奥さんに何か異常があったの。
トゥゼンバフ  〔コニャックの入ったガラス壜を持って、ソリョーヌイのところへ行く〕あなたはいつも一人で坐って、何か考えてるんですね、何を考えてるのか、わかりゃしない。さ、仲直りをしましょう。コニャックで乾杯と行こうじゃありませんか。〔二人、飲む〕今日は夜通しピアノを弾かされる羽目になりそうですよ。きっと、埒もないものを弾かされるんでしょう……どうにでもなれだ!
ソリョーヌイ  仲直りとは、なぜです? 僕は君と喧嘩したおぼえはないけど。
トゥゼンバフ  あなたはいつも、われわれの間に何かあったような気持を起こさせるんですよ。あなたは変わった性格の人だ、それはご自分も認めなけりゃいけませんよ。
ソリョーヌイ  〔朗読口調で〕われは変人なり、変人ならぬは、そもだれぞ! 怒りたもうな、アレコ殿!
トゥゼンバフ  この場合、アレコに何の関係があるんです……〔間〕
ソリョーヌイ  僕はだれかと二人きりなら、みなと同じように、別になんてことはないんだけど、人なかに出ると気が沈んで、内気になって……いろんなばかげたことを言っちまうんだ。だけど、それでもやはり僕はきわめて多くの人たちより誠実で、高潔な人間ですよ。証明してみせてもいい。
トゥゼンバフ  僕は始終あなたに腹を立ててるんですよ。あなたは人なかに出ると、いつも僕にからみますからね。それでいてやはり、あなたはなぜか好感のもてる人なんだ。どうでもいいけど、今日は酔っぱらうぞ。乾杯!
ソリョーヌイ  乾杯。〔二人飲む〕僕はね、男爵、君に対して一度として悪意をいだいたことはありませんよ。しかし、僕はレールモントフ的性格でね。〔小声で〕多少レールモントフに似てさえいる……んだそうだ……〔ボケットから香水壜をとりだして、両手にかける〕
トゥゼンバフ  辞表を出してるんです。ストップですよ! 五年間というものさんざ考えぬいたあげく、ついに、決心しました。これから働きますよ。
ソリョーヌイ  〔朗読口調で〕怒りたもうな、アレコ殿……忘れるんだ、はかない夢と忘れることだ……
〔二人が話している間に、アンドレでが本を手にしたまま静かに登場、蝋燭のそばに腰をおろす」
トゥゼンバフ  これから働きますよ。
チェブトゥイキン  〔イリーナといっしょに客間に入りながら〕それにご馳走がまた本格的なコーカサス料理でね。玉葱のスープに、焼き物としてはチェハルトマという内料理なんだよ。
ソリョーヌイ  チェレムシャは肉でなんかありませんよ。われわれの方の葱に似た植物です。
チェブトウイキン  違うよ、君、チェハルトマは葱じゃなく、羊の焼肉ですよ。
リョーヌイ  僕が言ってるのは、チェレムシャは葱だってことです。
チェブトゥイキン  わたしは、チェハルトマは羊肉だと言っとるのさ。
ソリョーヌイ  僕が言ってるのは、チェレムシャは葱だってことです。
チェブトゥイキン  あんたと議論するつもりはないよ、あんたはコーカサスに一度も行ったことがないんだし、チェハルトマを食べたこともないんだから。
ソリョーヌイ  食べたことはないですよ、だって我慢できませんからね。チェレムシャって奴は、ニンニクみたいに強烈な臭いがしますからな。
アンドレイ  〔哀願するように〕いいかげんにしてくださいよ、みんな! おねがいです!
トゥゼンバフ  仮装行列は何時頃くるんですか?
イリーナ  九時までにはって約束ですの。つまり、もうじきね、
トゥゼンバフ  〔アンドレイに抱きつき〕おお、わが家の戸、新しい戸口……
アンドレイ  〔踊って。うたう〕新しい、楓の戸口……
チェブトゥイキン  〔踊る〕格子戸の! 〔笑声〕
トゥゼンバフ  〔アンドレイに接吻する〕矢でも鉄砲でも持ってこいだ。乾杯しようや。なあ、アンドリューシャ、君・僕のつきあいで乾杯しよう。そして君といっしょにモスクワの大学へ行こうじゃないか、
ソリョーヌイ  どっちの? モスクワには二つ大学があるからね。
アンドレイ  モスクワに大学は一つですよ。
ソリョーヌイ  僕は二つあると言ってるんです。
アンドレイ  そりゃ三つだってかまいませんよ。むしろそっちの方が結構だ。
ソリョーヌイ  モスクワには、大学は二つあるんです! 〔非難と制止のざわめき〕モスクワに大学は二つある、古いのと、新しいのがね。しかし、もし、きくのがお厭だったり、僕の言葉が耳ざわりだったりするなら、僕はしゃべらなくたっていいんです。別の部屋に退散したってかまわないんだから……〔戸口の一つから退場〕
トゥゼンバフ  ブラーヴォ、プラーヴォ! 〔笑う〕諸君、はじめてください、僕が弾きますから! ソリョーヌイってのは、滑稽な男ですね……〔ピアノの前に走り、ワルツを弾く〕
マーシャ  〔ひとりでワルツを踊る〕トゥゼンバフ、酔っぱらった、トゥゼンバフ、酔っぱらった!
〔ナターシャ登場〕
ナターシャ  〔チェブトゥイキンに〕イワン・ロマーヌイチ! 〔チェブトゥイキンに何やら告げたあと、そっと退場。チェブトゥイキン、トゥゼンバフの肩に手をふれ、何やら耳打ちする〕
イリーナ  どうなさったの!
チェブトゥイキン  そろそろ失礼しなければ。じゃ、お寝み。
トゥゼンバフ  お寝みなさい。このへんが引きあげ時ですから。
イリーナ  そんな……じゃ、仮装行列は?
アンドレイ  〔しどろもどろに〕仮装行列は来ないんだ。実はね、その、ナターシャの話だと、ボービクがあまり具合がよくないらしいんだよ、だから……一口に言や、僕は知らんよ、僕は実際どっちだっていいんだから。
イリーナ  〔肩をすくめながら〕若君さまがご病気ですって!
マーシャ  いっちょうやってやるか! つまり、追い立てを食った以上、退散しなけりゃね。〔イリーナに〕病気なのはボービクじゃなくて、彼女自身よ……これだもの! 〔額を指で叩く〕俗物だわ!
 〔アンドレイ。右手の戸口から自分の都屋へ行く。チェブトゥイキン、それにつづく。広間で人々が別れのあいさつ〕
フェドーチク  実に残愈だな! 一晩すごせると当てにしてたんですが、赤ちゃんがご病気なんでしたら、もちろん……明日、おもちゃを持ってきます……
ローデ  〔大声で〕今日は昼飯のあと、わざと一眠りして、夜通し踊ろうと思っていたんだよ。だって、まだ九時になったばかりだものね!
マーシャ  外に出て、相談しましょう。何をどうするか、決めるのよ。
〔さよなら! お寝みなさい! などのあいさつがきこえる。トゥゼンバフの楽しそうな笑い声。一同退場。アンフィーサと小間使、テーブルの上を片づけ、蝋燭を消す。乳母のうたうのがきこえる。帽子と外套をつけたアンドレイとチェブトゥイキン、そっと登場〕
チェブトゥイキン  わたしは結婚する間がなかったんだよ。なぜって人生が稲妻みたいにひらめいて過ぎちまったし、それに、すでに人妻だった君の母さんに首ったけだったもんだからね……
アンドレイ  結婚なんて、必要ないですよ。必要ないですとも、わびしいだけですからね。
チェブトゥイキン  そりゃそうだろうが、しかし、孤独ってのもね。どんなに哲学をぶとうと、孤独は恐ろしいものだよ、君……もっとも、実際には……もちろん、どっちだってまったく同じこったけどね!
アンドレイ  早く行きましょう。
チェブトウイキン  どうして急ぐんだね? 十分、間に合うよ。
アンドレイ  家内に引きとめられやしないかと、心配でしてね。
チェブトゥイキン  ああ!
アンドレイ  今日は僕、勝負はしませんよ、ただ、なんとなく見物です。気分がすぐれないし……どうすればいいんです、イワン・ロマーヌイチ、息切れの治療は?
チェブトゥイキン  きくにことかいて! おぼえとらんよ、君。知るもんかね。
アンドレイ  台所から出ましょう。〔退場〕
〔ベルが鴫る。やがてまたベルの音。人々の話し声や笑声がきこえる〕
イリーナ  〔登場〕なあに、あれ?
アンフィーサ  〔声をひそめて〕仮装行列の人たちですよ! 〔べルの音〕
イリーナ  家にはだれもいませんと言って、ばあや。失礼させてもらうほかないわ。
〔アンフィーサ退場。イリーナ、考えこんで部屋の中を歩きまわる。心をたかぶらせている。ソリョーヌイ登場〕
ソリョーヌイ  〔けげんそうに〕だれもいないんですか……みんなはどこに?
イリーナ  お帰りになったわ。
ソリョーヌイ  変だな。ここには、あなただけですか?
イリーナ  ええ。〔間〕お寝みなさい。
ソリョーヌイ  さっきは慎みの足りない、気のきかぬ振舞をしまして。でも、あなたはみなと違って、気高い、清純な方だから、あなたには本当のことがわかっていただけるでしょう……あなただけは僕を理解してくださるはずです。愛してます、心からかぎりなく愛しています……
イリーナ  お寝みなさい! もうお帰りになって。
ソリョーヌイ  僕はあなたなしには生きて行かれません。〔彼女のあとを追って〕ああ、僕のかぎりない幸せ! 〔涙声で〕僕の幸福! これまでどんな女にも見たことのない、美しい、すばらしい、魅力的なその眼……
イリーナ  〔冷たく〕おやめになって、ワシーリイ・ワシーリイチ!
ソリョーヌイ  はじめてあなたへの思いを口にするんで、僕はまるで、この地上じゃなく、ほかの星にいるような気持です、〔額を拭う〕しかし、どうだっていいんです。愛は強制できませんからね、もちろん……しかし、僕には果報者のライバルなんぞあってはならないんだ……なりませんとも……すべての神聖なものにかけて誓いますが、僕はそんなライバルは殺しますから………ああ、すばらしい人だ!
 〔ナターシャ、蝋燭を手にして歩いてくる〕
ナターシャ  〔ドアを一つ一つのぞき、夫の都屋の戸口の前は素通りする〕ここはあの人だから。本を読ませといてあげましょう。あら、ごめんなさい、ワシーリイ・ワシーリイチ、いらしたのを知らなかったもので、こんな普段着で……
ソリョーヌイ  僕はかまいませんよ、失礼します! 〔退場〕
ナターシャ  疲れてるのね、可哀そうに! 〔イリーナに接吻する〕もう少し早く横になれるといいんだけど。
イリーナ  ボービクは眠ってるの?
ナターシャ  眠ってるわ。でも、眠りが浅いのよ。ついでだから言うけど、あたし、あなたに話したいことがあったのよ。でも、あなたが留守だったり、こっちが忙しかったりで……ボービクには今の子供部屋だと冷えるし、湿っぽいような気がするの。あなたの部屋なら赤ん坊にはうってつけだわ。だから、ねえ、当分オーリャの部屋に移って!イリーナ  〔理解できずに〕どこへですって?
  〔小鈴をつけたトロイカが家に横づけされるのがきこえる〕
ナターシャ  オーリヤと一つ部屋で寝起きしてよ、当分。あなたの部屋にはボービクを入れるわ。あの子、そりゃ可愛いのよ。今日もあたしが、「ボービク、あたしの坊や! 坊や!」って言った、小っちゃなお目々でじっと見つめるんだもの。〔ベルの音〕きっと、オリガね。なんて遅いのかしら!
  〔小間使、ナターシャに歩みより。耳うちする〕
ナターシャ  プロトポポフさんが? 変わった人ね、プロトポポフさんがいらして、トロイカでドライヴしようって誘ってるんですって、〔笑う〕男の人って、ほんとに変わってるわね……〔ベル〕だれか、また来たわ。じゃ十五分ばかり走ってこようかな……〔小間使に〕今行きますからって、伝えて。〔ベルの音〕ベルだわ……オリガね、きっと。〔退場〕
  〔小間使、走り去る。イリーナ、考えこんだまま座っている。クルイギン、オリガ、二人つづいてヴェルシーニン登場〕
クルイギン  こりゃ当てがはずれたな、夜会があるという話だったのに。
ヴェルシーニン  変ですね。わたしはついさっき、そう、三十分ほど前に中座したんですが、みなさんは仮装行列を待っておられましたよ……
イリーナ  みなさんお帰りになったわ。
クルイギン  マーシャも帰ったの? どこへ行ったのかな? それに、なぜプロトポポフがトロイカなんぞで、下で待っているんだろう? だれを待っているんだい?
イリーナ  そう矢継ぎ早に質問しないでよ……あたし、疲れているの。
クルイギン  ふん、気むずかしい子だ……
オリガ  会議が今しがた終わったのよ。へとへとだわ。校長先生が病気だから、この頃はあたしが代理でしょう。頭が痛くて。痛いわ……〔腰をおろす〕アンドレイは昨日トランプで二百ルーブルも負けたんですって……町じゅうその話でもちきりよ……
クルイギン  うん、わたしも会議で疲れたよ。〔腰をおろす〕
ヴェルシーニン  家内がさっきわたしを脅そうなんて気を起こしましてね、危く服毒自殺ですよ。万事うまくおさまったので、わたしもほっとして、今や一息つけるってわけです……してみると、失礼しなければいかんようですね? しかたがない、じゃ、お寝みなさい。フョードル・イリーチ、いっしょにどこかへ繰りだしませんか! わたしは家にいるわけにいかないんですよ、とてもいられません……行きましょうよ!
クルイギン  疲れたんでね。やめときます。〔立ち上がる〕疲れた。家内は家に帰ったの?
イリーナ  たぶんね。
クルイギン  〔イリーナの手に接吻する〕お寝み。明日とあさってはまるまる休めるね。さようなら! 〔歩く〕お茶が飲みたいな。楽しい仲間と一晩すごすつもりだったのに、ああ tauacem horainum spem、人の望みのはかなさよ、だ! 感嘆文の場合は目的格だったな……
ヴェルシーニン  要するに、一人で行くほかないわけだ。〔口笛を吹きながら、クルイギンと退場〕
オリガ  頭が痛いわ、ひどく……アンドレイが負けて……町じゅうが噂してるわ……行って寝よう。〔歩く〕明日はお休みなの……ああ、嬉しい、嬉しくって! 明日はお休み、あさってもお休み……頭が痛いわ、ひどく……〔退場〕
イリーナ  〔一人〕みんな行っちゃった。だわもいないのね。
〔通りでアコーディオン。乳母が歌をうたっている〕
ナターシャ  〔皮外套に帽子をかぶって広間を通って行く。小間使がつづく〕三十分ほどで戻るわ。ちょっとドライヴするだけだから。〔退場〕
イリーナ  〔一人になり、心ふさいで〕モスクワへ行きたい! モスクワヘ! モスクワへ行きたいわ!

  

 

原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。 

原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 

 

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