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戦史 3  久保正彰




 メレーシアースの子卜―キュディデースの追放は、ペリグレースの指導的地位を最終的に確立したと言ってよい。この時からその死にいたるまでの十五年間、ほとんど連続してかれはアテーナイの最高指導者の地位にあり、史家の言葉をかりれば、「名目は民主主義であったが、その実は秀逸無二なる一市民の支配を現出した」のである。そして平和時には「穏健なる政策によってポリスを導き、ポリスを万全の固めによって守った」といわれている。政争が終りをつげると、ベリグレースの民衆指導の政策もかなり変ってきたのではないかと思われる。古代後期の伝記作者プルータルコスによれば、それまでは民衆の恣意欲望を存分に満足させようとしてきたペリグレースは、これを転機に過激な民主主義の行き過ぎを是正し、国全体の福祉と安泰を期する方向に変ったという。

「穏健な政策によってポリスを導き」、というわれわれの史家の言葉も、政争終熄後のペリグレースを意味するものでなくてはならない。それ以前のペリグレースの政策は、内政外交の両面において穏健を欠くものが多々伝えられているからである。四四〇年、喜劇作者にたいする制限が設けられた。周知のごとくアテーナイの喜劇は政治的風刺や批判を主題に盛込んだものであるが、この制限令は何を意味していたのか。提案者も提案された状況も明らかではないので、事情は推測しがたいのであるが、あるいは、政争の余韻にとどめを刺し、民主主義の行き過ぎを是正する意図を含んでいたのではないだろうか。

 アテーナイの下層市民に機会を与え、仕事と富をわかち与え、未来への盲目の希望を点じたペリグレースが、先見の明をもって次になそうとしたことが国全体としての安定した軌道を確立することにあったとしても、怪しむに足りない。また幾度か史家がいうように、晩年のペリグレースがもっとも恐れていたのは、図にのったアテーナイ人自身が犯しうる誤ちであり、貪欲に過ぎる侵略主義であったにちがいない。そして一党派の領袖から一国の揺ぎなき指導者への道は、世人の評価、自己の識見、金銭についての潔白さ、その三つを兼備した実力者ペリグレースのみが歩みえたものである、と内外の敵味方とも認めるところとなったのである。

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 ふり返ってみると史家はペリグレースの政界登場と時を同じくして生れ、一門の巨頭キモーツが追われ、のちキュプロスで戦死するのを少年の耳で聞き、さらにメレーシアースの子卜―キュディデースが旧派の主張を担ってペリグレースを妨げようと挑む戦いを、若者の眼で追ったことと思われる。それから十余年、ペリグレースの全盛時代にアテーナイの歩みを幾度もかみしめて、思慮を培ったのであろう。このように政治の動きを身近く見つめながら人となり、このような意識的な、そして意欲的な周辺の探究と、未来への展望をつかもうとする努力があればこそ、年若くして開戦劈頭から、今次大戦こそ史上最大の規模をもつだろうという予断を立て、これを的確な眼で記述することができたにちがいない。かれの思慮分別がペロポネーソス戦争前十年くらいの間に形をなしたものであることは、先に引用した史家自身の言葉や、かれのペリグレース評価にも充分示されている。また、かれの独特の措辞、文体、論法、さらに文字の綴りにいたるまで戦前の名残りを明白にとどめているが、これについては後述することとして、ここではその後の史家の周辺をたずねてみよう。

 かれがアムピポリスの作戦後、二十年間の追放生活を送ったことはすでに述べた。かれはその間、どこで何をしていたのか、それも史家の言葉から大よその輪郭をたどることができる。かれは追放中の身であったので、敵側のペロポネーソス諸邦から情報を接取することが容易にできたという。しかし、どうやってギリシアの各地の出来ごとを精緻に調べることができたのか。かれは私設の調査員を使ったという伝もあるが、どれくらい信憑性があることかわからない。まず第一にかれの研究費はどこから捻出されたのか。当然の類推は、かれがアテーナイの支配圏外に財源を持っており、これによって旅行、踏査、著述をおこなったにちがいない、ということになる。

 恐らくトラーキア地方の金鉱からの収益によったと思われる。真偽のほどはべつとして、この地方の有名な金山スカプテーヒュレーの近くのプラタナスの樹蔭で、かれは「戦史」の記述をつづけたという伝もあり、そのようなこともまったく事実無根とは断定できないからである。かれが広くギリシアの諸地を旅して、地勢風土を実見し、事件の正確な情報を目撃者や参加者からあつめたことは疑われない。おそらく資料集めの旅はシケリア島にまで伸びたことであろう。史家がイタリア南部からシケリア沿岸の諸都市にかけて自らの目で事件の現場を確認したにちがいない、という実感は今日ですら、この地方を探訪する者のひとしく抱く思いであろう。

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 生まの資料から史実を探究する困難さは、史家自らの述べているところであるが、今でもトゥーキュディデースの記述と、ゴシップにみちたプルータルコスの伝記を読み比べてみるとき、史実を見きわめることの困難さを容易にさとることができる。かれは追放中に、やはりアテーナイをあとにマケドニアに逗留中であった悲劇詩人エウリーピデースと交わり、詩人の没後碑詩を贈ったとも言われている。しかし詩人が史家の文体、論法に強い影響を与えたのは、四三〇年前後とされている。 

 二十年の追放がとけたのち、史家はアテーナイヘ帰ってきたと思われる(四〇四年?)。それを裏づけているのは、テミストクレースの城壁の厚さが今日でもペイライエウスの近郊で確かめられる、という史家の言葉である。ペロポネーソス戦争に破れたアテーナイは、城壁を取り壊されたのであるが、その一部がなおペイーフイェウス近辺に残影をとどめていたのであろう。これを見て史家はそう言ったに違いない、と考えられるからである。

 史家の没年については何も確実には知られていない。ただ史中に、マケドニア王アルケラーオスの業績にふれる一文があり、史家は人物が生存中にはその業績について綜合的評価を加えるのを控えることをつねとしているので、この一文はアルケラーオスの死後、すなわち三九九年以降の筆になるとも言われ、この仮説が正しいとすれば、史家はソークラテースの裁判以後まで生存し、「戦史」の著述をつづけていたことになる。そして二十七年間の戦史を書き綴る予定でありながら、その第二十一年目の記述なかばにして世を去ったのである。

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