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朝明けの美しい国を歌う詩人

星寛治さんの詩三編の朗読。「朝明けの美しい国」をこよなく愛するぼくは、この詩のことを別のページ「朝明けの美しい国を歌う詩人」でこう書いている。

「例えば『朝明けの美しい国』というような詩をかける詩人は、もはやこの国には一人もいないだろう。ミレーの絵画を彷彿とさせるイメージ、ろうろうたる牧歌の響き、素朴で強靭なロマンチシズム。これらが織りなす甘い旋律はいったいどこからきたのか。実はこの甘さは「有機農法のリアリズムが詩人の胸をヒリヒリと焼き、うたいあげる饒舌をみずから打ちのめし」た果てにあらわれてきたのだった。詩人の立っている大地は少しも廿くないのだ。危機はひたひたとせめよせる。牛舎をもかかえる労働はいぜんとして厳しい。しかし裏切られても裏切られても詩人は「朝明けの美しい国」を歌わなければならなかったのだ。

 言葉はなるほど火傷の度合いは少ない。しかし星さんはむしろ言葉を火傷させることを避けているようにみえる。かわってこの詩人が力を注ぐのは言葉に音楽の精をふきこむことだった。言葉の弦は十分に鳴っているのだ。底深いチェロが、優美なヴァイオリンが。しかしこの詩人がもっとも愛するのはビオラのようにみえる。ビオラのあの温もりをもった響きが悲しいまでに鳴っている。叙情の色調のなかにしきりに叙事詩の色彩を塗り込めようとしている。歴史や人生を描くためには叙事詩の骨格といったもので捕強しなければならない。言葉は平明だ。だれにでもわかる言葉でかかれている。それもまた言葉と格闘してきた三十余年という年月がうみだしたこの詩人の肉体なのだ」

 ステージはコンサート形式である。楽譜を載せるスタンドが立っている。そこに台本が載せてあるが、しかし朗読者はその台本をほとんどそらんじていなければならない(ソプラノ歌手たちは楽譜を見ながら歌わない)。朗読の背後に流れる音楽が必要である。いわば主旋律を奏でる朗読者の伴奏者である。伴奏の楽器は、ピアノでも、ギターでも、フルートでも、リコーダーでもいいが、このステージではチェロ奏者を迎える。そのときどんな音楽を奏でるか、それもまたこのステージを成功させるための鍵である。
(ステージに朗読者と伴奏者の登場。二者、呼吸をととのえて静かにチェロの前奏が始まり、そして朗読者はタイトル名と詩人の名を告げる)



朝明けの美しい国  星寛治

朝やけの美しい国の話を聞いた
墨絵の森に
雄鶏のこだまが交う頃
人びとは一斉に野良に出る

青砥石をあてた鎌は
名刀の切れ味だ
腰をかがめ
水玉の返りを浴びて
いきのいい草を刈る

おお、地の涯を染めて
いま、太陽が昇るときだ
紫の空がこんなにも素早く
橙色に変るときだ

足元に衝動のようにつたう
大地のめざめ、
その瞬間に立ち合うために
ひとはみな早起きなのだという

森の美しいくにの話を聞いた
千古の呼吸が息づく
蒼い樹海のなか
ひそかに妖精が舞うという

森の小さな賢者たちは
豊穣の大地に耳をあて
青い地球(ガイア)の心音を聞いた
地層の底の水の流れも
もっと深く火のたぎりも

白日の美しいくにの話を聞いた
見はるかす緑の絨毯が
やがて山吹色の穂波に変る
光と風のむら
少年のすばやい手鎌が
重いみのりを刈り
少女のしなやかな掌が
べっ甲色の千粒をすくい上げる

夕やけの美しいくにの話を聞いた
一日の仕事の終りに
地の涯を染めて
太陽が沈むとき
夫婦は手を合わせ
すがやかな身を祈る

その手はみな
イワンの国の人のように
豆だこに飾られているが
白魚の手の指輪よりも
百倍もまぶしく輝いている

モミの樹の広場では
鼓笛のひびき、歌の波
疲れを知らぬ踊りの渦
星座とひとが響き合う

野も森も
母も子も
ふかい眠りについた
地に棲むいのちをみな
夜露がやさしく包む
その頃、地の涯では
あたらしい朝が生まれるという

(間奏曲)


ぼくのルネサンス      

そう、去年(こぞ)の春は
朝やけの河をのぞみ
ぼくは内なる焼跡の
冷え残る村の果てに
手追い鹿のように
立ちつくしていた

そう、灼熱の夏は
亀裂のはしる田圃で
白くよじれる稲を抱き
祈りを失くした主のように
立ちつくして居た

そう、底冷えの秋は
忽然おそう雪の重さに
圧しつぶされたぶどう棚や
引き裂かれたりんごの樹の
ひくい呻きの海で
坐礁した漁夫のように
立ちつくしていた

そう、地ふぶきの冬は
牛の体温に手をあたためて
ゆき明りの道をこぐ、
立ち惑うぼくの
ゆくてに
かすんでいったものは何か
荒海の向う
巨きな油井の楼閣が
音をたてて崩れる日の

きのう、水明のくにの
水辺をこがした夕映えは
いま、灰色のもやにかすむ、
そう、あのビルの谷は
むかし麦秋のもえた畑。
あの高速道のあたりは
はるか縄文に結ぶ貝塚。
あのコンビナートは
白壁を映した城下町。
あの赤潮の内海(うみ)は
鯛の群れる古戦場だった。
声にならないぼくの叫び

ふと、寝汗の夢に甦える
あかい焚火のむこう
ひっそりと屑まゆを紡ぐ
とおい祖母の記億。
ふつふつと豆を煮て
納豆や味噌をねかせ、
凍(しみ)大根の皮をむき、
ぜんまい綿のまりをかがる
おおらかな大地のおんな。
その後姿は
土台石のように静かだが

いま 愚かの時(タークエイジ)の
混沌の海にいて
あつい波涛を呼び醒す
ぼくのルネサンスは
土のたしかさ、土のやさしさ、
土の重たさ、土のゆたかさ、
生身の日々にとりこんで
ひっそりと土に帰った祖母の愛を
一心にたぐり寄せるときに
たしかに足音を刻むだろう

(間奏曲)


野の復権

朝、ふとわたしは
白い荒野に立ってみる、
千年の昔もこんなに音もなく
雪はふりつづけたろうか

わたしは
懐中のりんごを一つ
はるか古代の空に投げてみる、
それは切ない孤を引いて
地平の村へ
ひらりと芳醇な着地をする

わたしは、わら靴をはいて
光陰の雪を踏みしめる、
いつか、ふしぎなぬくもりが
きびすを伝い、五体をつつむ
それは、
裸身をかざした焚火のよう
照りはえつつむ温かさだ

目を閉ずると
大和明日香(あすか)の夕空に
千年の塔が浮かんでくる、
それは、いかなる嵐にも
ふわりと立ちつくす
ふしぎな堅ろうさだ、
美しさだ、

はねこえた古代の技(わざ)の
その悠久のいのちは
大地をそのまま土台となす
見事な合理が支えていた

けれど、あの丘陵の裾に
うごめく無数の影絵こそ、
草を薙(な)ぎ、種を蒔き、
牛を飼い、米をみのらす
その無言の累積こそ、
文化の母胎であったと
誰が伝えたろうか

いま、ひた寄せる濁流のなか
土を耕すわたしは
少数民族のようにかなしい、
土のうを背負い
都の城砦(じょうさい)を積んだ祖先たちの
怨念の涙を
きょうも骨ばった頬に
流しているぼくたち

しかし、脊椎(せきつい)の痛みの海で
わたしはひそかに決意する
水明の瑞穂(みづほ)の島を穢土(えど)に変え
飽食におごる人たちのために
一粒の米もつくるまい、
一滴の汗も流すまい、と

つくるなら遠い苦吟の街の
声すら出せない子のために
一椀(わん)の米をつくると、
一鍬の土をおこすと、

このくにの、わずか一隅の
一坪の土を耕し、
内海の汚濁の泡をすくい上げ
鳥が舞い、虫うたい、
魚の群れる、
野の復権のむこうにのみ
かすかに人間の時代がみえる

白いやさしい朝、
ふりつむ雪の下で
紅を散らして眠っていたりんごを
ようやく探しあてたわたしは
長い旅路のあとのように
その出合いを歓んだ

そのとき
わたしの胸をつたう氷滴が
きらり溶けていく
さやかなひびきを聞いた





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