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碌山の源流をたずねて 一志開平

1  亀戸風景との出会い
碌山萩原守衛は安曇野をとりまくふるさとの自然が好きであった。見あげる北アルプスのゴソゴソとしたやまなみ。その渓谷を幾重にも流れる清列な川また川。それが川尻に湧き出す豊富な地下水となってわさびを育てる。その広漠とした扇状地は一面の田畑が拡がり穀物や野菜が実り、そこに乱れ咲くそば、紫雲英(れんげそう)をはじめ四季の花々、そしてカッコウや蝉、蛙、天蚕など数多くの昆虫類まで自然と溶けあっている。そんな恵み豊かな穂高の地を守衛はこよなく好きであった。

2 苦難のアメリカ時代
アメリカ行きの説得工作で故郷に戻った守衛は異常なまでにその決意が燃えていた。まず両親は「アメリカ行きは困ったことだ」と否定的であり、井口喜源治からも「君の思いつきは無謀すぎる」とたしなめられ、相馬夫妻も初めはびっくりしている。しかし守衛は折しも小山正太郎が絵の勉強のためにフランスへ渡ることもあり、この際川井運吉とアメリカに渡ることによって心機一転、直接欧米の美術に触れて勉強したい一念であった。説得が佳境に入ると守衛のふるいたつ決意にうながされるように兄穂一が賛成の意を表明し、両親に続いて親類、知人、周囲の賛同も得られて、とうとう海外への堆飛が約束されるのである。

3  ロダンの「考える人」
守衛はそこで運命を左右する彫刻作品ロダン作「ラ・パンサー(考える人)」に出会うのである。何かうずくまって頬づえをつきながらじっと考え込んでいるその彫刻をみた瞬間、守衛は作品の前に釘づけになり、おどろき、おそれ、ショックを受け、しかも「考える人」の彫刻には詩があり、倫理があり、宗教があると考え、守衛は「私の精神が一体彫刻的であって、彫刻の如く何かまとまったものでなければ十分の感興を生じないという特性が有るかもしれぬ」と深く考えるようになり、それ以来自分の思想を形にすることのできる彫刻が真の芸術だと思い、絵画の鉛筆から立体的な彫刻のためのノミをにぎろうと決意したのであった。

4 仰ぐべき先生は自然だ
碌山は帰国が近づいたある日、ウォルター・パックと今まで世話になった礼と、いとまごいにムードンのロダンのアトリエをたずねると、制作中のロダンは手を休めて「これを見ていくように」と、いつくかの作品の覆いを自分で取りのけて見せてくれたので、碌山はその作品の一つ一つを念入りに見てまわっている。最後に碌山は「僕が今度日本へ帰ると、先生と仰ぐ人もなく、また手本とたのむような作品を見ることもできなくなりますが、何をたよりに勉強したらいいのでしょうか」と問うと、ロダンは「わたしの作品ばかりでなく、ギリシャやエジプトの傑作の数々をも手本などと思ってはならない。仰ぐべき先生はどこにでも存在しているではないか。それは自然だ。自然を先生として研究すればそれが一番よいことではないか」と答えた。尊敬するロダンのことばを碌山は胸の中へ深くおさめるのであった。

5 帰路イタリアで見たもの
パリで学んだ碌山は帰国前にぜひイタリア、ギリシャ、エジプトの三大美術を現地で自分の眼で、風土に立脚した鑑賞をしたかったのである。それも碌山がかってオランダのロッテダムのレンブラントの作品に触れた時の感激が忘れられない経験が浮上したのである。最初の見学地トリーノではエジプト美術館のラムセス三世像が印象的で感嘆を深めている。次いでミラーノヘ向かいアルプスの山の白雪皚々のすばらしさを車窓に見ることができた。ミラーノではドゥオーモ寺院を見て、サンタマリア寺院のグラーツェ修道院にまわった。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が主目的であったので、この絵の前に釘づけになり全く心を奪われてしまうのである。

6 帰国、そして日本での歓迎
高村光太郎とふたりで見た大英博物館のエジプト彫刻、パリの美術館で見た日本の飛鳥、奈良時代の彫刻、そしてイタリアの美術館で見たエジプト彫刻、カイロの美術館で見た「村長の像」をはじめ巨大な彫刻像、それらはすべていきいきと心を打つものばかりで、原始的で素朴な古代彫刻はエネルギッシュな生命をたたえていたのであった。そして碌山はギリシャ、エジプトのたんなる対比ということではなく、ギリシャ彫刻は極めて優美であり、生の喜びをうたいあげてはいるが、エジプト彫刻には生の喜びと同時に死の厳粛さを表現していることを強く思うのであった。したがってエジプト彫刻は自然界のあらゆるものの真の姿をとらえ、しかもそれが率直に表現されていることに感銘を深めるのである。

7 日本での第一作
北条虎吉像をつくるときとは相違して、親友ということもあり、性格も承知の上ですすめたので思いのほかすらすらと捗った。しかし肖像というものは元来似ていなければならないが、彫刻には命が宿っていなければ完璧とはいえないと更にまた思いを深めながら進めるのである。出来上がった「戸張孤雁像」は何かもの思いに耽った細長い顔に右手でほおづえをつき、やや下向き加減な目、軽く閉じた口など孤雁をよく表現できたと思い、孤雁もまたびっくりして彫刻の魅力、そして美しさが自分の画く油絵や挿絵とは違った迫力のあることを改めて痛感するのであった。

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 亀戸風景との出逢い

 碌山萩原守衛は安曇野をとりまくふるさとの自然が好きであった。見あげる北アルプスのゴソゴソとしたやまなみ。その渓谷を幾重にも流れる清列な川また川。それが川尻に湧き出す豊富な地下水となってわさびを育てる。その広漠とした扇状地は一面の田畑が拡がり穀物や野菜が実り、そこに乱れ咲くそば、紫雲英(れんげそう)をはじめ四季の花々、そしてカッコウや蝉、蛙、天蚕など数多くの昆虫類まで自然と溶けあっている。そんな恵み豊かな穂高の地を守衛はこよなく好きであった。

 守衛は明治二十九年、十八歳の時心臓をわずらい、農業に愛着を持ちながらその後一年有半過激な労働を避け療養生活を送ることになる。このころ井口喜源治の夜学会、そしてキリスト教思想の禁酒会(守衛はこの例会で「万国禁酒会長ウィラード女史の決心」と題して演説をも行っている)等に出席する機会を得て、極めて刺激の多い新しい世界に眼が向けられている。その後相馬愛蔵と星良(黒光)との結婚によって愛蔵夫妻と守衛との間に新しい関係が芽ばえることになる。

 守衛は野道で写生中に黒光からことばを掛けられたことやその対話に無上のよろこびを感じ、黒光もまた当時の守衛の写生について「絵が好きというよりも、私は芸術に従う人の、敬虔な熱情と努力に深い浪漫的な歓喜をみいだすのであった……」と述べている。そして黒光が東京から持参した長尾杢太郎の描いた油絵「亀戸風景」を見せてもらうことになる。この絵画は杢太郎が星良に贈ったもので、柳青く湖畔に牛がたたずむバルビゾン派調ののどかな水辺の風景画で、守衛は生まれてはじめて見る油絵を眺めながら、おそらく清列な水をたたえる万水川の堤の様子をそこに重ね合わせ、はじめて経験する明治洋画に大きな衝撃を受け、本格的な画家の道を志すのである。
 
 杢太郎は明治元年岡山市に生まれ、はじめ育英学舎で漢学を学び、岡山県尋常師範学校に入学し、そこで五姓田芳柳門下の松原三五郎、そして松井昇、山下宥等に学んだ後大阪府下の小学校で教職生活を送っている。その後はやはり不同舎に入門して本格的な絵画の道を歩んでいるのである。守衛がかねてから抱いていた念願の杢太郎との邂逅は明治三十二年十月二十三日、守衛が上京して三日目のことである。東京の地理に詳しくない守衛にその道順などの仲介の労を黒光がとったといわれている。なお守衛は上京して間もなく生涯の師岩本善治をたずね、岩本との新たな関係が発足するのである。その時守衛は岩本に「絵の師はだれがよいか」とたずねると、岩本は「松井昇に学ぶがよい」と答えている。守衛と松井との出会いは井口喜源治、丸山文一郎と一緒に旅行した時からはじまり、それ以後ふたりの師弟関係は守衛夭折まで親交を持ったといわれている。

 思想の背景となったキリスト教

 守衛が聖書へのきっかけをつくったのは井口喜源冶の研成義塾の教育である。ここでは論語と聖書の精神を学校教育の中心におき、英語や漢文も取り入れるという新しい時代の教育をめざしていた。その中で守衛は井口に「……キリスト教を学ぶ目的は何か」という時代の息吹きを如何に吸い如何に処するかという本質的な質問をしている。これに対して井口は笑顔で極めて懇切に「君も知ってのとおり、キリスト教は罪ある者も苦しみ悩む者も万人を同じように愛しておられた。内村鑑三先生は、キリスト教を研究する必要はどこにでもあるといっておられるが、キリスト教は世界最大の宗教なんだよね。だから絵の好きな守衛君の場合、たとえばラファエロの絵画も、ミケランジェロの彫刻もこの教えを知らないとよくわからない。お経の中に〈生病老死〉ということばがあるが、生きるということはもっともむずかしい。

 しかし同じ生きるのであれば不平不満をもって一日一日を生きていくよりも、神への愛に生きていれば、希望をもって生きていくことができるし、苦しみや悩みを少なくし自分の愛を万人にかけてやることができる。だからキリスト教を学ぶ必要があるかどうかということよりも、人生いかに生きるべきかを考えれば、自然とキリスト教を学ばざるをえなくなるんだ」と述べておられる。守衛は心静かに目を輝かせて聞いていたが、やがて井口を心から尊敬し信頼して自分の将来などについてもいろいろと相談し指示を得ている。
 
 さらにまた明治三十二年二月、初めて上京した岩本善治に「基督の復活」について質問するのであるが、岩本は実例によって話を進め最後に「これは事実なり、信じると信ぜらるとはその人の勝手なれども、疑うとも事実は事実なり」と結ばれている。このとき守衛は岩本の確固不抜の信念と信奉昔の威厳に打たれ、襟を正してその後も毎日のように聖書を座右の書とし、内村鑑三の「求安録」を併せて読み続け、新約聖書、旧約聖書の創世記を、上田敏の「耶蘇」を、さらに内村鑑三の「ルツ記」なども読み続けている。
 
 当時のキリスト教思想は地方においては極めて少数の限られた人々のみの受けとめであって、例えば内村鑑三の不敬事件の真相などはなかなか浸透してはいなかった。したがって禁酒会の目的であった独立・勤勉・節制・質素・誠実といった考え方も思想界と直結していたとは考えられない。しかしながら私塾(研成義塾)設立の趣意書となった条文の骨子「一、吾塾は家庭的ならんことを期す。二、吾塾は感化を永遠に期す。三、吾塾は天賦の特性を発達せしめんことを期す。四、吾塾は宗派の如何に干渉せず。五、吾塾は新旧思想の調和を期す。六、吾塾は社会との連絡に注意す」の教育理想はあくまで無教会信者として、他宗派に干渉せずキリスト教の典型的な日本的同化をめざして内村鑑三のいう日本人の倫理感覚の純粋性を信頼し続けている。その考え方が守衛の精神的なものを求めた思想の背景となり、やがて碌山芸術の基底となったのである。

 不同舎での画家修業

 かきたてられた絵心の延長線上に不同舎があった。それは黒光から見せてもらった杢太郎の「亀戸風景」以来消えることのない執念であった。守衛は不同舎に入門し将来絵かきになることを決意して単身上京し、まず岩本をたずねて上申の結果、画学校へ行くための紹介状を書いてもらい、杢太郎を同道して不同舎の小山正太郎を訪れている。

 不同舎は明治二十年明治期西洋画旧派の中心的存在であり、明治美術会のリーダーであった小山正太郎が主宰した画塾である。この小山の不同舎に入門することによって、西洋の正統的な絵画教育、就中(なかんずく)フォンタネージの薫陶による指導と、卓抜な技量を学びながらも絵画が単なる技術ではなく、思想の表現であり、全人格的な教育であることなどに思いをいたし守衛の心は燃えていたのである。

 既に杢太郎の入門は不同舎が全盛期になりつつあった明治二十五年であり、また郷里の先輩格中村不折もそのメンバーであった。不同舎での教育でめずらしいのは題画(漫画)と野外写生(鉛筆風景写生)であり、初めて鉛筆によるデッサン写生が取り入れられたことである。また最初は手本の模写からはじまり、後にイーゼルを立て、石膏像素描や写生も加わったのである。守衛にとっては洋画入門の鉛筆画は新しい経験であり、なかなか上達できなかったと述懐している。然し守衛は不同舎入門の初日から連日休むことなく通学し続け、いよいよ絵画修業の道をひた走り続けるのであった。

 その頃郷里の研成義塾の塾生からは励ましの手紙が届いたり、愛蔵夫妻の暖かい援助があったりして、生来守衛の持っていた優しさ、人なつっこさが次第に大きくなるのであった。また黒光が病気で入院した後、守衛は頻繁に病院へ足を運んで見舞い、その間での心を砕いた会話に「いかなる縁にや真の姉の如き思い」と守衛の黒光へ寄せる思いがいよいよ募っていくのである。

 守衛は岩本の厚意で明治女学校の一隅にささやかながら草庵が建てられ、自ら狭いその小屋を愛し、深山軒と名付けそこから本郷追分町の不同舎へ通っている。食事は女学校の食堂で執り、日曜には教会に出かけて植村正久等数人の説教を聞き、内村鑑三をも訪問している。特に岩本の講話であったロマ書五章から「艱難にもなお喜べり」の引用には清純な守衛の心情を大きく、そして激しくゆさぶり、困苦を喜んで受けとめる現実と将来の生き方を大きく見開く啓示となっている。

 明治女学校の守衛を取り巻く女学生は、キリスト教の愛の問題についてよく勉強していたが、守衛は敏感な女学生と接しながら心中種々悩む反面、いつか生活の転換を図らねばならないと思うようになっていた。そして野外写生が思うように進まない時には、悶々としてそこを避難したい気持ちにもなったが、そんな時も守衛はいつも初心にかえって右顧左阿(うこさべん)してはならない、希望の灯は強く燃え続けなければならないと自己に鞭打つのであった。

 折りしも明治女学校運営基金の寄付金集めに明治学院の川井運吉が渡米することになり、守衛はこの好機を逃さず何とか渡米して画学修業を更に深めたいと決意をかため、先ず岩本に上申して賛成を得たので、井口と家兄の了承を得るため帰省をすることになる。幾日も談合の結果賛成を得られたばかりではなく、祖母のまさは家で飼育していた馬まで売って、その代金を旅費の一部にと守衛の壮途を祝ってくれた。約十日間の帰省が終って東京に戻ると、守衛の壮行会、送別会が続き、特に岩本の壮行の辞、その死生観には深い感服を覚え、守衛は渡米に先立って、遂にキリスト教徒としての洗礼を受けるのであった。

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