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ヘーイ、noteの創業者や運営者たちよ、《スキ》は欠陥のシステムだということに早く気づいてくれ!

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「note」に上陸して一年がたつ。この土地で言葉を植え込むということをしている以上、いつかこの問題に対峙しなければならないと思考していたが、とうとうそのときが来たようだ。これから毎日、「ウオールデン」に投じるページの冒頭になぜ「note」は欠陥のシステムで成り立っているかを痛烈に暴いていくことにする。長文などを投じたって「note」には他者の文章を読む文化がないのだから、断想として投じていくことにする。

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「ウオールデン」はすでに二百本近いエッセイやコラムや小説の断片を打ち込んでいる。その中には《note運営者たちのおすすめ》として広報されてもよいような記事が何本もあるが、一度も取り上げてもらえない。もし取り上げられたら《スキ》なるのものが百、二百と飛んでくるのだろう。そういう喜劇だが悲劇に遭遇しなくて、ああ、よかった。「note」の運営者たちはもちろん「ウオールデン」の存在を知っているはずだ。なぜ彼らは「ウオールデン」が打ち込んでいる記事を取り上げないかというと、彼らは「ウオールデン」が嫌いなのだ。というよりも怖いのだ。恐れているのだ。というのは「ウオールデン」は幾度も痛烈なるメッセージを放っているからだ。例えば、「noteでスキの数を増やすにはどうしたらいいのか」というテーマで書かれたあるサイトを訪れたら、「noteには他者の文章を読む文化がない」と書かれていた。ぼくはそこで次のようなタイトルを掲げて一文を草したのだ。

「noteには他者の文章を読む文化がない」
なんという見事なフレーズだ。うなるばかりの見事なコピーだ。この方は一級のコピーライターにもなれる。へーイ、「note」の創業者や運営者よ、「note」の前面にこのコピーを貼り付けてくれ。

新聞や雑誌にはその記事を読む広大な読者がいる。テレビやラジオには海のような広大な視聴者がいる。しかしこの大陸にはそういう層がないのだ。ノートに打ち込まれる記事や小説や漫画をみるためにアカウントされた層は、もうベニヤ板みたいに薄いのではないのか。この大陸に上陸してきた人々の大半が自分の記事を書き込むために上陸してきたのだ。この方は彼らを「書き手」と表現している。「note」とは書き手たちの世界だと。そしてさらに彼はこう記すのだ。「すらすら読めてしまう文章。つまり何も考えなくていい文章」を草する人たちだと。
この方は性格温厚な方なのだろう。そういう表現でそのコラムを締めくくっているが、ぼくは人間ができていないからはっきりと言ってしまうが、noteに書き込まれている文章は、安っぽい、空っぽの、ジャンキーな、幼稚な、甘ったれた、スキなるものを下さい、できたらお金を下さいと卑しくねだる、哀れな作文にならぬ駄文を書きこんでいる。
もちろん書きたければいくらだって書き込めばいい。しかし《スキ》は飛んでこないよ。苦悩の言葉を書き込めば書き込むほど《スキ》の数はへっていくよ。「note」という土壌が求めているのは、「すらすら読めてしまう文章、つまり何も考えなくていい文章」なのだ。「note」からは決して本物の芸術も文化も思想も社会を変革していくムーブメントも生まれない。本物の芸術や文化や思想や社会を変革していくムーブメントは、苦悩の言葉と火の格闘をするとこによって生まれていくものなのだ。

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Aさんは毎日「note 」に文字を打ち込む。「今日は雨です」とたった一行の日もある。「今日は激しい雨がふっている。会社に行くのはつらいなあ」と二行打ち込む日もある。「今日も晴れている、太陽がまぶしい。太陽がまぶしすぎてこころがくらくらとする」と三行打ち込む日もある。ときどきAさんは内部を切りひらいた言葉を打ち込むこともある。「ごくろうさん、今日も生きていた。いつまで生きるのか」。「地獄だ、毎日が地獄だ、言葉が怖い、言葉を書ける日がくるのだろうか」
Aさんのサイトに飛んでくる《スキ》は一つか、二つ、まったく飛んでこないときもある。Aさんは自分のサイトをゴミのようなものと言う。そして「note」もまたAさんのサイトに、零点、一点、二点と点数をつける。零点とか二点とか三点とか刻印されたサイトは、「note」の世界ではゴミのような存在である。しかしAさんは毎日「note」に「今日も雨です」という存在の言葉を打ち込んでいく。
Aさんは夏目漱石を深く読み込んだ人である。そして長編小説に立ち向かっている人である。Aさんが「今日は雨です」と打ち込む言葉は、うつ病との壮絶な戦いからくりだされた生存の言葉なのだ。このサイトになぜ「note」は零点とか一点とか二点と刻印するのか。Aさんにとっては、そんなことはどうでもいいことだった。Aさんのサイトは、《スキ》なるものを決然として拒絶したサイトなのだ。

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最近、静岡県春野町に住む友人、竹内敏から美しい竹籠と、その竹籠の制作者梅沢貞夫さんのこれまた神々しいばかりの梅沢さんをとらえたポートレイトが送付されてきた。なんでも梅沢さんは小学六年生のとき転落事故で、右脚を胴体から切断されたらしい。梅沢さんの父親は、座っていても作業ができる竹細工職人の道につかせる。爾来、2019年に八十八歳で没するまで、梅沢さんは春野町の山奥で竹細工職人として生きてきた。独学で編み出していった竹籠は一点一点が芸術の領域に達している。この梅沢さんをもっとよく知ろうと、ネットで検索すると、春野町の広報紙に書かれた記事と、池谷啓さんという方が投稿された記事と、わが竹内が書き込んだ記事があらわれた。たった三点だった。この三点の記事を、「note 」に三日にかけて連続して打ち込んでみた。この三つの記事に飛んできた《スキ》は、四点、六点、七点だった。竹内は梅沢さんを葬送する辞にこう書いている。
「わが師は、片目と片足を失い、その生涯は波乱万丈であったのは言うまでもない。しかし、梅沢さんはそのことは自分からはいっさい触れずに、愚痴を語ることも全くなかった。風雪と赤貧を越えて辺境を生きる哲学者のように思えた。とても梅沢さんのような生きざまはできないが、私の心の中でいまも梅沢さんは生きている。梅沢さん、あなたに感動している波動はたしかな広がりとなって生きています。ありがとう、合掌」
「note」はこの記事に七点という点数をつけた。それだけてはない。小学六年生のときに片目と片足を失って波乱の人生を生きてきた梅沢さんに「note」は七点と採点したのだ。梅沢貞夫さんの人生はたったの七点でしたと。

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《スキ》なるものは、人気投票の、あるいは選挙戦の得票数を計上したようなもの。あるいは商品や物産品がどれだけ売れたかの購買数を計上したようもの。ここでは《スキ》なるものは「note」が下す点数なのだという視点から論をはってみよう。採点表の、通信表の、ペーパーテストの。「note」の創業者や運営者は、顔面を真っ赤にそめて、机をたたいて否定するのだろう。毎日何十万と書き込まれてくる記事をいったいだれが採点するというのか、そんなことができるわけがないと。しかし毎日おびただしく流れ込んでくる記事を、瞬時に採点するというシステムを組み込めば簡単にできることだった。すなわちその記事に投じられた《スキ》の数だ。その数をその記事に貼り付ければいいのだ。
それはコンピューターが自動的に《スキ》の数を、その記事に貼り付けただけのことだった。しかしその記事がスクリーンに現れるとき、その記事に貼られた数字は、その記事に下された評価の点数となって私たちの目に飛び込んでくるのだ。「note」に席をおく誰もが、《スキ》なるものは「note」が下した評価の点数だと思っている。こんな自明なことを、いまさらむきになって論じることもないが、しかし特筆して明確にしておこう。投じられてくる記事を《スキ》の数によって点数化し、価値の序列化にしてその記事に貼り付けていくのはインチキなシステムだということを。

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《スキ》なるものが毎回百も二百も飛んでくるサイトを訪れるときもある。もちろん唸るばかりの創造がなされているサイトが現れるときもある。しかしまた空っぽのサイトがいつも現れる。どうしてこんな安っぽいサイトに《スキ》が百も二百も飛んでくるのだとあきれるばかりだ。そこでも痛切に思うのは、《スキ》の数でそのサイトを、そのサイトに書き込まれている記事やストーリーを序列化するなということなのだ。もっと鋭く指摘すると、《スキ》の数が増えれば増えるほど、そのサイトは荒廃していく。
一方、たった三つとか四つとしか投じられていないサイトを開くとき、そこには深く鋭く迫ってくる記事やストーリーが刻み込まれていた。地平を切り拓かんとする熱い創造がなされているサイトにいくつも出会った。そこでも痛切に思うのは、「note」の未来は《スキ》が飛んでこないサイトのほうにあると。しかしそんなサイトもやがて消えていく。《スキ》が飛んでこないからではない。彼らははっきりと知ったのだ。この土地では自分の創造は育っていかないと。こんな土地に踏みとどまっていたら自滅していくと。そう覚醒した彼らはさっさと「note」から立ち去ったのだ。
「note」からけっして本物の芸術や文化や思想や社会を変革していくムーブメントは生まれない。なぜなら「note」の根源と思想とは、会員に《スキ》のとれる文章を書かせることであり、そしてその目的は《スキ》なる点数をどんどん上げよということなのだ。言葉はいよいよ安っぽく荒廃していく。

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毎日、何十何百という人が、夢や希望を実現させようと大志を抱いて「note」に上陸してくるのだろう。そんな大群が、果たしてどれほど「note」に定住し、「note 」の住人になっていくのだろうか。推測にするに、例えば千人が「note」に上陸したとすると、一、二か月後に半数が脱落して、半年後には七割から八割の人が脱落していくのではないのだろうか。退会の手続きをするのが面倒だから、そのまま席を置いている幽霊会員で「note」はあふれかえっているに違いない。
《スキ》なるものは人気投票とか選挙の得票数を計上するようなシステムである。なんでも「note」の会員は260万人が登録されているらしい。いまあなたは渾身の記事を祈りとともに「note」に打ち込んだ。ところが投じられたのはたった六票だった。気を取り直して再度投じてみると、今度は四票だった。こうして何度も投じてみるがいつだってこんな結果だった。260万の会員に向けて、推敲に推敲を重ねて打ち込んだ渾身の記事の反応は、たった六票であり、七票だった。こんな結果に傷つくというよりも、ばかばかしさにさっさと撤退していく。「note 」はばかばかしさに気づいた撤退者の群れであふれかえっているはずだ。

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大量の脱落者を防ごうと「note」はバッジ制度をとりいれた。おびただしい数のバッヂだ。数えたわけではないが、百近くあるのではないのか。よくもまあ、こんな大量のバッジをつくりだしたものだ。なんなんだい、この大量のバッジの葬列(誤字ではない、行列でなく葬列である)は。おめでとうございますととも貼り付けられるこのバッジは、まるで小学一年生に貼り付けてくるみたいだ。作文を一枚書いたらバッジをあげますよ。作文を二枚書いたら二つ目のバッジをあげますよ。作文を三枚書いたら三つ目のバッジをあげますよ。しかしいまの小学一年生には、こんな安っぽいバッヂは通用しない。幼稚園か保育園の児童たちには通用するだろう。ということはこのバッジ制度を組み込んだ「note」の創業者や運営者は、「note」の会員の知的レベルを幼稚園児童、保育園児童のレベルだと想定しているのだろう。いや、そうではなく「note」の創業者や運営者の知的レベルが、実は幼稚園児童、保育園児童のレベルだったと書くほうが真実をついているということかもしれない。
こんな空手形のバッジをいくら貼り付けられたって人は励まされない。会員だれもがわかっているのだ。この大量のバッジは「note」が上げる悲鳴の叫びなのだということを。記事を書いてくださいよ、どんな記事でもいいから書いて下さいよ、お願いしますよ! 鋭敏なる会員ならばさらに鋭く見破っている。このバッジなるものは、欠陥のシステムで成り立っている「note」のその欠陥を補強しようとするためのものだということを。こんなバッジをいくら貼り付けたって、インチキ補強なのだから、なんの役にも立たない。いってみれば、笊で水をすくおうとするような補強だ。

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最近、懇意にしている大新聞の編集委員と対話したとき、「note」のことが話題になり、その会食は大いに盛り上がった。彼は「note」をすでに脱会した元会員だったのだ。なんでも「note」に上陸したとき、この土地で新しい世界を築こうと情熱的に何本もの記事を書き込んでいった。ところがさっぱり《スキ》が飛んでこない。その記事を深くすればするほど《スキ》は飛んでこなくなる。編集委員としての彼のプライドは傷つくばかりだ。ぼくの書き込む言葉はこんなに価値のないものかと。ここで撤退するのはしゃくだから、「《スキ》を上げる方法を教えます」という有料のサイトを開き研究してみた。すると《スキ》の数をあげる基本中の基本は、仲間を増やすことだと書かれている。それはあたりまえのことだが、その手法というものがえげつない。まず他者のサイトを開き、サイトをざっと眺めて(つまりそのサイトの内容などどうでもいい)、「あなたの記事に感動しました」という《スキ》を投じる。すると投じられたそのサイトの主が、あなたのサイトにおかえしの《スキ》を投じてくれる。こうしてまず他者のサイトに何十何百何千と《スキ》を投じていくと、やがてあなたのサイトにも何十何百の《スキ》が飛んでくるようになる。正義感にあふれる彼はそんな偽りの《スキ》を一度も入れなかった。互いに《スキ》を下さいと偽りの《スキ》を飛ばし合って成り立っている《スキ》なるものの構造を知った彼はさっさと「note」を脱会した。 
彼が語るそのくだりを聞いたとき、私は赤面しながらも、素直に彼に白状した。私のサイトのフォローは二百近い数になっているが、もちろん心から素晴らしいと深く読み込んだサイトもあり、いまでもしばしば訪問しているが、しかしその大半が私のサイトに《スキ》を入れてくださいと卑しくねだった偽りの《スキ》だった、と。

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ようやくこの連載も終末に近づいてきたようだ。さらに書かねばならぬことがいくつもあるが、そのことは別の機会にゆずるとして、ひとまずここで区切ろう。今回はこれで十分だと考える。《スキ》なるものが何十何百と飛んでくるサイトの投稿者たちが「note」の存在を、そして《スキ》なるシステムをバラ色の言葉で能天気な言葉で論じていくなか、この連載はそのバラ色の言葉、能天気な言葉を完膚なきまでにひきはがす論が展開された。その地点が、《スキ》が飛んでこない、書いても書いても飛んでこない側から、おびただしい数の脱落者の側から、これまたおびただしい数の幽霊会員の側から展開された論である。「note」の創業者や運営者が、いま深刻に真剣に対峙しなければならないのは、こちらの側の声なのだ。
「note」の会員が260万になったと誇っているが、大半が幽霊会員ではないのだろうか。「note」の世界ではいわゆるヒットした記事に飛んでくる《スキ》の数は、三桁どまりである。四桁の数が飛んでくることはめったにない。「Facebook」や「LINE」や「Twitter」、あるいは「youtube」の世界では、ヒットした記事には何万、何十万、何百万というアクセスがある。規模が違うと言うが「note」だってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の一端を担う電子メディアではないか。すでに会員が260万を擁するならば、ヒットした記事には数千、数万の《スキ》が飛んできたっていいはずだ。数の多寡を指摘しているのではなく、今、「note」の創業者や運営者は、「note」のシステムそのものを根源的に見直すときに来ているのではないかと指摘するのだ。
ぼくがこの連載をスタートさせたのは。「note」の真の住人になろうと決意したからだった。「note」という土地で創造の森をつくろうと。しかしそのためにはまず打ち立てておかねばならぬ条件というか、権利がある。そのことを記して、明日、この連載にピリオドを打つことにする。

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「note」に記事をどんどん書き込んでいけば、《スキ》なるものがどんどん飛んできて、夢や希望が実現していくかもしれないと人は「note」に上陸してくる。しかし現実はそうではなかった。「note」に深くのめり込んだ人ほど深く傷ついて「note」から立ち去っていく。一方、《スキ》なるものが何十何百と飛んでくる記事を投稿している人に与える傷は多大だ。なぜなら「note」の世界で《スキ》が飛んでくる記事とは「なにも考えさせない文章」であり、昨日「ウオールデン」が投稿した「本物と偽物」の中で山岡洋一さんが書かれた「お馬鹿さん」たちに読まれる文章を書いていかねばならないからだ。《スキ》なるものが何十何百と飛んでくる記事を書き込めば書き込むほど、ああ、彼らの才能は荒廃し破壊されていく。本物の創造をしたければ「note」などに上陸してはならないのだ。創造とは深い沈黙のなかで行われる火の格闘によって生まれてくるものなのだ。
しかしぼくは本物の創造をしようと「note」に定住することにした。そのためには確立しておかねばならぬ前提がある。「note」最大の欠陥のシステムである《スキ》を撤去してもらうという前提である。そこで「note」の創業者や運営者に、具体的に実現可能なプランとして提案するのが、二つのオプション制だ。二項目のいずれかを選択させて会員登録をしていく。

一 《スキ》をあなたの書き込む記事に設定する。
二 《スキ》をあなたの書き込む記事に設定しない。

こんな提案が実現する日が来るのだろうか。その日が来ると信じて、その日まで「ウオールデン」は書き込む記事の冒頭に、次のような警告板を掲げておくことにする。

「ウオールデン」は《スキ》を投じることを拒絶するサイトです。
「ウオールデン」に《スキ》を投じることは、
「ウオールデン」がこの土地に棲息する権利を侵害することです。
「ウオールデン」には《スキ》を投じないで下さい。

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『ウオールデンには《スキ》を投じないで下さい』は、《草の葉ライブラリー》版「三百年かけて世界を転覆する日記」に所収。

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