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ワーニャ伯父さん チェーホフ 第一幕


 「ワーニャ伯父さん」は、「森の主」を改作した戯曲であるが、前作では自殺することになっていたワーニャを、絶望の中で生きつづけさせるように改めたことによって、作品の主題はいっそう明確になったといえる。四十七年間すごしてきた自分の一生がまったく無意味なものだったことに思いいたったワーニャの絶望は、限りなく深い。だが現実は、それでもなお生きつづけてゆくことを要求するのである。
 同じことは姪のソーニャについてもいえる。六年間ひそかに、熱烈に慕いつづけてきたアーストロフヘの愛が、一瞬のうちに打ちこわされ、彼女もまた絶望につきおとされる。しかし、ソーニャは言うのである。「でも、しかたがないわ、生きていかなければ!」と。
 ソビエトの演出では、チェーホフが信じた「新しい未来』を強調するあまり、ソーニャのこの台詞をリリカルにうたいあげるのであるが、これはそんなロマンチックなものではない。二十三歳の若い娘が、現実にぶちあたって絶望したあと、それでもなお生きてゆかねばならぬことを自分自身に言いきかせる、健気というよりはむしろ悲愴な言葉の奥に、人生に対するチェーホフの考えが読みとれるのである。
 

ワーニャ伯父さん アントン・チェーホフ

   
 登場人物
セレブリャコフ(アレクサンドル・ウラジーミロウィチ)退職の大学教授。
エレーナ(アンドレーエヴナ)その妻、二十七歳。
ソーニャ(ソフィヤ・アレクサンドロヴナ)先妻の娘。
ヴォイニーツカヤ(マリヤ・ワシーリェヴナ)三等官の未亡人、先妻の母。
ヴォイニーツキイ(イワン・ペトローウィチ)その息子──ワーニャ
アーストロフ(ミハイル・リヴォーウィチ)医者。
テレーギン(イリヤーイリー子)零落した地主。
マリーナ 年よりの乳母
下男
 
舞台はセレブリャコフの地主屋敷、


第一幕

 
庭、テラスのある家の一部が見える。並木道のポプラの老樹の下に、お茶の支度のできたテーブル。ベンチと椅子がそれぞれ数脚。ベンチの一つにギターがのっている。テーブルから近いところにブランコ。午後二時すぎ。曇り。
 
マリーナ〔病的な太った、動きの少ない老婆で、サモワールの前に坐って、靴下を編んでいる〕。アーストロフ〔そのそばを歩きまわっている〕

マリーナ  〔コップに注ぐ〕召しあがれな、旦那さん。
アーストロフ  〔気のすすまぬ様でコップを受けとる〕なんだか欲しくないんだ。
マリーナ  なんなら、ウォトカにしますか?
アーストロフ  いや、ウォトカだって毎日飲むわけじゃないさ。それに蒸し暑いからね。〔間〕 ばあや、ばあやと知り合いになってから、どのくらいになるかね?
マリーナ  〔思案しながら〕どれくらいでしょうね? なにしろ物忘れがひどいから……旦那さんがここへ、この土地へいらしたのは……いつでしたっけ? ……ソーニャの母さんのヴェーラ・ペトローヴナがまだ生きてらしたんですから。あの方のご存命中に旦那さんはふた冬、ここへおいでになりましたよ……してみると、十一、二年たったわけでね。〔ちょっと考えて〕ことによると、それ以上になるかも……
アーストロフ  あの頃からみて、僕はひどく変わったかね?
マリーナ  変わりましたとも。あの頃はお若くて、男前でしたけれど、この頃ちょっとお老けになりましたよ。それに、男前ももうあの頃とは違うし。なにしろ、ウォトカなんぞも召しあがるから。
アーストロフ  そう……十年の間に人が変わっちまったからね。その原因は何だと思う? 働きすぎさ、ばあや。朝から夜遅くまで立ち通しで、気の休まる暇もない有様だし、夜、毛布にくるまって寝ていても、往診にひっぱりだされなきゃいいがと、びくびくしてる始末だ。ばあやと知合いになった時以来ずっと、僕にはただの一日だって、暇な畤はなかったよ。これで老けこまずにいられるはずはないさ。それに、生活そのものがわびしくて、愚劣で、不潔ときているしね……こんな生活が影響するんだよ。まわりをみりゃ変人ばかりだ。どっちを見ても変人ばかり。そんな連中と二、三年いっしょに暮してりゃ、自分じゃ気づかないうちにこっちまで少しずつ変人になってゆくさ。避けがたい運命だね。〔長い口ひげをしごきながら〕ほら、ばかでっかい口ひげなんぞ立てて……愚劣なひげさね。僕は変人になっちまったよ、ばあや……頭はまだばかになっちゃいないけどね、ありがたいことに。脳味噌はちゃんとしてるんだが、人間らしい感情はなんだか鈍くなったな。何も欲しくないし、何も要らないし、だれをも愛しちゃいない……ばあやのことだけは好きだけどさ……〔彼女の頭にキスする〕子供の頃、僕にもこういうばあやがいたっけ。
マリーナ  なにか召しあがりませんか?
アーストロフ  いや。大斎期の三週間目に、マリーツコエ村へ伝染病の治療に行ったんだ……発疹チフスさ……どの小屋にも百姓がごろごろしていてね……不潔、悪臭、煙。床には子牛が寝てるしさ、病人といっしょにだよ……子豚までいる始末だ……腰もおろさなけりや、パン屑一つ口にもせずに、まる一日とびまわって、やっとわが家に帰ったら、一息入れるひまもなく、鉄道の転轍手が運びこまれてきてね。手術をするために台に寝かせたら、クロロホルムの麻酔でぽっくり死んじまうじゃないか。ところが、必要もない時に、人間らしい感情がめざめて、僕の良心をしめつけはじめるんだ、まるで僕がその男を意図的に殺したみたいにさ……腰をおろして、ほら、こんなふうに目をとじて、僕は考えたんだよ。百年、二百年あとにこの世に生きる人たちは、今こうやってその連中のために道を切り開こうとしているわれわれのことを、ありがたく思ってくれるだろうか? 思ってくれやしないんだよ、ばあや!
マリーナ  人間は思っちゃくれなくても、その代りに神さまが思ってくださいますよ。
アーストロフ  ありがとう。いいことを言ってくれたね。
 〔ワーニャ登場〕
ワーニャ  〔家から出てくる、朝食後ぐっすり眠ったので、だるそうな顔つき。ベンチに腰をおろして、ハイカラなネクタイを直す〕そう……〔間〕うん……
アーストロフ ぐっすり寝たかい?
ワーニャ うん……よく寝た。〔あくびをする〕教授夫妻がここで暮らすようになってから、生活の調子が狂っちまったよ……寝る時間でもない時に眠ったり、朝飯や昼飯にいろんなソースを使ったものを食わされたり、酒を飲んだり……不健康の一語につきるね! 前には暇な時間なんぞなかったし、僕とソーニャで働いていたんだ……立派なもんさ。それが今じゃ、働いてるのはソーニャー人で、こっちは食っちゃ寝、飲んじゃ寝、だからな……いかんね!
マリーナ 〔首をふって〕結構な話ですよ! 先生のお目ざめは十二時だってのに、サモワールは朝からシュンシュン沸いて、ずっと待ちつづけてるんてすから。あのご夫妻のいらっしゃらない頃は、お昼だってちゃんと世間なみに、いつも十二時すぎにはいただいてたのに、いらしてからは六時すぎですもの。先生は夜中に本を読んだり、書きものをなさったりするでしょう、ですから夜中の一時すぎにだしぬけにベルが鳴ったりするんですよ……何かご用で、旦那さま、と伺うと、お茶! こうですからね! あの方のために人を起こして、サモワールを支度しなけりゃならないんです……結構な話ですよ!
アーストロフ  まだ当分ここで暮らすのかね?
ワーニャ  〔口笛を吹いて〕百年はね。教授はここに定住することに決めたんだよ。
マリーナ  現に今だってそうですよ。サモワールはもう二時間もテーブルの上においてあるってのに、あの方たちは散歩にお出かけになってしまって。
ワーニャ  ほら、噂をすりや影だ……心配するなって。
〔話し声がきこえる。散歩から帰ってきたセレソリャコフ、エレーナ、ソーニャ、テレーギン、庭の奥から登場〕
セレブリャコフ  素敵だ、実にいい……すばらしい眺めだ。
テレーギン  絶景でございましょう、先生。
ソーニャ  明日は国有林に行きましょうよ、パパ、ね?
ワーニャ  みなさん、お茶です!
セレブリャコフ  ああ、お茶は書斎に運ばせてください、わるいけど。今日はこれからまだ何やかやしなけりゃならんことがあるので。
ソーニヤ  国有林はきっとお気に入るわ……
 〔エレーナ、セレブ、リャコフ、ソーニャ、家に入る。テレーギン、テーブルのところに行き、マリーナのそばに坐る〕
ワーニャ  こんなに暑くて、むしむしするのに、われらの偉大な学者先生は外套に、オーバーシューズに、傘を持って、手袋まではめてらっしゃるよ。
アーストロフ  つまり、身体を大事にしてるってことさ。
ワーニャ  それにしても、彼女は実にきれいだな! なんて美人だろう! この年になるまであんな美しい人に会ったことがないよ。
テレーギン  わたしは、野原を馬車で走っていても、木陰の多い庭を散歩していても、こうしてこのテーブルを眺めていても、言うに言われぬ幸せを感ずるんですよ、マリーナ・チモフェーエヴナ! 天気はすばらしいし、小鳥はうたっているし、わたしたちは平和に仲むつまじく暮らしている……この上何が要るというんです? 〔コップを受けとりながら〕すみませんね、本当に!
ワーニャ  〔夢みるようにJあの眼……素敵な女性だ!
アーストロフ  何か話してくれよ、イワン・ペトローウィチ。
ワーニャ  〔けだるく〕何を話すんだい!
アーストロフ  何か変わったことはないのかい?
ワーニャ  別に。何もかも相変わらずさ。僕は今まで通りの僕だし、ことによると、前よりわるくなったかもしれない。なにしろ、怠け癖がついちまって、爺さまみたいに、何もしないで、ぼやいてばかりいるんだからね。うちの年寄り烏にしても、いや、つまりお袋さんのことだけど、相変わらず女性解放のお題目を唱えてるしさ、片目で墓穴を睨みながら、もう一方の目で、こむずかしい本の中に新しい生活の曙を探してるってわけだ。
アーストロフ  じゃ、教授は?
ワーニャ  教授は相変わらず朝から夜中まで書斎にひきこもって、書きものさ。「額にしわよせ、知恵ふりしぼって、書きつづる詩の数々。されど作者も作品も、誉め言葉ついぞきくことなし」さ。原稿用紙が気の毒だよ! いっそ自伝でも書きゃいいのにさ! こいつは絶好の主題だぜ! だってさ、停年退職した教授で、老いぼれのエゴイストで、学者の干物だからな……痛風に、リューマチに、偏頭痛、その上、嫉妬と妬みで肝臓が肥大してさ……こんな干物が先妻の領地で暮らしているんだ。都会暮しは高くつきすぎるというので、仕方なく暮らしてるんだよ。いつも身の不遇をかこってばかりいるけれど、そのくせ、実際のところ、ご当人は並みはずれて運がいいんだからな。〔苛立って〕考えてもみろよ、実に幸せなもんだぜ! ただの寺男のせがれで、神学校の生徒だった男が、学位や教職のポストを手に入れて、先生とよばれる身分になった上、さらに元老院議員の娘婿におさまって、ほかにもあれやこれやとあるんだものね。もっとも、そんなのはどれもたいしたことじゃないんだ。しかし、こういうことを考えてもみてくれよ。芸術のことなんぞまるきり何一つわからない男が、まる二十五年もの間、芸術について講義したり、書いたりしてきているんだからね、二十五年もの間、あいつはリアリズムだの、自然主義だの、そのほかありとあらゆるたわごとに関して、他人の思想を焼き直ししてきたんだ。二十五年間あいつが講義したり書いたりしてきたものといや、利口な人間にはとっくにわかっているけど、ばかな人間には関心がないことだけなのさ。つまり、二十五年間というもの、あいつはまったくむなしいことをしていたってわけだよ。それでいながら、どうだい、あの、うぬぼれは! あの、自己主張の強さ! 停年で退職したって、あいつのことなんぞ、世間のだれ一人知りやしない、奴はまるきり知られてないんだよ。つまり、あいつは二十五年もの間、他人のポストを占めてたってわけだ、それなのに、どうだい、なかば神さま気取りでのし歩いてやがるんだから!
アーストロフ  おい、どうやら妬んでるな。
ワーニャ  ああ、妬んでるとも! そのくせ、奴はひどく女性にもてるんだ! どんなドン・ファンだって、あれほど完全な成功はおさめるもんか! あいつの最初の妻は、僕の妹だけれど、美しいつつましい女で、ちょうどこの青空のように清らかで、上品で、大らかで、あいつの教え子を上回るほど大勢のファンを持っていたもんだよ。妹は、清純な天使が自分と同じくらい清純な美しいものを愛する場合にしかありえないほどの愛情を、あの男に捧げていた。姑にあたる僕の母はいまだにあの男を崇拝しているしね。今でもあの男は神聖な畏怖の念を母に起こさせるんだよ。奴の二度目の細君は、美人で頭がいい……たった今、君も見た通りさ。彼女は、あいつがもう年寄りになってから、嫁に行って、若さと美しさと、自由と輝きとを奴に捧げたんだからね。なぜだい? どうしてだろう?
アーストロフ  彼女、教授に貞淑なのかい?
ワーニャ  ああ、残念ながらね。
アーストロフ  残念ながらとは、どういうわけだい?
ワーニャ  だって、そんな貞淑さは、頭から尻尾の先までインチキだからさ、レトリックばかり多くて、ロジックはないんだよ。厭でたまらない年寄りの夫を裏切るのは、道徳にはずれるけれど、気の毒な若さと生きいきした感情をおのれの内に殺そうと努めるのは、不道徳じゃないってわけだ。
テレーギン  〔泣き声で〕ワーニャ、君がそんなことを言うなんて、いやだな。え、ほんとにさ……妻なり夫なりを裏切る人間ってのは、つまり、頼りにならない人間で、そんなのは祖国だって裏切りかねない人間だよ!
ワーニャ  〔腹立ちをこめて〕口に栓をしろよ、ワッフル!
テレーギン  ごめんよ、ワーニャ。わたしの家内は、わたしの見てくれがパッとしないからという理由で、婚礼の翌日に、好きな男と駈け落ちしちまってね。そんなことがあったあとでも、わたしは自分の務めを怠ってはこなかったよ。今でも家内を愛しているから、浮気もしないし、自分にできるかぎりの援助もしている。家内が好きな男と作った子供たちの養育費に、わたしは自分の財産をそっくりくれちまったんだよ。幸福は失くしたけれど、わたしにはプライドが残されたってわけだ。ところが、家内の方はどうだね? 若さはもう過ぎ去ってしまい、自然の法則とやらのおかげで美貌も色あせちまったし、好きな男は死んじまった……いったい家内に何が残されているね?
 〔ソーニャとエレーナ登場。しばらくして、本を手にしたヴォイニーツカヤ登場。腰をおろして読書。お茶を渡されると、見もしないで飲む〕
ソーニャ  〔急きこんで乳母に〕ばあや、あっちに百姓たちが来てるの。行って、話をしてきて。お茶はあたしが入れるわ……〔お茶を注ぐ〕
〔乳母、退場。エレーナ、茶碗をとり、ブランコに腰かけたまま飲む〕
アーストロフ  〔エレーナに〕わたしはご主人のところに伺ったんですよ。あなたのお手紙だと、ご主人はたいそうお加減がわるくて、リューマチだの、そのほか何とかだのってことでしたからね。ところが、来てみりゃ、お元気そうじゃないですか。
エレーナ  昨晩は加減がわるくて、足の痛みを訴えていたんですけれど、今日は別にどこも……
アーストロフ こっちは大急ぎに、三十キロの道を馬でとばしてきたんですがね。まあ、かまいませんよ、これが最初ってわけでもありませんし。その代り、明日までこちらにお邪魔しますよ、少なくとも、思いきりぐっすり眠ることにしましょう。
ソーニャ  まあ、素敵。先生がうちにお泊まりになるなんて、めったにないことですもの。お昼はまだ、でしょう?
アーストロフ  ええ、まだです。
ソーニャ  でしたら、ちょうどお昼をごいっしょできますわ。うちではこの頃、お昼ご飯が六時すぎですのよ。〔お茶を飲む〕冷たいわ、お茶が!
テレーギン  もうサモワールの温度がいちじるしく下りましたからね。
エレーナ  かまいませんわ、イワン・イワーヌイチ、冷たいのもいただきますから。
テレーギン  申しわけありませんが……わたくし、イワン・イワーヌイチでなくて、イリヤ・イリーチでございます……イリヤ・イリーチ・テレーギン、もしくは、このあばた面が原因で一部の人のつけた渾名では、ワッフルと申します者で。その昔、ソーニャの名付け親など務めましたので、こちらの先生も、つまり、ご主人さまもわたくしをよく知っておいででございます。今はこちらのご領地でご厄介になっております身で……お目にとまりましたかどうか、毎日のお食事もごいっしょさせていただいております。
ソーニャ  イリヤ・イリーチはあたしたちの補佐役で、右腕とも頼む人ですのよ。〔やさしく〕いかが、おじさん、もう一杯お注ぎしますわ。
ヴォイニーツカヤ  あら!
ソーニャ  どうなさったの、おばあさま?
ヴォイニーツカヤ  アレクサンドルに言うのを忘れてたよ……すっかり度忘れしちまって……今日、ハリコフのパーヴェル・アレクセーエウィチからお手紙をいただいたんだよ……新しい文庫本を送ってきてくださってね。
アーストロフ  おもしろいですか?’
ヴォイニーツカヤ  おもしろいけれど、なんだか変ですよ。七年前に自分の弁護していたものを否定してるんですから。ひどい話だわ!
ワーニャ  別にひどいことはないでしょう。お茶を飲みなさいよ、母さん。
ヴォイニーツカヤ  でも、わたしは話がしたいのよ!
ワーニャ  だけど、僕たちはもう五十年もの間、ただただ話をしたり、文庫本を読んだりしてきてるんですからね。もう、やめてもいい頃でしょうに。
ヴォイニーツカヤ  あんたはどういうわけか、わたしの話をきくのが不愉快のようね。わるいけれどね、ジャン、この一年間にあんたはまるきり見違えるほど人が変わったわ……あんたははっきりした信念の持主で、明るい人柄だったのに……
ワーニャ  ええ、そうですとも! 僕は明るい人柄でしたよ、そのために明るくなった人間は一人もいなかったけど……〔間〕明るい人柄だった、か……これ以上、毒のある皮肉はありませんね! 僕は今、四十七です、去年までの僕は、母さんと同じように、お得意のそんな空理空論でことさら自分の眼をくもらそうと努めていたもんです、本当の生活を見ないようにするためにね、それでいて、自分のしているのがいいことだと思っていたんですよ。だけど今や、母さんにもわかってもらえたらと思うくらいだ! 今この年になってはあきらめざるをえないようなものでも、すべて手に入れることのできたはずの大切な時代を、あんなに愚かしくやりすごしてしまったかと思うと、腹立たしさと口惜しさとで夜も眠れやしないんです!
ソーニャ  気が滅入るわ、ワーニャ伯父さん!
ヴォイニーツカヤ  〔息子に〕まるで自分のこれまでの信念に、何かわるいところがあるみたいにお言いだね……でも、いけないのは信念じゃなくて、あんた自身ですよ。信念なんて、それ自体はゼロにひとしい、生命のない文宇だってことを、あんたは忘れていたのね……必要なのは仕事をすることだったのよ。
ワーニャ  仕事? 人間だれしも、母さんの好きな教授みたいに、もの書きロボットになれるとはかぎらないんですよ。
ヴォイニーツカヤ  何を言いたいんです?
ソーニャ  〔哀願するように〕おばあさま! ワーニャ伯父さん! おねがい!
ワーニャ  黙るよ。黙るし、あやまる。
  〔間〕
エレーナ  それにしても、今日はいいお天気ですこと……暑くもないし……
  〔間〕
ワーニャ  こんな天気に首をくくったら素敵だろうな……
[テレーギン、ギターの調子を合わせるマリーナ、家のまわりを行ったり来たりして、雌鶏をよび集めている]
マリーナ   とう、とう、とう……
ソーニャ   ばあや、百姓たちは何しに来たの?
マリーナ  また例の件ですよ。またぞろ、あの野っ原のことでしてね。とう、とう、とう……
ソーニャ  どの鶏がいないの?
マリーナ  ぶちがひよこを連れて行っちまったんです……烏にでもさらわれなけりゃいいんですけどね……〔退場〕
  〔テレーギン、ポルカを弾く。一同、無言できく。下男登場〕
下男  病院の先生はこちらでごぜえますか? 〔アーストロフに〕いらしてくださいまし、ミハイル・リヴォーウィチ、お迎えが参っておりますので。
アーストロフ  どこから?
下男  工場からです。
アーストロフ  〔腹立たしげに〕おそれいります、まったくしょうがない、行かにゃならんな……〔眼で帽子を探す〕いまいましいな、畜生……
ソーニャ  厭ですわね、ほんとに……工場からお食事に戻ってらっしゃいませな。
アーストロフ  いえ、遅くなるでしょうから。どこかな……どこへおいたっけ……〔下男にJあのね、君、ウォトカを二杯、持ってきてくれないか、ほんとにさ。〔下男退場〕どこかな……どこへいっちまったんだろう……〔帽子を見つける〕オストロフスキーの何とかいう戯曲に、口ひげは大きいけれど才能の乏しい人間が出てきますね……わたしがそれですよ。じゃ、失礼します、みなさん……〔エレーナに〕そのうち、このソフィヤ・アレクサンドロヴナとでもごいっしょにわたしのところをのぞいていただけたら、心から歓迎しますよ。わたしの領地なんてわずかなもので、全部で三十ヘクタール(約九万坪)ほどですけれど、もし興味がおありでしたら、千キロ四方を見まわしても見当たらぬような、模範的な果樹園と苗木畑をごらんに入れましょう、うちの隣は国有林ですが……そこの森番は年寄りで、いつも病気ばかりしているもんですから、実際には、わたしがいっさいを管理しているんです。
エレーナ  あなたがとても森を愛してらっしゃることは、もう伺いましたわ。もちろん、たいそう為になるかもしれませんけれど、あなたの本当の使命の妨げになりませんこと? だって、あなたはお医者さまでしょうに。
アーストロフ  何がわれわれの本当の使命かは、神さまにしかわかりゃしませんよ。
エレーナ  でも、おもしろいんですの?
アーストロフ  ええ、おもしろい仕事です。
ワーニャ  〔皮肉たっぷりに〕とってもね!
エレーナ  〔アーストロフに〕あなたはまだお若いでしょう。お見受けしたところ……そう、三十六、七かしら……ですもの、きっと、ご自分でおっしゃるほどには、おもしろくないはずですわ。いつも森のことばかりなんて。単調だと思いますけど。
ソーニャ  いいえ、とてもおもしろいんですのよ。ミハイル・リヴォーウィチは毎年新しく植林なさってらして、もう銅メダルと賞状を贈られてますのよ。先生は、古い森が根絶やしにされぬように、心を砕いてらっしゃるんです。先生のお話をすっかりおききになったら、心から同意なさいますわ。先生のお話では、森は大地を飾って、美しいものを理解することを人間に教えてくれるし、荘厳な気分をいだかせてくれるんですって。森はきびしい気候をやわらげてくれますもの。気候のおだやかな国では、自然とのたたかいに力を費やすことが少ないでしょう、ですからそういうところでは人間もおだやかで、やさしいんですわ。そういうところの人は美しくて、柔軟で、刺戟に弱いし、言葉は優雅で、動作はしとやかなんです。そういう人のところでは学問や芸術は栄え、哲学も暗いものではなく、女性に対する態度は洗練された品位に充ちていますわ……
ワーニャ  〔笑いながら〕ブラーヴォ、ブラーヴォ! すべて結構だけれど、説得力がないな。だからね〔アーストロフに〕わるいけどさ、君、僕は薪で煖炉を焚いたり、材木で納屋を建てたりしつづけさせてもらうよ。
アーストロフ  煖炉を焚くのは泥炭だってできるし、納屋は石で作れるじゃないか。まあ、必要に迫られて木を伐るのは認めるけれど、なぜ森を根絶やしにする必要があるんだい? ロシアの森は斧の下でめりめり音を立て、何億という木が滅びつつあるし、けものや鳥の棲家は荒らされ、河は浅くなって涸れつき、すばらしい景色も二度と返らずに消え去りつつあるんだ。それもこれも、ものぐさな人間に、腰をかがめて、地面から燃料を拾いあげるだけの分別が欠けているためなんだからね。〔エレーナに〕そうじゃありませんか、奥さん? あんなに美しいものを煖炉で燃したり、われわれの創造しえないものを破壊したりするなんて、分別のない野蛮人でなけりゃできないことですよ。人間は、自分に必要なものを増やしてゆくための創作力と理性をさずかっているのに、今日までものを作りだすことをしないで。破壊してばかりきたんですからね。森はどんどん少なくなるし、河は涸れてゆく。野鳥は絶滅し、気候は不順になる。そして日ましに大地はますます貧しく、醜くなってゆくんです。〔ワーニャに〕君はそんな皮肉な眼で僕を見ているね。僕の言うことなんぞ、君にはすべて深刻でないものに思えるんだし……それに、ことによると、実際こんなことは変人のたわごとかもしれないけど、しかし、僕が伐採から救ってやった百姓の森のわきを通ったり、この手で植えた若木林のざわめきをきいたりすると、僕の力でも多少は気候をどうにかできるんだ、かりに千年後の人間が幸福であるとしたら、いくらかは僕のせいでもあるって意識するんだよ。白樺を植えて、やがてそれが緑の葉をつけ、風にゆらいでいるのを見ると、心が誇らしさでいっぱいになるよ、だから僕は………〔ウォトカのグラスを盆にのせて持ってきた下男に気づいて〕それにしても……〔飲む〕そろそろ行かなけりゃ。こんなことは、きっと、変人のたわごとなんだろうな、結局のところ。それじゃ失礼します!〔家の方に行く〕
ソーニャ 〔彼と腕を組み、いっしょに行く〕今度はいつおいでになりますの?
アーストロフ  わかりませんね……
ソーニャ  また、ひと月後かしら?
〔アーストロフとソーニャ。家に入る。ヴォイニーツカヤとテレーギンはそのままテーブルのわきに残る。エレーナとワーニャ、テラスの方に行く〕
エレーナ  あなたはまた、いけない振舞をなさったわ、イワン・ペトローウィチ。お母さまを怒らせたり、ロボットなんて言ったりする必要があって! それに今日も朝食の席で、またアレクサンドルと言い合いをなさったし。下らないじゃありませんか!
ワーニヤ  でも、僕があの人を憎んでいるとしたら!
エレーナ  アレクサンドルを憎む理由なんて何もないじゃありませんか。あの人は、みんなと同じような人間よ。あなたよりわるい人でもないし。
ワーニャ  もしあなたがご自分の顔や、しぐさを見ることができたら、と思いますよ……あなたは、生きているのが実に物憂そうだ! ああ、なんて物憂そうなんだろう!
エレーナ  ええ、物憂くもあるし、わびしくもありますわ! みんなが主人の悪口を言うし、だれもがあたしを同情の眼で見るんですもの。可哀そうに、あんな年寄りの夫を持って、というわけね。あたしに対するそういう同情は、ええ、よくわかりますわ! 今もアーストロフさんがおっしゃった通り、あなたがたはみんなして無分別に森を滅ぼしてらっしゃるから、もうじきこの地上には何一つ残らなくなるでしょうよ。ちょうどそれと同じように、あなたがたは無分別に一人の人間を滅ぼそうとなさってらっしゃるから、もうすぐ、あなたがたのおかげで、この地上には貞節も、清純さも、自分を犠牲にする能力もなくなってしまうでしょうね。どうしてあなたがたは、自分のものでもないのに、一人の女を平静に見ていられないのかしら? それというのも、あのドクトルのおっしゃった通り、あなたがたのだれもの内に、破壊の悪魔が巣喰っているからですわ。あなたがたは、森も、小鳥も、女も、お互い同士も、惜しくないのね……
ワーニャ  そんな哲学、僕は嫌いです! 〔間〕
エレーナ  あのドクトルは、人生に疲れたような、神経質な顔をしてらっしゃるわ。魅力的な顔ね。ソーニャはどうやら、あの人が好きで。お熱いらしいし、その気持もわかりますわ、あたしが来てから、あの人はもう三回ここへお見えになったけど、あたしって内気だから、一度もまともにお話ししたことがないし、やさしい顔も見せてあげなかったでしょう、意地のわるい女だとお思いになったわね。ねえ、イワン・ベトローウィチ、あたしとあなたがこんなに仲のいいお友達なのは、きっと、二人とも陰気な、憂鬱な人間だからね! 陰気ですもの、あたしたち! そんな眼であたしを見ないでください。あたし、そういうの嫌いなんです。
ワーニャ  あなたを愛してるのに、違うふうに見ることができますか? あなたは僕の幸せなんだ、生命なんです、僕の青春なんだ! お互いに愛し合うなんて見込みはむなしくて、ゼロにひとしいことくらい、わかってます。でも、僕は何も要らない、ただあなたを見つめ、あなたの声をきかせてくれるだけでいいんです……
エレーナ  静かに。人にきかれるじゃありませんか!
  〔家に向かう〕
ワーニャ  〔あとを迫って〕僕の思いを語らせてください、追い払わないで。それだけで、僕にとってはこの上なく大きな幸せなんですから……
エレーナ  ああ、やりきれないわ……〔二人とも家に入る〕
〔テレーギン、弦を打って、ポルカをひく。ヴォイニーツカヤ、文庫本の余白に何やら書きこんでいる〕
 

 


原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。


 
 
 
 

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