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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第8章


第8章

 唐木哲也を、千鳥ケ淵のFホテルに訪ねることなど、二、三年前には想像もつかないことだった。まるでこの世を捨てた人間のように、ひらひらと舞う蝶を追いかけて、日本はもとよりアラスカやニューギニアにも足をのばす。ペンネームを、虫山蝶太郎と名づけたぐらい彼の生活は蝶一色だった。毎日の生活はもちろん、あちこちにでかける金はいったいどこから捻出しているかというと、あまりはっきりと語りたがらなかったが、どうも闇のルートがあるようで、そこでかなり高額で蝶マニアたちに蝶を売りさばいているようだった。
 しかしその闇商売も、結局あぶく銭なのであって、彼はまるで貧乏生活から逃げるみたいに蝶を追いかけて、あちこち飛び回っているのだった。そんな彼が二年ほど前に「蝶太郎、蝶を追って三千里」という本を出したのだ。蝶マニア向けに書かれたエッセイ集が、意外なことにあちこちで評判になって、その年のエッセイスト大賞の候補作になってしまった。そうするとあちこちの新聞や雑誌から原稿依頼が舞いこみ、彼はちょっとした売れっ子になってしまったのだ。その日もまたある雑誌の原稿を書くために、そのホテルに缶詰になっていた。
 彼は八ケ岳の麓に土地を持っていたが、その思わぬデビューによって稼いだ金で、かねてから念願だった山荘を一人で建てはじめた。そういうことは実に器用な男だった。昨年の秋、ぼくがそこ訪ねたときは、ようやくその建造物の骨組みが組み立てられたといったところだった。だから降るような星空をながめながら眠りにつくのだ。その印象が鮮烈で、彼を訪ねたのはその山荘を借りるためだった。
 ぼくたちは、通りを見渡すことができるテラスで、ビールを飲んでいた。
「いまもおれはふと考えるんだよ。いったいおれの書くもののどこが金になるのだろうかってね」
「大丈夫だよ。君の文章はちゃんと金になるよ。語り口がなめらかでさわやかで。それに文章に深みがある。それだけの蓄積があるからだろうな」
「こんな軽い文章でいいのかなって思うんだよ」
「そこがまた楽しいんだ。ちょっとした読物になっているよ。なかなかしゃれたユーモアもあるし、それに君の撮った写真も素敵だ。上質のフォトエッセイになっているよ」
「いやに今日は持ち上げてくれるじゃないか」
「君の小屋を借りる以上、けなすわけにはいかないじゃないか」
「なるほど、そういうことか。いやらしい野郎だ」
「いや、ほんとうのことさ。しかしホテルに缶詰になっている唐木なんて、どこかおかしくないか」
「おかしい、おかしい。まったく異常だよ」
 しかし唐木はどこも変わっていなかった。相変わらずすりきれたジーパンに、指の突き出たビーチサンダルをはいている。よくこんな格好でこのホテルに投宿できると思われる格好なのだ。
「こいつを書きあげたらアフリカにでかけるよ」
「とうとうあこがれのアフリカ大陸にいくわけだな」
「長いことあこがれていたからね。ひさしぶりに胸がときめくよ」
「あこがれの彼女に会うみたいにね」
「女などくそくらえだよ」
「そうだな」
 とぼくは言った。
「女ほどつまらない存在はないよ」
「そうかな」
「そうさ。あんな得体のしれない生物はいない。まるで精神性がない生物なんだ」
「蝶には精神性とやらがあるのか」
「あるさ。蝶には実に高い精神性があるさ」
 通りにタクシーが止まり、そこから一人の女が降りてきた。
「おい、みろよ。女がこっちに手を振っているぜ」
「うん」
 彼が奇妙な視線を送ったので、ぼくは手を振るのをやめた。
「ああいう色気違いもいるんだな。あの女は、まず珍蝶にはいるだろうな」
 と彼は軽蔑するように言った。その女はホテルの玄関に消えた。しかしその女はレストランに姿をみせ、ぼくたちのところにやってきたのだ。唐木はどういうことなのだという表情でぼくをみた。ぼくはその女を紹介してから、
「こいつはいま、君は色気違いだって言ったよ」
 と宏子に言った。
「ばか、よせよ」
「あら、どうしてなの?」
 宏子は絶句して、赤くなっている唐木にたずねた。
「女なんて、くそくらえって言うんだ。女ほど得体のしれない生物はなく、とくに君なんか珍蝶の部類に属するらしい」
「チンチョウってなんですの?」
「奇妙な蝶ってことさ」
「あのな、お前」
 唐木は、この裏切り者といった視線で、ちらりとぼくを射ると、今度は一転して、実はどんなに女性にあこがれているか、どんなに女性は高等生物であるかを話しだした。なんでも種を引継ぐ主体者としての女性は、男性よりもはるかにすぐれた生物であるらしい。そのことをさまざまな昆虫をひきあいにだして語るのだった。そしてなにやら、彼の失恋の歴史といったことに話を転じていって、宏子を笑わせた。
「面白い人ね、あの人」
 唐木が原稿を書かなければと言って、部屋にもどっていくと、宏子が言った。
「あいつは一生懸命に道化の役を演じてくれたんだよ」
「そうなの」
「いつもぼくがそうだった。友達が彼女を連れてくるわけだよ。そのときいったいどんな顔をして座っていればいいと思う。二人を笑わせるピエロの役を演じる以外にないんだ。ぼくはいつもいつもピエロの役だった」
 宏子はぼくの膝に手を置いた。ぼくはその手に手をかさねた。今日はぼくが主役であり、宏子をここに呼んだのは、彼女にプレゼントがあるからだった。その贈物をしたあと、二人で八ッ岳にむかう。
「ものすごく長いマラソンにでかけていくみたいだな」
「ほんとうね」
「もう君はもどってこないような気がするよ」
「帰ってくるために走っていくんだわ」
「待っているって、とてもつらいと思わないか」
「走っている方だって、つらいと思わない」
「うん」
「手紙、下さいね」
「君も毎日書いてほしいな」
「そうするわ」
「ぼくの手紙、きっと白い性液で書かれるだろうな。君がほしいって」
「私の手紙もきっとそうなるのよ。あなたがほしいって」
「帰ってきたら結婚しよう」
「だれかさんは、結婚って敗北だって言ったわよ」
「もう思想を乗り換えたんだ。結婚はぼくたちの新世界だ。そう思わないか」
 ホテルの前に駐車してあったタクシーに乗りこむと巣鴨にむかった。その車のなかで、はじめて彼女に説明したのだ。
「君への餞別なににしようかと考えたんだ」
「なんなの、そのセンベツって」
「君だってリングにあがったボクサーなんだ。そこでひらめいたわけだよ」
「ああ、わかったわ。ボクシングのグローブってわけでしょう」
 松木ジムは、住宅が立て混んだ一角に立つ、みすぼらしい町工場のような建物のなかにあった。ジムのなかはがらんとしていて、高校生のような若者が一人パンチングボールを叩いていた。その乾いた音や、むっとする汗のにおいや、空っぽのリングが、なにか切ないばかりの孤独を感じさせた。ぼくたちはベンチに座って、近藤眞吾を待っていた。
 眞吾は約束の時間通りにジムにあらわれた。日本チャンピオンといっても、ボクシングの世界では生活を潤してはくれない。眞吾もまた相変わらず五時におきて、肉の運搬をしているのだった。久しぶりに会う眞吾は、ちょっぴり風格というものが漂っていた。
 眞吾は宏子をみてちょっとびっくりしたようだった。ぼくは彼に宏子を連れてくるとは言わなかったのだ。
「焼き肉屋にでもいきましょうか。このへんには案内するところって焼き肉屋しかないんです」
 と彼は言った。
 ぼくたちは、ぶらぶら歩いて路地裏をぬけ、商店街に出た。半端な時間のせいかその店に客はだれもいなかった。
「ビールを飲みますか」
 と彼が訊いた。
「飲んでもいいの」
「いや、ぼくは駄目ですけど」
「じゃあ、ぼくたちもよすよ」
「いえ、ぼくはいいんです。慣れてますから」
 と言って眞吾は、勝手に注文してしまった。そしてこう言ったのだ。
「今日は、ぼくのおごりですからね」
「ばかなこと言うなよ」
「あれ、そういう約束だったじゃないですか。ぼくがチャンピオンのベルトをとったおごるってことに」
 ぼくはそんな約束をしたおぼえはなかった。彼と何度か食事をしたことがあるが、それもほとんどが取材といったものだった。そういえば、彼と最初に食事をしたとき、自分の分は自分で払うと言って、ぼくをびっくりさせたことがある。これは取材費なのだと説明して、やっと納得させたものだ。取材されるということがはじめての経験だったからなのだが、ぼくはそのときなんと誇り高い若者なのだろうと思ったものだ。
 ぼくはあらためて宏子を紹介し、彼女もまたリングにあがったボクサーなのであり、いろいろとアドバイスして欲しいと言ったが、彼にはなんのことかわからないようだった。しかしこの寡黙な男は、興味深々の宏子の繰り出す質間のパンチに、一生懸命にこたえた。
「怖いことってないのかしら」
 と宏子が訊いた。
「それは怖いです。ぼくは臆病なんです」
「それでも戦わなければならないわけね」
「だから試合が近づいてくると、眠りが浅くなってこまるんですよね」
「緊張して」
「ええ、こんなこと喋ったらいけないんだけど」
「よくわかるわ」
「くたくたになっているのに眠れないんですよ」
「そういうのって苦しいわよね」
「まったくいやですね。そこから調整が、ずるずると崩れていくことがあるから必死ですよ。眠ろうって」
「あせればあせるほど、眠れなくなるってことがあるでしょう」
「そうなんですよ。まったくあれはあせるんだな」
「倒されるかもしれないなんて思うことないの」
「そう思ったら、負けですからね」
「そうでしょうね」
「でも不安というかいやな感じに、いつも迫いかけられてますよ。じわりじわりとやってきて。たまらなくなりますけど」
「そういうとき、どうするの」
「前はそんな不安を振り切るために、外に飛び出して、走ったりしましたけど、いまそうやって逃げるんじゃなくて、じっと耐えて心を強くしようと思っています。こういう不安とか恐怖にどれだけ心がたえられるかって」
 眞吾を取材したのは、彼がまだ四回戦ボーイの時代だった。それからずっと彼の試合を欠かさずみてきた。彼の試合は、スリリングで、いつも刺激に満ちているのだ。
「君の試合をみていて、いつも不思議に思うことがあるんだ。レフリーがかたどおりの注意をあたえるじゃないか。あのときの君の目なんだ。ふつうのボクサーなら、たいてい敵意をむきだしにして相手をにらみつける。しかし君の目はちがうんだ。あれはなんだろうって、ずっと思っていたんだ」
「そんなこと言われたのは、はじめてですよ」
「しかしどうしてあの緊張したときに、あんなやさしい目になれるんだろうな」
「あのときぶつぶつと眩いているからかもしれませんね。おれはべつに神様を信じるわけじゃないけど、あのときばかりは神様力を貸して下さいって言うんですよ。この日のために、一日もさぼらずに走りこんできました。何万発とサンドバッグを叩きこんできました。食いたいものも食わず、飲みたいものも飲まずに耐えてきました。おれにパンチを下さい。スピードを下さい。勝たして下さいって、ぶつぶつと眩いているんですよ」
「ああ、なるほど」
「そうやって、のぼせる自分を冷静にしようと。カッとなってずっこけたことがありますから。でも、そんなことを眩くようになったのは、ここまできたのは、おれだけの力じゃないんだって思ってからなんです」
「おれだけの力じゃないって?」
「相手を倒すのは、おれの力じゃなくて、なにかおれ以上の力がそうさせてくれているんじゃないのかって」
「うん。わかった、君は哲学者なんだ」
「哲学者ですか」
「君のボクシングに、なぜ惹きつけられるのかその原因がわかったよ。君はボクシングで哲学をやっているんだ」
 眞吾と別れたあと、宏子は手をぼくの腕にからみつかせて、
「あなたの贈物、すごいわね。こんな贈物、最高よ」
「あいつはへんなやつだよ」
「そう、ほんとうにへんな人だわ」
「あんなに若くて、もうしっかりと世界をみつめているんだ」
「ほんとうね」
「でも彼の本当のすごさは、リングの上なんだよ。あいつの試合をほんとうはみせたかったんだ」
 大倉山にもどり、駅前のスーパーで、四日間の山ごもりのための食糧を買いこんだ。ビスケット、チョコレート、牛肉、烏肉、ハム、パン、調味科、スパイス、キャベツ、ねぎ、トマト、レタス、キュウリ、しょうが、にんにく、スパゲティ、ソース、醤油、味噌、マヨネーズ、バター、ジャム。それに缶詰のマッシュルームやアスパラガスと、山ほどの買物をしてアパートにもどってくると、それをそのまま車に投げこんで八ッ岳をめざした。
 小淵沢ICを降りたのはもう十時だった。そこから横断道路を通り、清里を抜けて海尻にでると、左に折れて稲戸にむかった。そこまでは順調だった。
 唐木ときたときのうろ覚えの記憶をたよりに、メーターゲージをにらみながら車を走らせた。ところが肝腎の道になかなかでない。その道は山荘に入るために、唐木が切り開いた獣道のような私道だったから、なんだか暗闇のなかでは、針の穴をさがすようなものだった。
 山麓のひだ深くのびている一本道をいったりきたりして、やっとのことで入り口をみつけたときには、もう深夜の一時に近かった。木立が闇のトンネルをつくっているたよりない凸凹道を、波にもまれる小舟のように車体を大きく揺らしながら進んでいくと、へッドライトが木立のなかにひっそりたたずんでいる山荘を浮かび出した。
 翌朝、うるさいばかりの鳥の声で、ぼくは目をさました。堅い木のベッドからぬけだし窓をあけると、部屋のなかに、さあっと木立や草や朝の空気のにおいが流れこんできた。木々の枝が、羽毛のようなやわらかい葉をつけて、遅い春の息吹を伝えている。ぼんやりとかすんだ森のなかに、新鮮な朝の大気が白く青くひろがっていた。
 その部屋は中二階とでもいう高さにあった。まだ階段がつくられていないから、上り下りには梯子をつかうのだ。どっしりとした梁がむきだしになっていた。柱はすでに組まれ、屋根にもスレートが敷かれてあったが、内部はまだ半分も仕上がっていない。たった一人でコツコツと十年ぐらいかけてつくり上げると言うのだ。あちこちに材木やら工具が投げおかれていて、ちょっと作業場といった感じだった。しかしそれらが、朝のひかりのなかに映えて、唐木の充実した時間を思わせた。
 ポリタンクを両手にぶら下げて川に下っていった。木立を縫い、朝露に濡れた草を踏みわけていく。ちょっとした斜面を下っていくと、せせらぎの音がにわかに湧き上がってくる。小さな渓流が、岩をまき、岩をかみながら、勢いよく流れている。冷たい水で顔を洗い、口をそそぐと、ポリタンクに水を満たした。
 携帯用のガスコンロで、たったいま汲んできた水で湯をわかし、コーヒーをいれていると、宏子が梯子を降りてきた。
「おはよう」
 とぼくは言った。
「おはよう」
 と彼女は、初夜をすごした女のように恥ずかしそうに言った。彼女もまたこの白い朝のように新鮮にみえた。
 その日、ぼくたちは中山峠にでて、天狗岳に登ることにしていた。林道で車を捨てると、うねうねと森林のなかを巻きながらのびる山道を登りはじめた。どんよりとした厚い雲がたれこめて、森のなかはさらに暗く、床をおおう苔が森の匂いを濃密にしている。あちこちにころがる倒木が、ここは人間の踏み込むところではないとひっそりとつぶやいているようだった。きつい登りがつづいた。気持ちのよいほど高度を上げていく。汗が吹き出してきた。都会の生活ににごりよどんだ汗だった。一歩一歩足をくりだすたびに、ぼくたちは軽くなり新鮮になっていく。宏子の足どりも軽やかだった。ゆっくりだが一歩一歩たしかな足どりで登ってくる。
 ガスがかかり、山はその肌を隠していた。汗がでなくなったのは、いよいよ高度をあげ、温度を下げているからだ。ところどころに雪が斑をつくっていた。その斑模様は、次第にひろがって、みどり池にでるともうあたり一面が雪だった。天候のせいか、みどり池は痩せてみすぼらしかった。そこをぬけると雪は急に厚さをましていく。ぼくたちは何度も雪のなかに、ずぼりずぼりと太腿までを踏み込んでしまう。そのたびにぼくたちは笑いころげるのだった。雪がちらちらと降ってきた。それはぼんやりと墨絵のようにかすむ山をいっそう神秘的にした。
 雪がうるさいほど舞い落ちてきた。山は五月だというのに、冬の冷気をのぞかせた。寒さが肌をつき刺してくる。手袋をしていたが、手先がだんだん痛くなっていく。斜面はいよいよ急になった。最後の急登だった。さすがにこのあたりになると、宏子の足が遅くなった。しかしもうあとわずかなのだ。
 天狗岳に立ったときは、もう雪はやんでいた。紅茶を沸かし、缶詰をあけて、フランスパンにレタスとハムをはさみこんでかじっていると、ガスが流れ、空がぐんぐん明るくなっていった。そしてまるで、ぼくたちにちらりとその裾をからげるように、荒々しく吠えるような森の雄大な広がりを眼下に鮮やかににみせた。ぼくたちは鳥の目になる。どこまで広がる樹林帯の上を飛期する鳥になる。
 唐木は、その山荘を十年をかけてつくると意気ごんでいるだけに、あちこちがユニークな設計になっていたが、なかでも山荘の前にこしらえた露天の風呂は傑作だった。なんでも新潟の造り酒屋から、不要になったという直径が二メートル近くもある樽を運びこんでいたのだ。その風呂をわかすために、ポリタンを二輸車にのせて川まで水を汲みにでかけた。その大きな樽に、水をたっぷりと満たすには、何十回と川まで降りていかなければならなかった。しかしそんなことがとても楽しいのだ。
 倒木や間伐で切り倒された樹木を、ストーブにくべる長さに、電動鋸で切断してある丸太が、軒下にうず高く積み上げていたが、それをとりだして薪割りだった。もう闇がおりはじめた静かな森のなかに、斧を丸太に打ち下ろす、かんこんという音が吸いこまれていく。
 その薪をストーブの中に投げ込み、火をつけると、あかあかと燃え上がった。その火をながめながら、ぼくはちびりぐびりとウイスキーをなめていた。宏子は山荘のなかで夕食づくりだ。今夜は彼女特製のビーフシチュー。牛肉と野菜を赤葡萄酒でぐつぐつと煮込むそうだ。山荘からランタンの素朴なひかりが静かにこぼれていた。風呂が沸いた。それは風呂を沸かしたというより、風呂をつくり上げたという感じなのだ。水を一輪車で川から何十回も運んでくる。薪を割り、それを竈に投げいれて、火をつける。なるほどこれはなかなか手のこんだ創造だった。さらさらとなめらかな、あたたかいお湯だった。素晴らしい創造だった。大声でまた宏子をよんだ。
「だれかのぞいているってことないのかしら」
 タオルをまきつけて、宏子が小走りに走ってくると、そう言った。
「こんな山奥にのぞきなんていないよ」
「そうね」
 彼女が入ると、のんびりとした浴槽が、しんみりとした狭さになった。ぼくたちはぴったりと一つになった。やらかくゆたかにはずむ乳房が、すべすべした足と腿が、ひそかな繁みが、ぼくの手を幸福にする。
「ぼくたちをあの星がのぞいていやがる」
「素敵じゃない。お星さまにみられるなんて」
 満天の星屑だった。あれがシリウス、あれがうみへび座、あれがおとめ座と言いながらながめていると、星屑はそんな像にみえてくるのだった。はるか数千年、数万年という月日をかけてたどりつく星のまたたき。それはなにか永遠の彼方といったものを感じさせた。遠くにいってしまう宏子。いまここに抱きしめている女は、あの星よりも遠くにいってしまうのかもしれないという不安が、するりとしのびこんでくる。
 河原から運んできた石を、丁寧に積み上げつくったという暖炉に火を入れていた。食事のあと、ぼくたちはワインを飲みながら、その火をながめていた。おそろしいばかりの静寂と、黒い不気味な闇をやわらげてくれる。火は夜の音楽家だった。さまざまな音色を奏でるのだ。ぼくたちはまったくちがう思いでその火をみていた。
「さびしい火だな。とてもさびしい火だよ」
「でもあたたかい火だわ。なんだかひどく幸福にさせるのよ」
「もうすぐ消えてしまうわけだよ。残るのは灰ばかりだ」
「そうかしら」
「そうなんだ。人間だって、そういうことかもしれないんだ」
「そんなことはないわ」
「人間なんて、このちょろちょろと燃える火みたいにたよりないんだ。ぼくたちを繋ぐものなんてなにもないんだから」
「そんなものなの」
「君はそう思わないか」
「そうは思わないわ」
「ぼくらをほんとうに結びつけているものってあるんだろうか」
「私にはたくさんあるわよ」
「そうかな」
「あなたは眞吾くんに会わせてくれたわ」
「彼はやがて世界チャンピオンになるよ」
「あなたの指輪だってあるわ」
「そんなものたよりにならないよ」
「そんなものだったわけ」
 彼女はもう泣いていた。宏子の心はなにか痛ましいばかりだった。もろくこわれやすくなっているのだ。間もなくやってくる別離のときを、ぼく以上におそれているのだった。彼女は間違っていることがわかっているのだ。真理は彼女の側にあるのではなく、ぼくの方にあるということが。いま彼女がすべきことは、こうしてぴったりと体をよせあい、夜を過ごし朝を迎えることだった。二人の指をからめて、ぼくらの希望の土地にむかって歩いていくことだった。しかし彼女はそうしなかった。彼女はグローブを捨てていない。彼女は依然としてリングにあがったボクサーというわけだ。
 ゆらゆらとゆらめく火は、宏子のからだを官能的に染め上げた。乳房が、尻が、脚がやわらかい炎にうつしだされて、あやしく燃える。その炎のおよばぬ乳房の谷間や、開いた脚の奥深くにひそむものも、また燃えているのだった。その影にぼくの顔をうずめ、頬や唇をはわせていく。やわらかくあたたかくやさしい彼女のからだが、ぼくに無限のやさしさを与えてくれる。やすらぎのときだった。生命の底までやすらぐのだ。彼女のなかはあたたかくピンクに濡れていて、ぼくの孤独で野蛮な性は充足と平和にくるまれる。それは宏子にだってそうなのだ。男には女が必要であり、女にもまた男が必要なのだ。
「きみはどうするわけ」
「どうするわけって?」
「君がしたくなったときだよ」
 彼女はぼくのはだかの尻を抱き、ぼくの性に愛撫の波をくりかえしていた。ぼくもまた彼女の尻をだき、彼女の性をまさぐっていた。ぼくたち燃える性のなかにあった。
「たえられなくなって、だれかとベッドにいるかもしれないな。だれかを好きになってしまうかもしれない」
「それは仕方がないわね」
「君だって同じさ。君にはたくさんの男が言い寄ってくるじゃないか」
「その男たちとベッドに入ってしまうわけ」
「そうだよ」
「そういうこともあるかもしれないわ。でもあなたは、少し私をみくびっているわよ」
「そうだ。君もみくびってほしくないな」
 どこからか、さあっとふきつけてくる嫉妬と憎しみのなかで、彼女の体を開いた。
「君のすべてをみておきたいんだ」
「じゃあ、あなたのもみせてちょうだい」
 と宏子も言った。
 ぼくたち圧倒的な性のなかにあった。くめども尽きせぬように新しい欲情が湧いてくる。それはぼくたちの肉体が、この熱い性の充実のときを間もなく失うことを知っているからだった。長い空白をいま奪い取るかのように、あるいはその長い空白を埋めるだけの時間を、ぼくたちのなかに刻みこもうとしているかのようだった。彼女もまた彼女のなかに湧きたつ欲情の炎にくるまれてぼくを求めるのだった。ぼくの脚をひらき、ぼくの体に燃える指をはわせ、腰や尻に顔をうずめ、彼女の肉体のすべてが、ぼくのなかで充足と歓喜の声をあげる。彼女は少しづつ恥ずかしさを捨てて、少しづつからだを開いていく。性の花が一面に咲き乱れるのだった。
 その山麓は、いま春の前線だった。桜があでやかで悩ましいばかりの色をつけ、カラマツがさらさらとした芽を吹き出し、春の新生のハーモーニーを奏でていた。水はすばらしくうまく、沸かすコーヒーがとても深い味になった。空気は清澄で、時間はのんびりと流れ、昼と夜とがきりりとして人を健康にさせる。自然ののびやかな時間のなかで、薪を割り、水を汲み、食事をつくり、本を読み、愛を交わし、深い眠りにつくのだ。迫りくる危機を前にした愛の祝祭日だった。
 それはやはりぼくたちの危機にちがいなかった。こんなに互いに互いの心と体を刻みあっても、長い空白があっという間に消し去っていくのだ。そういう不安がいつも漂っていた。しかしぼくはまた春がきて万物の芽を息吹かせるように、どんな長き月日が彼女と分け隔てようとも、ぼくは宏子を待つのだということを心に刻みこむのだった。
 横浜にもどってきたのは、彼女がロンドンに旅立つ一日前だった。ドアをあけると部屋のなかは明るかった。居間にあるステレオがチェロの重低音を部屋中に響かせていた。バッハの無伴奏チェロソナタだ。だれかがいるのだ。だれかがレコードに針をおいているのだ。ぼくのなかに恐怖のような感情が走っていった。
 あの男だった。ピアノのわきにある、彫刻をほどこした背の高い木の椅子に、その男が座っていた。ぼくのなかで消えることがなかった男だった。
「遅いじゃないか。どういうわけなんだ」
 と藤野は、ぼくたちを非難するように言った。
「ごめんなさい。とても車が混んでいたのよ」
 たしかに車がのろのろとしか進まなかった道路もあった。しかしだからといって、なぜ宏子はあやまるのだ。
「明日だというのに、なんとも呑気な話だな」
 宏子は、なにか自分の犯したあやまちを、取り繕うとしているかのようでもあった。そして藤野にわびるように、そして媚びるように、
「和也さん、こちらが実藤さん」
 そう紹介する宏子の声が、ひどくいやらしかった。和也さんと親しくよびかけたその声には、二人の濃密な関係がにじみでている。ぼくはちょっと頭を下げたが、藤野は強い視線をむけたままだった。
「君のことはちらりと聞いたよ。しかしおれは、認めたわけではない」
 なんという言いぐさだろう。この男は宏子の何様のつもりなのだ。ぼくもまた藤野に、挑むような視線をかえしていた。
 藤野と宏子が、ひそひそと話しはじめた。そしてなにやらぼくには聞かせたくない内密な話なのか、二人は居間から出ていった。猜疑と嫉妬がぐるぐると湧きたってくる。なにかいままで築き上げてきたものががらがらと崩れ落ちていくように思えた。そのころぼくたちはもう同棲同然の生活をしていて、この部屋にも入りびたりだった。しかし藤野がいると、この部屋の空気は一変してしまった。この部屋は彼のものであり、彼と宏子の愛の棲家のように思えたほどだった。
 宏子はぼくに一面しかみせなかったのだろうか。ぼくに踏み込ませないもう一つの生活があって、そこに藤野との生活があったのだろうか。そうにちがいない。彼らはまだ切れていなかったのだ。いつも感じる男の影。彼女の背後にいつも藤野の姿が、ちらちらとよぎるのをぼくはみてきた。
「実藤君、こちらにきたまえ」
 と居間にもどってきた藤野が言った。まるで彼がこの部屋の主みたいな調子だ。落着けよとぼくは自分に言った。打ち壊すのはまだ早い。そんなことはいつだってできるのだ。はやまってはいけない。なにかおれは勘違いをしているのだ。
「前から君とは、一度話したいと思っていたのだ」
 とくとくとバーボンを、もう一つのグラスに注ぎながら言った。
「そうですか」
 と言って、ぼくは彼が差し出したグラスを受け取った。
「座りたまえ」
「いや、結構です。もう帰りますので」
 沈黙が広がった。そのかたい沈黙を破ろうと、藤野はどうでもいいようなことを話しかけてきた。ぼくは、ええとか、そうですねといった相槌を打つだけだった。
 ぼくはそのバーボンを飲み干すと、ダイニングルームにいる宏子に、
「それじゃ失礼するよ」
 と声をかけて廊下に出た。すると宏子は、ばたばたとスリッパの音をさせて飛んできた。
「どうしてなの?」
 と悲鳴を上げるように言った。
「邪魔みたいだからさ」
 彼女はぎゆっとぼくの腕をつかまえると、
「ばかなこと言わないでよ」
「ちょっと仕事のことも気になるんだ。これから会社にいくよ」
「明日、あなたが送ってくれるということはどうなるわけ?」
「彼が送ってくれるんだろう。その方がいいみたいだな」
 押し止どめようとする宏子を振り払って靴をはいた。すると宏子は玄関に裸足でとびおりて、ここを通さないとばかりにドアの前に立った。
「帰ってはいけないわ」
 彼女はなにか悲壮な調子だった。しかし彼女が押し止どめようとすればするほど、ぼくのなかに怒りが立ちのぼってくる。ぼくたちはドアの前で争った。そして彼女を振りきるために力まかせに突き離すと、彼女はあっけにとられるほどどっと床にころがってしまった。いつの間にかあらわれた藤野が宏子を抱き起こすと、まるで正義の騎士のように、
「暴力はよくないじゃないか」
 と陳腐な台詞を吐いたのだ。くろぐろと渦巻く猜疑と怒りを、二人にたたきつけるような目をむけると、藤野はなんだかそんなぼくをあざ笑うように、
「おれはもう帰るんだよ、実藤君。話はもう終わったんだ」
 藤野は堅い表情のまま、しかしなにか勝ち誇ったように玄関から消えていった。ぼくは敗残者だった。藤野という男が、なにかとてつもなく大きくみえ、それだけぼくは卑しく小さく思えた。
 その夜、ぼくは荒れ狂った。全感情の暴風雨だった。いままで堪えていたものが、爆発したかのようだった。なぜあの男は、この部屋にいたのだ。なぜあの男は、この部屋に自由に入ることができるのだ。君たちの関係は少しも切れてはいない。君たちの関係は依然として繋がっているのだ。なんと卑劣な女なのだ、とぼくは吠えるように言った。
 彼女も必死だった。もうこの部屋の鍵を返してもらうわ。あの人はもう前のように自由に入ってはいけないのよ。それがよくわかったわ。彼とはよく会うのよ。それは仕方がないでしよう。研究室が同じ建物のなかにあるんだもの。彼にあなたのことを話したわ。でもあの人のなかでは、まだきちんと整理できていないみたいなの。だからあんなおかしな紹介の仕方しかできなかったのよ。だからあの人だって、そんな言い方しかできなかったのだと思うわ。
 しかしぼくのなかにたちこめた黒い霧は晴れることがなく、新しい怒りと嫉妬はとぎれることなく噴き上げてくるのだった。田島商会は、美術品やら骨董品まで手をだしていたようで、広い部屋のなかのあちこちに、いかにも値のはりそうな彫刻や陶器などが置いてあった。ぼくの投げつけたマットが、そこに飛んでいって、背の高い花瓶を直撃してしまった。その花瓶はゆっくりと落下して、派手な音をたてて、砕け散った。その花瓶はたぶん何百万もするのだ。
「ずるいわね。あなただけ」
 と彼女は言った。そしてその棚にあった鶴の首のようにのびた青磁の壺をとると、それを床に投げつけたのだった。また世界がこなごなに砕け散った。
「気持ちがいいものね。もっと割れば気が晴れるわね」
 と言って、さらにその横に置いてあった壺にも、手をかけたのだ。あわてたぼくは彼女に飛ぴついて、その壺をもぎとった。
「もういいんだ」
「よくないわ」
「二つも割れば、もう十分だよ」
「どうして十分なの。私は十分じゃないわ。あなただって十分じゃないでしょう。こんなことで気が晴れるんだったら、もっとお割りなさいよ」
 二つの世界の破壊によって、ぼくのなかで、白い牙をむいて荒れ狂っていた怒りの波は、引いていった。それにしてもなんという賛沢な破壊だろう。ぼくのアパートならば、手当り次第に投げつけたって、数万円の損害で片付くだろうにと思った。
 彼女がベッドに入ってきた。おそるおそる足をのばしてきた。ぼくは遠ざかった。彼女は手をのばしてきた。ぼくはその手を遠ざけた。また彼女は足をのばしてきた。ぼくはまた逃げた。彼女はとうとう涙声で言った。
「あなたにさわっていたいのよ」
「ぼくはさわっていたくないんだ」
「私はさわっていたいの」
 それでぼくたちはまた、愛の流れを取りもどしたのだ。彼女をぴったりと抱きしめていると、いままでぼくを苦しめていた猜疑と嫉妬の雲は、妄想なのかもしれないと思うのだ。いまぼくが愛しているその深さと同じ深さで、彼女もまたぼくを愛している。いまぼくのすべてが宏子であるように、宏子もまたぼくがすべてなのだということがわかる。そしてぼくらの別離は、ぼくらの愛を深めるために、天からあたえられた試練なのだ。ぼくも彼女もこの試練をのりきるだろう。ぼくたちは同じ強さと激しさで、互いを求めているからだとぼくは思うことにした。
 ロンドンにむかうゲートに立ったとき、ぼくはあっさりと言った。
「じゃあ」
「じゃあ」
 と彼女も言った。
「さようならって、言わなければならないわけね」
「さようならなんていやな言葉だな」
「じゃあ、また会いましょうって?」
「そいつもいやだな」
「じゃあ、なんて言うの?」
「こんにちわって言うのはどうかな」
「こんにちはって言うわけ」
「そうだ。こんにちわだ」
 彼女はちょっとためいきをつくと言った。
「じゃあ、こんにちわ」
 宏子の目から涙がこぼれ落ちる。ぼくもまた涙ぐんで、
「ぼくは君を待っている。君はぼくのところに帰ってくる人なんだ。ぼくたちはもう一人ではない。君はぼくのものだ。そのことを忘れてほしくない」
 彼女の姿が消えていった。彼女はとうとう去っていった。そのとき白い大きな虚脱感につつまれたが、またなにか一つの重い季節が終ったような不思議な解放感も訪れたのだった。


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