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戦争は女の顔をしていない

解説著者と訳者のこと   澤地久枝

 
 二○一五年度のノーベル文学賞は、ベラルーシ出身のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチにきまった。意外に思った日本人は多いのではないか。この人の名前にはじめてふれた人もすくなくないと思う。
一九四八年(日本の敗戦の三年後)、母の故郷ウクライナで生れた。育ったのは父の故郷ベラルーシである。ベラルーシはかつて、白ロシアとよばれていた。

『戦争は女の顔をしていない』は彼女の第一作である。彼女について書く前に、どうしてもふれずにはいられない人がある。ロシア語のすぐれた通訳であり翻訳者であった三浦みどりさんのこと。三浦さんは本書の訳者である。改めてその訳稿のすぐれていることを思う。わたしは一九八七年六月のシベリア再訪以来、同行通訳に三浦さんをお願いし、以来旅をかさねてきた。彼女は名前を出さず「Y」で通した。

 三浦さんはロシアに長年の友人を持ち、彼や彼女たちの病気や貧しさに心をくだいていた。彼女のテーマは迫害されている「チェチェン」であり、故郷を追われているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチであった。
 
 ベラルーシといわれて、はじめはどこなのかに見当もつかない感じだった。しかし、シベリアのナホトカ滞在中、わたしたちは土地の映画館へ通って、三時間の長篇『ざんげ』や『禍いのしるし』『キン・ザ・ザ』を肩を寄せあって見た。ロシア語はまったくダメなわたしに、三浦さんはおさえた声で会話の要点を伝えてくれる。ソ連時代であったが、この内容でよく上映されたと思う世界が画面にひろがった。

 一九三九年、ドイツ軍のポーランド侵攻により、第一次世界大戦がはじまる。一九四一年六月独ソ開戦。スターリン独裁下のソ連は、モスクワ近くまでドイツ軍に攻めこまれた。政治の失敗、絶対的独裁のツケが人びとを襲う。『禍いのしるし』の舞台はドイツ占領下の白ロシアである。ドイツ軍の暴威はおそるべきものだが、市民を襲ったのは自国の党幹部がナチスに変身し、身近かなロシア人をつぎつぎにスパイ、あるいはパルチザンとして告発したことだ。

 一夜にして旗をとりかえ、民衆の敵になって民衆を売った。初期に占領された土地は、自由になるまで(祖国の解放まで)どの土地よりも長い時間、ナチス・ドイツの跳梁下におかれた。ベラルーシやウクライナは、ドイツ軍と民衆の敵となった同胞によって踏みにじられた土地であった。「自由」などはない。戦争が終ったあと、その土地で生れ、直接には戦争を知らないアレクシエーヴィチが、ひろく女たちの証言を聞き歩き、年へて文章にまとめた背景に、この「政治」があった。

 三浦さんは『戦争は女の顔をしていない』の翻訳を終えたあと、活字にならないむなしい時問を送っている。群像社との縁は深く、彼女も出版社もよくねばったと思う。いやアレクシエーヴィチ自身、完成した原稿が出版されるまで二年間待っている。さらには『コムソモ・ルスカヤ・プラウダ』に発表した文章に対し、取材を受けた母親たちから告発され裁かれる事態もあった。

 彼女のノーベル文学賞受賞を誰よりも喜ぶはずのみどりさんは、もういない。三年前、二〇一二年十二月に亡くなっている。葬儀は多磨葬祭場であり、夜ふけて不安になるほど暗く遠い道を多磨墓地近い祭場へ行った。アレクシエーヴィチがその三年のちにノーベル文学賞をおくられると誰も思わなかったはずである。

 知りあって数年後、三浦さんは結婚して奥井みどりになっている。「どんなひと?」と聞いたら、「こういうひとと結婚したらすばらしいとずっと思っていたひと」と言う。理学方面のロシア語専攻のひとだった。
 その夜、喪主はしょんぼりしていて顔を見られない。三浦さんは手当て療法にこっていて、わたしも一度だけその「道場」に参加したことがある。告別の席には療法のリーダーの姿もあった。
「みどりさん、ひどく痩せたので心配していましたが……」
「医者へ行けと言っても、そんなこと言うなら離婚すると言われて。わたしはなにもできなくて心残りです……」
 腹部のガンたった。

 三浦さんがわたしとどんな旅をしたのか、ほんのすこし『私のシベリア物語』と『ボルガ いのちの旅』に書いた。三度目の心臓手術をひかえた。一九九四年、NHKテレビの仕事でボルガ川を訪ねたわたしは、移動中気がつくと、みどりさんの手がわたしの背中にあてられていた。わたしたちはポーランドのワルシャワ、トレブリンカ、アウシュビッツ、クラカウ、当時のチェコスロバキアへも行った。絶滅収容所といわれる人気のまったくないトレブリンカでは、細い骨がまだ点在する砂地で小さな松ぼっくりをひろい、それはいまもすぐそばにある。それは、ひとの命のはかなさを暗黙裡に語っている。

 三浦さんがわたしに示した最初の本は「アフガン帰還兵の証言──封印された真実」(日本経済新聞社)だった。
 強大な軍事力のソ連の侵攻に対して、アフガニスタンの人びとがやったテロよる抵抗と報復。約十年の侵攻はソ連軍の敗退で終るが、祖国へ帰った兵士のアフガン症候群というべき重い後遺症が描かれる。普通の市民生活にもどることができない。ある者は帰国の飛行機がでる空港の便所で首をつる。ある者は母親と一人住いの家に帰ったあと、台所の包丁を持ちだし、通行人を殺傷して平然と家へ戻ってゆく。「帰ってくる死者」は、爆発で吹き飛んだ肉片を寄せ集め、亜鉛の柩に完全密封したもの。この柩からウジが這いだし、腐臭がしたという。

 ソ連軍が敗退し、タリバン政権が政治をおこなったあと、アメリカがアフガンを攻める。ソ連の敗退はこの出撃になんの知恵ものこさなかった。アフガニスタンには、水路を作った中付哲医師が単身ふみとどまっているが、日本の政治は、中付医師の命がけの事業を顧慮することなく、旧ソ連と米軍の前轍からなにも学ぼうとしていない。アレクシエーヴィチの仕事も完全無視というのが集団的自衛権を強行採決した日本政府ということになる。二○一五年、彼女にノーベル文字賞がおくられた意義の大きさを、力をこめて言いたい。

 彼女は日本ヘ二回来ている。最初の二○○○年当時、わたしは沖縄にいて、来日を知らなかった。二○〇三年十月、二度目の訪日のとき、わたしたちは会っている。わが家へ来てくれた。小柄と言いたいおとなしい感じのひとだった。三浦さんの通訳で話し合ったのだが、「世間はわたしたちを鉄のように強い女、憎らしい女だと思っているでしょうね」とわたしたちは笑いあった。

 東京での講演会場は代々木の力タログハウスの講堂たった。アレクシエーヴィチは、彼女の「チェルノブイリの祈り』の読者たち(その多くは全国のいくつもの小さな組織だった)に招かれての来日で、カタログハウスも招へいグルーブのひとつだった。

 彼女の仕事の反対側には「国家」がある。子どもたちがかぶせられたコートのボタン穴から目にした戦争、チェルノブイリの原発事故で死んでゆく消防夫とその妻。戦争で犠牲になるのは男たちと考えられがちだが、戦闘にくわわり、戦後は戦争体験を完全黙秘しなければならなかった女たち。それが彼女の対象である。一人の証言のむこうに、男性支配の社会があり、国がある。

「戦争は女の顔をしていない」は、沈黙の壁に身をひそめて戦後を生きてきた女たちにしつこく戦争の記憶を聞く。彼女が戦後の生まれであること、そして相手の沈黙にまけない執念と勇気と情熱をもち、同時にいっしょに泣く感性をもっていることが、彼女の仕事をささえてきたと思う。戦死した祖父、パルチザン活動にくわわりチフスで亡くなった祖母、三人兄弟のうち戦後に帰ってきたただ一人の息子が彼女の父であるという戦争の「傷」をひく家庭の出身である。

 子ども時代をすごした村には、女しかいなかった。男の声は聴いたことがないという。ソ連は連合軍の一員として勝利している。しかし戦争の初期、ドイツ軍に攻めこまれたあと、十八歳以上なら男女の別なく軍務につけた。女たちが飛行士、狙撃手からパルチザンの仲間という具合に、実践の構成員であった国はほかにあるだろうか。十八歳以前、十五歳や十六歳で軍隊へもぐりこんだ少女もいる。何人かが前線ではじめて生理に出会う。生理がとまったひともあり、一夜のうちに白髪になった少女もいる。

 彼女がテープをおこし、インタビューイーに送った原稿はずたずたに削られて送り返されてくる。「戦争に関する愛国的な仕事」についての「公式報告書」をそえて。闇とたたかい、絶望することを自ら禁じて、彼女の作品は生れた。

 戦場の強列な印象としてさまざまな「音」を語ったひとがあり、「静寂」といったひとがある。そこでは、日常と非日常のさかいがなくなる。ガブガブの軍服を身につけ、祖国の大地の上で男たちにまじって、あらゆる仕事をした女たちの記憶。「戦争とは、死とは」。半世紀近く封印されてきた歴史が語られる。小説ではない。すぐれた記録であり、アレクシエーヴィチの短い文章が効果的におかれている。
 
 砲兵中隊の衛生指導員だったソフィヤはベルリンへ行きつき、国会議事堂の壁に「戦争を殺しにここまできた」と書いてサインした。何人ものソ連兵士が壁に落書き署名をしている。勝者の戦争体験だが、たてまえ絶紂でかくされてきた惨憺たる「戦争時代」が、厚いベールをひきはがされた。
 
 妹といつわって最前線の夫のもとへ行った妻がいる。『人間の條件』の梶と美千子を思わせる。上官たちは感嘆し祝福した。夫が戦傷死したとき妻は妊っていて、男の子を産む。「行方不明」の通知が来ただけで帰ってこない夫を待ちつづける妻は、女たちの「戦闘」参加はない日本で、待ちつづけた女たちを想起させる。「戦争と女」は共通の体験を通っている。
 「元捕虜」の烙印は、日本の「戦陣訓」とつながる思想のもとにある。捕虜になることは社会的抹殺を意味したのだ。

 この本の元本は群像社から出ている。絶版がつづいたあと、彼女のノーベル文学賞受賞となった。群像桂は発行人人島田進矢氏が「行商」して支えている。この本もその一部であった。島田氏がこの文庫化を喜んでいると知らされてこの原稿を書いた。


 
 

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