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わが村は美しい

 知人たちを安曇野に招くとき、彼らにさらにこの土地を愛してもらうために、臼井吉見著『安曇野』という全五巻の大作が筑摩文庫におさめられているから、せめてその最初の巻に目をとおして欲しいと言うのだった。その本を読むことによってがぜん安曇野に対するものの見方が深くなる。とりわけ新宿にあるカレー屋中村屋にそんな壮大なドラマが秘められていたのかと驚き、そしてこの地にこんな瑞々しい青春の戦いがあったことに感動するのだった。こうして安曇野のとば口を知った人々は、胸をときめかせてこの地を訪れる。あの碌山に、あの黒光に、あの中村に、あの喜源治に、あの安曇野をみおろして屹立する常念岳に出会えるのだ。

 その安曇野の一角に掘金村というのどかな田園地帯が広がっている。その村が臼井さんの生誕の地であった。堀金村は今から七年ほど前に村の中心に臼井吉見文学館をたてた。黒い甍をのせたどっしりとした日本家屋で、屋根まで吹き抜けたゆったりとした空間に臼井さんの書斎が再現してあり、原稿があり、著作がならび、アルバムがおかれ、最後の大作となった『獅子座』の資料とした蔵書がならんでいる。『安曇野』を読んだ読者には、なかなか興味を誘われる文学館であった。昨年もまた何度か友人知人を引き連れてそこに向かったが、そのたびにその館の訪問者は私たちだけというさびしい景色がそこにあった。

 人間の魂といったものを刻みこんでおこうとする記念館に、閑古鳥が泣いているという表現はふさわしくないが、しかしそこにたくさんの訪問者を期待して建てられたものである以上、やはりこれは惨状の景色といわなければならないのだろう。わずか数キロしか離れていない隣町に建つ碌山美術館が年間二十数万人もの入場者を迎えるという光景をちらりと横目で眺めるとき、この惨状はやはり深く考える必要があるのだ。友人たちはこの二つの記念館の激しい落差を、臼井吉見さんがまったくポピュラーな人間ではなかったからと分析するが、しかしそれだけではない。やはり臼井吉見文学館は泣いているのだ。

 堀金村から穂高の町にはいり、大糸線の線路をこえて駅前の大通りをまっすぐに国道に向かったところに井口喜源治記念館が立っている。臼井さんの『安曇野』のなかでもこの井口喜源治の興した研成義塾は重要な役割をしめているが、あらためてこの塾の活動を回顧した『井口喜源治』をひもといてみるとき、彼が成したあるいは成そうとした意味の大きさを思わずにはいられない。

 内村鑑三は「研成義塾はペスタロッチや中江藤樹の教育活動と同質の意味をもっている」と書き、天野貞祐は「生涯をかけて創立した独協大学の教育思想は、七十年前井口先生が心に描いていたものと通ずる」と書き、斉藤茂は「設備こそ小さく、修学の程度こそ高くないが、主義によって完成された自由独立の教育機関である。それは幼稚園から大学まで備わっていると言える。従って義塾には修業があって、卒業がない。修業は社会にまで延長し、卒業は終生に及んで人格の完成である」と書く。

 教育目的を見失っている今こそ、この記念館を訪ねる人たちの群れが続かねばならないのに、ここもまたまったく人はよりつかない。いつ訪ねても館は空っぽである。これでいいのだろうか。たとえば穂高町の子供たちはこの建物をどのように見ているのだろうか。まさかここに墓石同然のものが、あるいは現代の化石といったものがただ立っているだけだという冷ややかな視線を向けてはいないだろうか。井口記念館もまた私には泣いているよう見えるのだ。

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 いま地方にでかけるとびっくりするばかりに立派な市民ホールに出会う。田畑のなかに、あるいはさびれた町並の上に、あっと驚くばかりの斬新なデザインの建物に出会い、思わずあれはなんですかと訊くと、土地の人は市民ホールですとなんだか恥ずかしげにこたえるのだ。こういう文化施設の建設のプロジェクトが結成されたとき、この政策に参画した人たちはさぞや興奮し高揚したことだろう。沈滞し沈没していくこの地域に新しい文化をおこさんと。その文化の殿堂となるそのホールで、クラシックのコンサートや演劇やバレーなどといった田舎ではめったに見ることができない高級な文化がわが町わが村にもやってきて、そこからさまざまな文化的芸術的活動が澎湃として湧き立ってくるにちがいないと。そこから町や村が活性化されて沈滞から蘇っていくと。

 しかしいざ出来上がってみると、その興奮の活動が行われたのは、その建物のコケラ落しのときに東京から呼んだ有名人のコンサートぐらいで、あとは消防団の九十周年の記念の集いとか、代議士たちの政治報告会とか、敬老カラオケ大会とか、青色申告会主催のアトラクションつき説明会といったものが、きれぎれにほそぼそと行われるという沈滞の時間がまたやってきてしまった。新しい文化も新しい芸術も生まれなかった。町や村は少しも活性化されなかった。あたりの景観をそこなう現代の廃墟というものが、美しい田園のなかに虚く立ってしまったということだけであった。

 こういう現象をあちこちで見るとき、これは日本人の文化に対する思想が未熟などというものではなく、なにかそれ以前の問題、日本人には文化というものがほとんど分かっていないと思うばかりなのだ。文化をおこすために市民ホールをたてるという発想、あるいは文化人の記念館をたてるという発想。大きな予算をつけて斬新でモダンな建物を建てる。そのことに興奮していくのは役人と建設屋たちだけであり、燃え上がっていくのは建設業者とその業界に群がる議員たちだけではないか。もっと悪くいえば金が興奮していくのである。金にいくら興奮させたって文化などというものが生まれていくわけがない。

 もし少しでも文化というものがわかった人間が、その二十億の予算がついたプロジェクトの推進者となったなら、彼は即座にこういう指示をだすはずだった。この村にもこの町にも文化などというものはない。したがって二十億もかけて市民ホールなどというものを建設する必要などまったくない。今まで使っていた公民館をちょっと改築するか、やがて廃校になる小中学校の校舎を改造してそこに小さなホールを作ればことたりる。それで十分でありそれに要する費用はせいぜい一億か二億にとどめ、残りの十八億から十九億を全部人間たちに投ぜよという指示をだすはずだった。文化というものは人間が興奮していくことであり、人間が発情していくことなのである。人間たちを興奮させ発情させるためにその金を使うのだと。

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 よく文化の発信基地にするという言葉を散見するが、これは並大抵のことではない。ずば抜けた才能を持った人間たちの群れが必要であり、抜きんでた創造活動をする一団がその町や村に定住しなければならない。だいたい文化を起こすということ自体がなまやさいものではないのだ。その困難さというのは市民ホールを建設するなどというものの比ではない。多くの才能が必要だった。多くの情熱が必要だった。長い年月が必要だった。そして金もまた必要だった。文化を起こすには市民ホールを建設することの何百倍ものエネルギーが必要なのだ。そのことが日本人にはまったく欠落している。

 このあたりを説明していくためにハードとソフトという実に便利な概念があるが、この概念をつかってさら論をすすめていくと、文化的活動を起こすには市民ホールというハードの部分を建設すればいいのだと日本人は考えるのだ。その建物がどのように機能し運営されていくかのソフトの部分は、ハードが確立されたあとに自然についてくるという発想である。金を大量にかけるのはハードの部分であって、ソフトの部分にはその百分の一、あるいは千分の一、ときにはまったくゼロでもいいのだという発想なのだ。

 堀金村が臼井吉見文学館を建てる時に、果たしてこの建設に推わった人々はソフトの部分をちらりとでも考えたのだろうか。この館を建てたあとどのような活動を展開させていくかを。実はその部分こそこのプロジェクトの中心であるのに。彼らの頭にあったのは、どれだけの予算を組み、どんな建造物にするかなのだった。どんな遺品を集め、どんなふうに展示していくかなのだった。したがって建物が完成し、展示物を陳列したらそのプロジェクトは完了してしまった。それがすべてであった。堀金村の臼井吉見文学館づくりはソフトという言わばプロジェクトの中心の機能をまったく欠如させたまま進行し完結してしまったのだ。ソフトという中心がないのだから、いつ訪ねても文学館は空っぽだという惨状は当然のことであった。掘金村は臼井吉見という魂を立派な建物に鎮座させ封じ込めてしまった。

 碌山美術館にもまたソフトという領域の機能は何もないはずだった。しかしこの美術館には天の配剤というか美の女神がほほえんだというか、あるいはやはりそれは本物の芸術の力が生みだす草の根の力というか、実はそのソフトの部分をマスコミが担っているのだ。新聞が、テレビが、雑誌が、なんと頻繁に蔦の葉からまるあの美術館を登場させただろうか。さまざまな特集のなかで繰り返し繰り返し碌山美術館は姿をみせていく。碌山美術館はただそこに立っているだけである。しかし、それは碌山美術館とまったく無縁のものであったが、マスコミが喧伝するというソフトの領域が最高度に機能しているからこそ、全国各地から毎年二十数万もの人々をやってこさせるのだ。

 臼井さんの魂というものはその大河小説を読了しなくとも、彼の歩んできた人生をちょっとでもながめてみれば、建物のなかに祭りあげられ鎮座させておくものではないことなどすぐにわかることなのだ。もし文化というものが少しでもわかる人間がそのプロジェクトの推進者だったら、彼は即座にそんな立派な建物などいらない、どこか民家を借りうけそこを改築改造すればいいのだと判断するにちがいない。そしてその予算のほとんどを人間たちの活動に投じるにちがいないのだ。情熱と才能あふれる何人かの人間をスカウトしてきて事務局というものをつくる。そしてその事務局にかって臼井さんが手がけた『展望』のような雑誌の創刊を指示するかもしれない。あるいは安曇野に住む人々が刻み込んでいく作品を次々に刊行していくという課題に取り組むかもしれない。

 あるいはまた臼井吉見文芸賞という賞をもうけて、世に知られていない優れた刊行物や人々を表彰するという活動に取り組むかもしれない。あるいはまた定期的にその建物で世界各地からすぐれた活動を展開している人々を招いて講演会を行うかもしれない。取り組むべきことは無数にあった。臼井さんが生前なした活動もまた実に多彩であったのだ。新しい時代に、新しい世代に、臼井さんの言葉と魂をながしこんでいく方法は無数にあるのだ。その事務局は村の援護をうけて、村の資金をうけて、果敢に活動を展開していく。次第にこの文学館の存在が世に知られていき、一人また一人と才能にみちあふれた人々が集まってくる。新しい言葉をもった人間たちが、新しい地平を切り開く力を持った人間たちが。やがてこの地にまったく新しい文芸の波が起こっていく。堀金村に新しい生命がそそがれる。堀金村に新しい文化が誕生していく。臼井さんの魂を堀金村に刻みこむということはこういうことなのだ。

 村が美しくなるのは建設によってではない。いくら斬新な洒落た文化施設があちこちにたっても村は少しも美しくなりはしない。村が美しいということは、そこに住む人々がどれだけ輝いているかなのである。文化というものは人間を輝かせることなのであり、文化を起こすということは、人間の輝きで村を美しくするということなのだ。

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