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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第5章


第5章

 
 恋に落ちたぼくは、どうやらいつもしまりのない顔をしているようだった。その朝、《バオバブ》のカウンターでコーヒーを飲んでいると営業の野本から電話が入り、話があるという。それならコーヒーを飲みにこいよ、おごってやるからとぼくは言った。気前もよくなったようだった。
 野本が広告代理店の梶原を連れて入ってくると、
「なにかうれしいことでもあったのかな」
「どうして」
「いやにニヤケているからさ」
「なにやら宝籤でもあてたという面だな」
 と梶原も言った。
「そうじゃないさ。最近、おれは人生観を変えたんだ」
「おや、どんなふうに変えたわけだ?」
「この世はどうせどこまでいっても闇だよ。それならば暗くじめじめと生きるよりも、いつもにこにこと明るく生きていこうとね。どうだね、ひとつ君たちも人生観を変えてみたら」
「馬鹿も休み休み言ってくれ」
 と二人は同時に言った。
 この朝、二人には冗談の相手になるほどの余裕はなかったはずである。今朝の経済新聞がたったの十四、五行だが、都会生活社の危機をにおわせる記事を載せていた。このところ急激に広告収入が落ち込んでいて、今月などは半分も埋まっていないらしい。その記事は彼らに追いうちをかけるようなものなのだ。
 なんでもこの日はK建設に編集担当者を連れていくことになっていたが、その担当の山岡が自宅に不幸があったようで休みだった。その代わりにぼくを連れていこうということになったらしい。〈白い部屋〉というページのなかにK建設を抱きこんで広告をいただこうという企画だった。浅草にむかうタクシーのなかでも、やはりぼくたちの話題は今朝の新聞のことだった。朝からよるとさわるとこの話なのだ。
「なにやら風雲急を告げるという感じだな」
「しかしあの記事は、そんなふうには読めなかったけどな」
 と梶原はぼくらをなぐさめるように言った。
「いや、あれはもうすぐ倒れるぞというふうに読むわけだよ」
「いよいよきたなという思いだな」
「生き残るんだったらまず減量だろうな。三分の一、いやひょっとすると二分の一になる可能性だってあるぜ」
「まあ、そこからはじめることが定石だな」
「ということは、おれか実藤が消えるということだよ。確率として」
「あるいはばっさりと二人とも切られるかだ」
 とぼくは言った。
「おれは大丈夫だぜ。梶原ちゃんの会社がちゃんと拾ってくれるからな」
「うちもきびしいぜ」
 と梶原は冷たく言った。
 通りを歩く人たちの服装からくすんだ重い色が消えていた。春が訪れたのだ。春の光が車の外に乱反射していた。歩道にも、ビルにも、車の行列にも春の光が踊っていた。明るく新生にきらめく力がそこここにあふれていた。
 ぼくのなかにも光があふれていた。今夜宏子に会うのだ。ドアをあけると宏子はやっぱり飛びついてくるだろう。ぼくたちは抱擁する。激しい抱擁だ。そんな想像がぼくを熱くした。その熱い幸福を二人に分けあたえるように、
「いいんじゃないのか。倒産したって。どうせ倒れるならきれいに倒れたいね。おれたちはいくらだってやり直しがきくんだしな。見ろよ。この世にはこんなに光が満ちあふれているじゃないか」
 二人はまたほとんど同時に軽蔑の声をあげた。
 浅草に本社をおくK建設の宣伝部を訪ねると、アポをとってあるのにさんざん待たされたあげく、出てきたのが平の社員で、話をまとめるどころではなかった。担当者が事実急用で会えなかったのかもしれないが、こんなことの一つ一つがいま落ちこんでいるぼくたちにはひどくこたえるのだった。元気をだそうということになって、そこからちょっと歩いて老舗のどじょう屋に柳川鍋を食べにいった。
 昼食後二人と別れて地下鉄で神宮前にでた。青山通りに立つ青山センタービルの十三階にそのモデルクラブはあって、そのオフイスの応接室に入っていくと立原祐子はすでにふかぶかとしたソファーに座っていた。ぼくが腰を落とすやいなや、担当者に、じゃあ、はじめましょう、と声をかけた。それが彼女のやり方だった。一秒も無駄にしないという感じなのだ。
 待たせてあった四人のモデルに会ったが、ぼくが気に入ったのは二人目だった。四分の一だけヨーロッパの血が混じっているらしいが、それほど鋭角的ではなく親しみのある顔をしている。そのモデルにむかって祐子は機械的に、
「そこで、ちょっと踊りながら回ってちょうだい」
 と言った。そのモデルはしなやかにひらひらと舞ったが、祐子はあっさりともういいわと言った。
 四人目は唇の厚い、きつい目をした女だった。こういう女はぼくがもっとも遠ざけるタイプだった。
「ちょっと脱いでごらんなさい」
 祐子はそう命じたが、そのモデルは一瞬その意味がわからないようだった。
「それ、脱いでみて。あなたの下着姿をみたいの」
 もう一度叱るように言った。するとその女はきっと祐子をにらみつけたが、祐子は軽くいなすように、
「あなたね、体でお金を稼いでいるということを忘れちゃいけないわよ」
 モデルクラブの社員にもうながされて、女はふくれっつらで脱いでいったが、それはなにか祐子に挑んでいるようでもあった。その様子を祐子はじっと眺めている。彼女はカメラをよく知っていた。カメラマンの目でモデルを選ぶのだ。だから彼女が選んできたモデルが、しばしばカメラマンたちを興奮させるのだった。彼女の発掘してきたモデルが売れっ子になった例は一人や二人ではなかった。
「いいわね。あの目。なかなか刺激的でいいわよ」
「二人目もなかなかよかったじゃないか」
「だめだわ。あの子は体の線がきたないの」
 ぼくと祐子は同じ年だったが、すでに二児の母親だった。未婚の母というだけでもおやと思わせるのだが、二人の子供の父親がちがうとなると彼女をみる目も一層複雑になるのは仕方がない。そんな生き方にショックを受けたものだが、それ以上に驚かされたのは彼女の仕上げる仕事の質の高さだっだ。ぼくははじめて働く女のすごさに目をみはったものだ。彼女が受け持つページは野暮ったい「都会生活」のなかでもきわだっていて、そのページめあてに「都会生活」を買う読者がたくさんいた。そんなわけだから都会生活社は彼女の要求通りの高いギャラを払っていた。
 あるときはスタイリスト、あるときはアートデレクター、またあるときはフリーエディターと、その仕事によって肩書きを変えていくのだが、彼女のしている仕事は、そんな肩書きではちょっとらえることができない。スタッフを選び出し、撮影に要する小道具をすべて揃え、撮影当日は監督のようにふるまい、さらに仕上ってきた写真のレイアウトから色校正、そしてキャプションまで書いていく。そればかりでなくスポンサーをつけて製作費までつくりだしてくるという芸当までやってしまうのだ。小柄で、笑うとかわいい笑窪をつくり、外見からはけっしてそんなやり手の女にはみえない。しかし彼女と仕事をするとこれこそプロなのだと思うのだった。彼女を知ってからぼくの女性観はすっかり変わってしまった。
 そのビルを出ると、ぼくたちは美濃屋にいくことにした。青山通りを原宿に向かって歩いていると、彼女もやっぱり都会生活社のことが気になっているのか、
「古典的なスタイルは、なかなかのものだと思うけどな」
 と言った。
「古典的とは痛烈な皮肉だな」
「皮肉じゃないのよ。そりゃあ、どこか野暮ったいわよ。でもめったやたらに生れてくる雑誌って、ひたすらギンギンになろうとしているじゃない。そんななかで野暮ったさというのは、そのうち前衛になるはずよ。雑誌だけじゃなくてあらゆる生活の領域でね。だからそういう意味では都会生活は前衛的な雑誌なわけよ」
「ほめているのかな。それともけなしているのかな」
「両方ということかしら。でも雑誌が売れないから危ないということなの?」
「単行本も悪いんだ。すべてが悪いんだ」
「あなたを見ていると、そんなピンチに立っているなんて思えないわね」
 信号が変わって大通りを渡るとき、彼女はぼくの腕に手をまわしてきた。
「あなた少し太った?」
「いいや」
「なんだかちょっとふやけてきたという感じがするわよ」
「ふやけているとはひどいな」
 女は恋すると美しくなるというが、男はふやけていくらしい。そんなぼくを見抜いた彼女の目はさすがに鋭いと思うのだった。
 裏通りに立つビルのなかに美濃屋の宣伝部がはいっていた。祐子とそこを訪ねたのは、撮影に使う衣装を借りるためだった。部長の黒川はすぐに電話をとって秋に売り出すという新製品を運びこませた。ずらりとぶら下がった色とりどりの衣装を、祐子は迷うこともなくてきぱきと選び取っていく。
 借用書を書いていると、黒川がぼくたちをお茶に誘ったが、祐子は次の仕事があると言ってのらなかった。それが彼女のやり方なのだ。彼女はけっして喫茶店に入らなかった。それが彼女の主義だった。
 地下鉄の駅に向かう祐子と別れた黒川とぼくは、参宮通りのわさわさと繁ったけやき並木の下を、ぶらぶらと下っていった。
「あの女はやり手だな。ちょっとかなわないところがあるぜ」
「しかし仕事はできますよ。それにすごくいいセンスをもっていますからね」
「だから来年の春のキャンペーン、彼女にやらせることにしたんだ」
「そいつはすごいな。彼女ならやりますよ」
「北欧ロケをやろうと思っているんだ」
「スウェーデンあたりですか」
「うん。ちょっと軽いレッドだからな、来年の春の流行色は。それをあの渋い北欧のブルーのなかで重ねてみようと思ってね」
「いい絵になりますね」
「ところで、彼女、いまどうなんだい?」
「どうなんだって?」
「彼という存在はいるのかな」
 中年男は好色そうな目をちらりと走らせた。どうして男というのは助平にできているのだろう。黒川はもう四十半ばの男だったが、どういうわけかぼくは彼に気に入られて、何度か夜の赤坂や六本木に呼び出された。昨年の春はグラビアの共同企画、といっても撮影費用の一切は美濃屋もちでソロモン諸島にロケにいったこともある。
 背の高い観葉植物が緑の空間をつくる中庭のテーブルに腰を落とすと、黒川は急にまじめな口調になって、
「スリランカにいきたくないかね」
「どうしてスリランカなんですか?」
「金儲けだよ、金儲け。ざくざくと宝石がでてくるところがあるんだ。これはおれたちだけの知る秘密の場所だ。どうだね。おれと組んでサイドビジネスをはじめないかね」
「宝石屋みたいなイカサマ師にはなりたくないな」
「馬鹿言っちやいけないよ。イカサマ師にでもならなければ、この世では生きていけないんだぜ」
「そのご高説はもっともだと思いますが」
 コーヒーを飲みながら、そのサイドビジネスとやらを練り上げるのだが、どうせ言葉の遊びだった。夢のような話をつくりあげながら、つらい現実の抑圧から束の間自分を解放するのだ。そのコーヒーを飲み干すともう夢物語も終わりになる。
それから新宿に出て、ホテルのロビーで落ちあったカメラマンの島と、そのホテルに投宿している建築家の円城寺洋二にインタビューして四ページのグラビアを仕上げた。
 八時ちょっと前に編集部にもどってくると、部屋の雰囲気がいつもとちがっていた。タ刻から夜にかけて編集部はもっとも活気を帯びるのだが、この日は笑いがはじける喧騒はなく、ひどく緊張した雰囲気なのだ。話の輪のなかに入るとすぐにその理由がわかった。
 今朝の新聞のことで美代子と副編集長の高松とのあいだで激しい譲論があったようだ。片付けなければならない仕事は山ほどあったが、だれも仕事などに手をつけなかった。ぼくらの前途はどうなるのか。だれもが不安なのだ。あちこちで議論が沸騰すると、これが飲まずにいられようかということになって場所を変えることにした。
 神楽坂の中腹にある《げんごろう》の一角を障取ると、酒が運ばれてくるのももどかしく、第二ラウンドがはじまった。
「だいたいみんな甘すぎるのよ」
 と美代子が言った。
「こんなことになるなんて、もう何年も前からわかっていたことじやない。それなのに、なんの手も打たなかったということはどういうことなの。いつまでも啓蒙主義と教養主義。これじゃ時代に乗り遅れるにきまっているじゃない。ある人がいみじくも言ったわ。これは都会生活ではなくて農村生活だって。ずばり言い当てていると思わない。今月号だってワイン村探訪よ。これじゃ農村生活と言われたって無理ないのよ。その全身が、その全体が、泥っぽくて都会的なセンスといったものがまるでないわけ。いまだに旧態依然として教養主義と啓蒙主義を引きずっているからなんだわ」
「言えてるね。都会生活という看枚を掲げていながら、なんだか都会嫌悪というムードが全ページに漂っている。ここは人間の住むところじゃないといった、なにか都会に対する敵意のようなものがあるんだ。そんな嫌悪感が、いわゆるカントリーライフといったものに対する、あこがれを生みだしているんだろうけど」
 須藤が例によって冷たく分析する。この男は情熱のない分析屋だった。その分析に勢いをえた美代子はさらに批判の鞭をふるってきた。
「教養主義と啓蒙主義を追放しないかぎり、都会生活の明日はないわね。だいたい教養主義とか啓蒙主義なんて、いまの時代には芋みたいなものなのよ。この芋スタイルをばかみたいに守り続けているんだから、おめでたいかぎりだわ」
 令子があまりの攻撃に、もうがまんできないといった様子で異議をはさんできた。
「都会嫌悪のムードあるということは、批判精神が流れているということなんだと思うわ。それにカントリーライフに対するあこがれが流れているということは、乾いた都会のなかにオアシスをつくろうとするいわば理想の裏がえしなんだと思うけど」
「ちょっと、その理想とか精神とかいう言葉やめてくれないかな」
 と美代子は小馬鹿にした調子で言った。しかし令子はひるむどころかさらに言葉を加えた。
「都会への嫌悪と、自然へのあこがれというのは、紙の裏表でむしろ健全なことだと思うわ。むしろ私が不満なのは、中途半端なオブラードでくるんでしまうことなのよ。なにもかも甘くあいまいにしてしまうことなの。都会のかかえているさまざまな問題を、もっと鋭くえぐっていくことが必要なのよ。それが足りないと思うの」
「そういう議論をきくと絶望的になるわね。それこそ都会生活を傾かせてきた思想ということになるのよ」
 美代子の言ってることは、なにも目新しいことではなかった。そのことはいつも編集会議で議論されることだった。しかしこの夜の美代子の言葉には、鞭が飛ぶような鋭さがあって、ちょっと口をはさむのもはばかれるほどだった。
「諸悪の根源は活字教なのよ。まず私たちがしなければならないのは活字信仰を捨てることからなんだわ。都会生活社には、活字教の信者がわんさかとはびこっているわけ。その雑草によって滅んでいくんだから」
「そんな単純な問題じゃないと思うわ」
 と、美代子とそりが合わずに、しばしば感情むきだしの対立になる児玉則子が割ってはいった。すると美代子はまるで則子にかみつくように、
「単純なことじゃないの。こんな単純なことがわからない単純な感性に私は絶望するわけ」
「本屋さんがバタバタと倒れたら、その単純な論理を認めてもいいわよ」
「あなたね、本屋さんに入って、売れてる本を手にしてごらんなさいよ。想像力があればすぐわかることだわ。活字ではなく、活字的じゃないものが売れているわけよ。活字がひたすら活字でなくなろうとしている本が売れているのよ。文体も変わってきているわね。文体そのものが活字を捨てようとしているのよ」
「あなたのようなコピーライター的体質をもった人にはそう思えるでしょうよ。あなたがみているのはただの風俗なの。すぐに消えていく泡なのよ。本質的なものとはなんの関係もないわ」
「そういう議論をきくと、もうなにも話す気がなくなるわね。児玉さんのような本質論者が、都会生活を追いつめているってことが、どうしてわからないのかな。そのことに気づかなければなにをやってもだめね」
 この夜、佐伯も村田もおし黙ったままだった。なにか美代子の攻撃に裁かれているようだった。実際今夜の美代子は、死刑執行人のような迫力があったのだ。この暴力を許すことはできない。ぼくはとうとう口火を切ってみた。
「活字教という宗教を捨てることなんかできやしないよ。出版社というのはいわば活字教によって成り立っているわけだから。その宗教を生みだしているのが人間の魂なんであって、だから活字が危機に瀕しているということは、人間の精神がまた衰弱しているということを語っていることだと、ぼくは思うけどな」
「その魂とか、精神とかいう言葉、やめてくれないかな。その種の言葉をきくとジンマシンができるのよ」
「やめないね。ジンマシンだらけになってもやめないぜ。活字の問題は精神の問題なんだから」
「じゃあ訊くけど、精神があるとするならばよ、なぜ活字なの。活字でしか精神とやらがつくれないわけ? 冗談じゃないわよ。いまの子たちの精神のかたちというのは、とっても感覚的じゃない? 視覚的で、聴覚的で、肉体的なの。それは彼らの精神が、そんなものがあるとすればよ、活字とは全然別のところでつくられているからなのよ」
 それからぼくと美代子は、口角泡をとばしてやりあった。どうみてもぼくのほうが分が悪かった。彼女のくりだすパンチに何度もダウンをくらったのだ。彼女の言ってることは、いままでたびたび耳にしたことばかりだった。しかしこの夜あらためてきく彼女の言葉には、なにかぼくたちがいままでわからなかった、ぼくたちが考えている以上の深い意味を宿しているように思えるのだった。新しい血液が必要なのであり、都会生活を全面的に刷新しなければならないといつも議論されているようなものではなく、新世代が旧世代を打ち倒す新生の叫びといったものでもあるかもしれないと思うのだった。
 遅くなるといつも令子と同じタクシーに乗る。彼女の自宅が田園調布にあり、綱島街道にむかう途中で落としていけるのだ。そのタクシーのなかで美代子から受けた傷をさするように、
「あいつ、今夜はあれだったのかな」
「あれって?」
「つまり女性だけに訪れるやつだよ」
「どうしてそう思うんですか」
「あれはヒステリーの一種だよ」
「生理になればヒステリーになるっていうわけ?」
「単純かな」
「単純というよりも、安っぽい偏見。女をもっときちんとみなさい」
「きちんとみているつもりだけどな」
「美代子さんが、一番試実なのよ」
「あれがなんで誠実なんだ」
「あの人が一番ショックを受けているのよ。だってあの人が一番大きな危機感を抱いているんですからね。美代子さんって、炭鉱に運びこまれたカナリアかもしれないわ」
「そういうことかな」
「でも、これからどうなるのかしら」
「案外、あの話は本当かもしれないな」
 あの話とは、ある新興の出版社がわが社を乗っ取ろうとしているというのだ。今朝のその記事だって、そのあたりから流されてきた陰謀の一種というのだ。
「そんなことってあるのかしら」
「倒産するよりもいいと考える人間もいるよ」
「許せないわ、そんな屈辱的なこと。もしそんな事態になったら私たちは戦うべきよ。屈辱的な妥協よりも、むしろ倒産したほうがいいんだわ。そう思わない?」
「そう思うね。敗れるとわかっていても、戦わなければならないときがあるんだよ」
 車は大通りから住宅街に入っていった。令子の家はもうすぐだった。
「ちょっと寄っていかない」
「ありがとう。でもまた君のお母さんに叱られるよ」
「あら、母は実藤さんのファンなのよ」
「今夜は帰るよ」
 そう、と彼女はちょっと落胆したような調子で言った。車が止まった。いつもからかうようなしぐさも笑顔もなく、なにか寂しげな表情でぼくを見送った。令子はこれからぼくが宏子と会うことがわかっているのだろうか。女の勘というもので。するとなにか落胆したような寂しげな表情はいったいなんなのだ。うぬぼれかもしれなかったが、ちょっとした罪悪感のようなものが走ってきた。
 しかし大倉山が近づくと、令子のことも都会生活のこともすべて消え去った。宏子がぼくのアパートにきているのだ。
 ドアが開くと、宏子は両腕をぼくにまきつけて、痛いほどしめつけた。あたたかい宏子、にくらしい宏子、逃げていく宏子。しかしぼくの宏子だった。下肢をとかしあうように畳の上に落ちると、熱い息をからませてぼくたちはたわむれた。
「もう帰ってこないかと思ったのよ」
「雨が降ろうが、槍が降ろうが、君のところに帰ってくるさ」
「あなたってどこからにきたの?」
「君はどこからきたんだ?」
「いまでも信じられないの。あなたは嵐のなかからきた幻の人」
「ぼくもそう思うよ。君はどこからきたんだろうってね。君はこの世の果てから、ぼくのためにやってきたんだ」
「もうあなたはこないのかもしれないって思うのよ。だから金曜日はとても怖い日なの」
 あふれる愛、あふれる性。野卑で乱暴なぼくの手は、すべすべした彼女のどこにでもはいりこもうとした。
「ねえ、忘れていることがあると思わない」
「なにを忘れたんだ」
「私のおなかからっぽなのよ」
「そんなことどうでもいいよ」
「どうでもよくないわ。あなたに食べてもらいたいものがあるのよ」
「もう我慢できないんだ」
「ちょっとだけ我慢すればいいのよ」
「君はしたくない」
「したいわよ。とてもしたいわ。でも夜は逃げていかないわ」
「君はもうどこにも逃げていかないんだな」
 彼女は全身でこたえていた。どこにも逃げはしない。私はあなたのものだと。しかしそれは嘘だった。彼女はぼくの腕のなかにいたが本当の彼女はぼくの腕のなかになどいないのだ。
「愛している?」
「愛しているわよ」
「本当に愛している?」
「どうして愛してないと思うわけ」
「愛していると十回言えよ」
 彼女はその陳腐な言葉を、愛のやさしのなかであえぎながら言った。
「愛しているって、百回言えよ」
 宏子はまだその白い頂上をぼくに明け渡していない。彼女はまだぼくに征服されることを拒んでいるのだ。ぼくはもう彼女のものだった。彼女がいなければ夜も昼もあけない。もし愛にルールというものがあるならば、彼女だってぼくに躓かなければならないのだ。彼女は来月イギリスにいってしまう。それは愛の蕾をむしり取ること、愛の木を引き裂くに等しいことではないか。どうしてそんなことが許されるのだ。新しい不安と憎しみがわいてきたぼくは、
「愛しているって千回言えよ」
 と言った。
 ぼくのアパートは小高い丘の中腹にあって、登る朝日が真っ直ぐ差しこんくる。朝の光りのなかでぼくたちはまた愛しあった。新しい朝がぼくたちの愛の行為を新鮮にさせる。彼女は高みにたった歓喜の声をあげ、ぼくは怒りと歓喜の性を彼女の全身をつらぬくようにほとばしらせるのだった。
 ぼくの部屋はそれこそ乱雑をきわめていた。その部屋を彼女は見違えるばかりにきれいにしてくれる。あちこちに散らかしてあるシャツやら下着やら靴下やらも洗擢してくれる。いつも冷蔵庫にはたっぷりと食糧が入っていた。ぼくは健康になっていく。彼女はとても家庭的な女だった。
 ぼくの部屋はダイニングルームと六畳の部屋が一間あるきりだった。ダイニングルームに小さなテーブルがおいてあった。そこでぼくたちは遅い朝食をとった。トーストとトマトジュートとミルクとそれにベーコンエッグ。小さな幸福のひとときだった。幸福とは、こんな小さなひととき、ひとこまにあるのではないかと思った。一杯にあけはなった窓から心地よい風が吹きこんでくる。小さなベランダには白い洗濯物が春の陽光を浴びてはたはたと翻っていた。
 あたたかい陽ざしに誘われて散歩にでた。このあたりにはまだ雑木林が残っていて、やわらかい新緑の葉が目を洗うようだった。坂を上がり、またゆるく曲がった坂を下っていった。空地があり、うるさく繁る雑草のなかにタンポポやアザミやノゲシが素々とした花を咲せていた。行き交う人たちがぼくたちにうらやましげな視線をなげて通りすぎていく。そんな些細なことがぼくを幸福にさせる。
 駅にでると電車で自由が丘にでた。日曜の繁華街はいままでのぼくには無縁の世界だった。しかしいまはちがう。ぼくはもう一人ぼっちではなく宏子がぼくのかたわらにいるのだ。繁栄と幸福のさざめきのなかにぼくたちもとけこんでいった。
 明るい喫茶店でコーヒーを飲みケーキを食べてから、レコード店に入りバッハとエルトン・ジョンのレコードを買った。その取り合せが奇妙ねと彼女は笑ったが、ぼくはエルトンは現代のマタイ受難曲を書いているのだと言ってやった。
 その夜、ぼくは彼女のためにレバーとニラの中華風いためという料理を作ることにしていた。宏子が貧血ぎみだと言ったので、ぼくはレバーの効用を説き、レバーというのがいかに安い素材でしかも美味なものかを強調したのだ。ときどきぼくはビールのつまみにそれを作る。いわばそれはぼくの十八番であった。なんのことはない。十八番の押し売りだった。
 テーブルの上に仕入れてきた豚のレバーやニラや竹の子やきくらげをひろげて、科理づくりはじめようとしたとき、どうでもいいことから喧嘩になってしまった。そのときぼくは、どうせ君は来月イギリスにいってしまう女なんだと言ってしまったのだ。
「そうよ。来月イギリスにいってしまうのよ」
「そうだ。君にとってこんなままごと遊びみたいなことは仮の時間なんだ。君は男から男に渡り歩くみたいに、世界を渡り歩いていく女なんだ」
 ぼくのなかにうず高く積もっている不安と猜疑を吐き出すように、彼女を罵った。ぼくのあまりの剣幕に黙りこんでしまった彼女が、ぼくの怒りの間隙をつくように、
「私たちやっぱり無理だったのよ」
 と投げ捨てるように言ったのだ。そのことがぼくをさらに怒らせた。ぼくの不安がどんなに深いか、宏子には少しもわかっていないのだ。それなのに彼女はさらに、さらりとなにもかも投げ捨てるように言った。
「出ていかなければならないってわけ」
「出ていけばいいじゃないか。さっさと出ていけよ」
 すると彼女は出ていってしまった。
 慌ててあとを追いかけていくなど男のすることではない。ぼくが悪かった、戻ってきて欲しいなどと懇願するのは、みっともないことだと自分に言ってみた。しかし五分も耐えられなかった。外に飛び出すともう一心に走りだした。これで彼女を失うのかもしれないと思うと、ぼくは走り続けた。走っても走っても彼女に追いつかなかった。とうとう駅まできてしまった。そこにも彼女はいなかった。あきらめきれないぼくは改札を抜けてホームに出てみた。
 宏子はベンチにしょんぼりと座っていた。ぼくもその横に座った。電車が入ってきた。ドアが宏子にむかって、乗りなさいとでもいうように開いた。しかし宏子は腰をあげなかった。ぼくたちはまるで他人のように黙りこんで座っていた。また下り電車がやってきた。ドアが手招きするように開いた。
「そこの人、乗らないの?」
「乗らせたいわけ?」
「そうじゃないさ」
「乗れといっても、乗らないことに決めたの」
「じゃあ、帰ろうよ」
「ここにもう少し座っていたいのよ」
 ぼくは彼女を抱きよせた。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙をぼくのシャツでぬぐうように顔をおしつけてきた。泣き虫の宏子、やさしい宏子。やわらかい宏子。ぼくの胸はしめつけられるように痛んだ。
「不安なんだ。とても不安なんだ。いってほしいくないんだよ。いってはいけないんだ」
 とぼくは言った。


 
 

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