見出し画像

私の主戦場ニューヨーク  草間彌生

画像1


信じるものは自分の才能と努力だけ

 ニューヨークで家賃の安いロフトをアトリエとして借りて、制作に明け暮れる日々が始まりました。日本を出る前に想像していたより物価はずっと高く、苦労して持ち込んだドルは目に見えて減っていき、まだ何の手がかりもつかめないまま極端な貧困へと落ちていきました。でも日常の食物、絵の具とカンバス代はどうしても確保しなければならない。さらに移民局の旅券の問題や、病気などいくつもの問題が私を襲ってきます。

 アトリエの窓ガラスは破れ放題で、道に捨ててあった戸板をベッドにし、ニューヨークの厳しい寒さの中で毛布一枚しかない暮らしでした。体の芯まで冷えて腹痛を起こし、眠れないから起き上がって絵を描くのです。それよりほかに空腹と寒さをしのぐ方法が無く、2日くらい食事もとらずに描き続け、めまいがしたら休むだけ。友人からもらったしなびた数個の栗や、魚屋のくず箱から拾ってきた魚の頭で毎日の飢えをしのぎながら、自分の命に代えても、終生芸術家としての道を立ち上げたいという思いで胸がいっぱいでした。

 わびしくなると、私はエンパイアステートビルに上がりました。摩天楼から見下ろす絢爛とした夜景は、あらゆる可能性と野望の登竜門に思えて体中の血が「芸術の革命」への決意で熱くなり、空腹さえ忘れることが出来たのです。私は自分の創造性と努力というものに対して自信を持っていましたから、どのような指導者にもっかず、ただ一人で辛苦をなめながらも、自分の芸術は自分自身で開拓していきたかったのです。

水玉一つで立ち向かう

 倒れる直前のような創作生活に我を忘れている頃、信じられないことにジョージア・オキーフが私を心配してニューヨークのアトリエを訪ねてくれました。初めて会うオキーフは、老齢の堂々とした威厳を感じさせる芸術家でした。困窮している私に、 ニューヨークではなく彼女の住むニューメキシコに来てはと誘ってもくれたのですが、「競争が熾烈だからこそ、このニューヨークで闘いたい」という覚悟はゆらぎませんでした。

 私にとっておびただしい水玉で表現する作品は、私自身を作る粒子であり生命なのです。一つひとつの水玉を反転した網の目の集積で宇宙の無限を予言し量りたいという願望がありました。今までの絵画の世界にあった絵の構成を無視し、中心が無く、果てしない水玉の反復で表現する「無限」です。渡米してから2年後の1959年秋、私は念願のニューヨークで最初の個展にこぎつけ、著名なニューヨーク派のリーダーたちの画室が並ぶ画廊街の真ん中で「無限の網」を展示しました。

 私はこの作品に自分の全てを賭けました。ピカソでもマチスでもない、草間彌生。美術の歴史に反旗をひるがえすのだと。個展は大反響を呼び、美術界はこの私の表現を受け止めてくれました。独学だったからこそ、誰の影響も受けることなく独自の道を開拓できたと評価されたのです。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?