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日本歴史学の最高傑作 石井進


 石母田正著「中世的世界の形成」は平安時代から室町時代まで四世紀余の間、伊賀国南部の山間地に存続した黒田庄という一庄園の歴史をたどりながら、古代から中世への日本史の大きな流れを描き出すことに成功した、日本歴史学の最高傑作の一つである。庄園(荘園とも書かれるが、古代・中世の原資料では庄も荘も相通じて用いられていたので、本書での用法にしたがい、以下も庄園の字を用いる)というと、歴史教育の場でも難解だとして、とかく敬遠されがちのようである。まして庄園史の専門書であり、戦後日本の古代・中世史学界に圧倒的な声価をかち得た本だといえば、なおさらかも知れない。しかし本書は決して無味乾燥な、いわゆる専門学術書ではない。「庄園の歴史は私にとって何よりもまず人間が生き、闘い、かくして歴史を形成してきた一箇の世界でなければならなかった」との、序文の一節だけでも、それは明らかである。

 全体は四章に区分され、章の表題には、藤原実遠、東大寺、源俊方、黒田悪党と、この地域に大きな足跡をのこした個人や集団の固有名詞がえらばれている。東大寺は別として、他は高校の日本史教科書などには登場しない、いわば無名の人物である。だが本書を一読されれば、日本の古代から中世への転換期を生き、歴史をつくりあげた人びとの典型として、彼らの姿はながく読者の胸中にやきつけられることになろう。

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 さて平安時代の中葉、伊賀岡に二十八ヵ所もの所領をもち、国内の人民を従者として召使っていた藤原実遠という大領主があった。彼は「当国の猛者」であり、国内の所々に田屋を立てて直接経営を行っていた。しかし独立性をつよめつつあった農民は、直接経営にかり出されることを嫌って逃亡したため、実遠の経営はついに破綻してしまう。広大な所領を列記した実遠の譲状(ゆずりじょう)の最後の、「年老乱の間、或いは荒廃、或いは牢籠」の一句には、いかにも「鋭意経営に努めた先祖相伝の所領が荒廃してゆくのを見る傲岸な老人の晩年の感懐がそこにこめられているように」感じられるのである。

 実遠の没落のあと、この地に進出してきたのが、南都の東大寺であった。西に接する大和との国境地帯に板蠅杣(いたばえのそま)とよばれる杣(材木を切り出すための私有の山林)を所有していた東大寺は、実遠や子孫たちの持っていた所有権を買い取ったり、また寄付させて、十二世紀前半には付近一帯を黒田庄として支配することに成功する。そして伊賀の国衙(国を支配する役所)と争論をくり返しつつ、東大寺をはじめ田地二十余町の黒田庄をついに田地二百余町の大庄園にまで拡張してしまうのである。その際、東大寺のふりかざした主張は、黒田庄の原型である板蠅杣の杣工たちは、元来、寺に奉仕する寺奴(じぬ)なのだから、彼らの耕作地はすべて寺のものである、との論理であった。著者はこれを「寺奴の論理」とよび、東大寺の古代的支配者としての本質を物語るものとして重視している。人物でいえば、平安時代末、「雄弁と政治的才幹、強力と仮借しない統治」によって、黒田庄支配の危機を解決した南都の悪僧覚仁(かくにん)こそ、東大寺の支配を代表する一人であろう。

 この頃、黒田庄の現地には、中世のにない手である領主=武士団が相次いで成長してくるが、覚仁の敵手として数回にわたって戦いを交えた名張郡司源俊方は、その最有力な一人であった。しかし南都の悪僧たちの武力を動員した覚仁の前に、俊方は結局敗北してしまう。以後、源平の内乱期にかけて、何人かの武士がこの付近で活動するが、いずれも東大寺の支配をゆるがすに至らず、敗北をくり返すのである。

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 第三章までに登場してくる印象的な人物の動きをふり返りながら、本書くの大体の骨組をたどってみた。それにしても本書のハイライトはどこであろうか。私は躊躇なく第四章黒田悪党の、とくに終末の節をあげたい。鎌倉時代中期以後、庄内の武士団を中心としてはじまった東大寺への反抗運動は、それから数十年もつづく。いわゆる黒川悪党であるが、守護など幕府勢力の導入によって、南北朝期にようやく一応、鎮圧される。

 ほぼ同じ時代、諸国庄園で数多く蜂起した悪党のなかでも、黒田庄のそれは歴史家の間でもっとも著名な存在である。すでに大正時代、黒田悪党に注目した中村直勝氏も「悪党なるものは、実際悪人ではなく、荘民の味方であり、荘民の利益を計ったものであったのだらう」と評価している。

 本書でも第四章のみで全体の半ば近い頁数を占めているところからも、著者の黒田悪党に対する強い関心が推察される。しかし著者の悪党観は、決して中村氏のように甘いものではない。著者は悪党が庄民と協同し、その利益をはかった側面をみとめつつも、その「倫理的な頽廃と庄民全体から切離された行動の孤立性」をきびしく弾劾する。そして悪党の頽廃は偶然のものではなく、腐敗堕落した古代的支配者東大寺のもとに、長期間、外部から遮断されてきた小世界においては、むしろ必然的な結果であったと強調するのである。

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 「政治は一方的関係でなく相互的であり、庄民自身が寺家の統治を承認しなければその統治は存続することは出来ない」、そして「歴史的に与えられた社会的機能をすでに果し終えた一箇の統治形態が存続しようとする場合、その統治手段は頽廃的となり、統治者は道徳的に腐敗するということは歴史の教える必然的現象であるが、しかしこの現象は単に統治者の内部の問題にとどまらない」、「庄民は統治者の頽廃を多かれ少なかれ分かち持たねばならない」のである。「在地においてはすでに村落と武士の対建的秩序が確立していたにかかわらず、彼らの祖先が東大寺の寺奴であった数百年以前の事実を唯一の根拠として、彼らを寺家進止(じけしんし)の土民として支配していること自体のなかに、東大寺の政治のあらゆる頽廃の根源が存在した。

 黒田庄の世界を支配していたものはこの頽廃以外にはない。政治の頽廃以上の道徳の頽廃を端的に表現するものがありうるであろうか。庄園史家は、それが庄民に及ぼした道徳的感化について、かつて一言も費すことをしなかった。清水氏は『日本中世の村落』で、寺家の支配に対して中世村落が如何に純潔に自己を護ったかを示されたが、それを語る前に村落が組織されている具体的な世界を、単に文化的にでなく政治的道徳的に理解すべきであった。統治者の道徳が、人民の自身の道徳として転化されないとすれば、人間の歴史はより単純に、より苦悩少なきものであったであろう。黒川庄民の負担したものは所当と課役のみではない。庄民は道徳的頽廃をも一部分東大寺と分ち合わねばならなかった」こうした文章のなかに著者の立場は鮮明である。

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 かくして「黒田悪党はけっして東大寺のために敗北したのではない。東大寺は自己の力では悪党に一指も染めることが出来なかった。黒田悪党は守護の武力に敗北したのではない。‥‥黒田悪党は自分自身に敗北したのである。板蠅杣の寺奴の血と意識が、中世の地侍の中から完全に消え去っていたとは誰もいい切ることは出来ない。子々孫々同一土地において同一支配者を戴き、同一の神仏を礼拝する場合、数世紀は数十年に等しいのである。地侍が悪党であることをやめ、庄民がみずからを寺家進止の庄民であると考えることをやめない限り、古代は何度でも復活する。‥‥永享(えいきょう)十一年この起請文によって復活した古代世界は、外部からの征服のない限り存続しなければならなかったであろう。‥‥われわれはもはや蹉跌と敗北の歴史を閉じねばならない。戸外では中世はすでに終り、西国には西欧の商業資本が訪れて来たのである」との本書の印象的な結びに到達するのである。

 本書を通じて描き出された黒田庄の歴史はまことに暗鬱である。古代的支配者たる東大寺の前に在地から成長した中世は幾度も戦いをいどみ、しかも敗北と蹉跌をくり返す。「歴史的に与えられた社会的機能をすでに果たし終えた統治形態」の永続、「古代の再建」がつづくのである。その暗黒と対比すべく、黒川庄外部に成立した「中世的世界」の叙述はまた見事に晴朗である。そして最後には、歴史の進歩を象徴するかのような「西欧の商業資本」に言及しつつ、読者への強い呼びかけをふくむ結びの言葉が現われる。黒田庄の歴史が暗鬱であればあるほど、この呼びかけは鮮烈である。では著者が本書を通じて語りたかったこと、読者に伝達しようとしたメッセージの真の意味は一体何だったのか。

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