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拳銃を口にくわえ、君の頭を吹き飛ばすのだ

  この記事に目を落としていたとき、ふと彼にあるシーンがよぎってきた。そのとき彼は熊本拘置所に拘置されていた。その彼に毎週羽田から飛行機に乗って、差し入れの衣類や食料などを携えて面会にきた鏑木七海の像が。七海が洋治に面会できたのは、彼女が婚約者だと申告したからだった。それは彼女の捏造だった。あるときその捏造を事実にするために、彼女はこう持ちかけてきたことがあった。

「私ね、獄中結婚というものにあこがれているのよ。婚姻届けにあなたの拇印に押せば、それでもう成立するらしいの。申請してみましょうか」
その日に差し入れたなかにその書類が入っていた。そこにはすでに彼女の印が押されていて、そこに彼の拇印を押せばその婚姻は成立したのだった。しかし洋治はその拇印を押さなかった。翌週、面会室にあらわれた彼女にこう言った。

「君の気持はとてもうれしい。どんなに君に励まされているか言葉にできない。しかしおれはいま幸福になってはいけないんだ。これからしなければならぬ仕事がある。幸福になったらその仕事ができなくなる」
 
 そのとき七海はその仕事とは、不当逮捕された彼の容疑を晴らすことだと思ったに違いない。いまでも七海はそのときのことをそう思っているに違いない。彼はその仕事をだれにも話していない。彼は単純な人間ではなかった。彼は一発の弾丸が闇を切り裂く音を聞いた人間なのだ。その一発の弾丸を聞き取るまでやり抜くという鉄の意志と、その銃声を耳にしたいという暗く激しい情熱に秘めた人物だった。

 もう遠い過去のことだった。彼が開発した翻訳ソフト《オディセイ/ODYSSEY》を九十億円で売却した。しかしその金の大半が消えてしまった。使いこんだ手塚の行方を追っているとマカオのホテルに滞在していることがわかった。洋治はマカオに飛び、闇の社会でリヴォルバーを手に入れると、手塚をレンタカーに乗せて森の奥につれていった。そしてリヴォルバーの弾倉に一発の弾丸を送り込み、手塚にそれを渡すとこう言った。

「こいつは友人としてのおれの贈物だ。君の心も体もギャンブルという魔物に食いちぎらてのたうちまわっているんだよな。そんな君を救い出すにはたった一つの方法しかないはずだ。この拳銃を口にくわえて、ギャンブルという悪魔が住みついている頭を吹き飛ばす。それしか君が救われる道はないと思っているんだ」
 洋治はそう言いおいて手塚にそのリボルバーを渡すと、手塚一人をその森のなかに残して彼は車で立ち去った。

 熊本拘置所のアクリル板で仕切られた面会室で、彼が七海に告げた出所したらやらなければならぬ仕事とは、再びそのリボルバーを手にすることだった。あのとき洋治は彼を貶めたその工作の全貌をすでに知っていたのだ。霞が関から投函された四通の手紙によって。発信者は彼を慕う文科省の同僚だった。拘置所では手紙はすべて検閲される。だからその手紙は寒中見舞いといった文面の下に巧妙に情報が縫い込められていた。

 熊本の地で寺田が主導した教育改革は、小さな反乱といったものではなかったのである。その教育改革を学ぼうと日本各地から視察団や研修団が熊本県を訪れる。この動きはなにやら日本各地に伝播するような勢いになっていた。文科省はこの反乱を鎮圧せんとさまざまな圧力をかける。熊本県の教育課長を何度も霞が関に呼び出し、寺田が繰り出していく政策に徹底的に抵抗するよう行政指導をする。その指導に応じなければさまざまな補助金を打ち切ると脅迫する。

 しかし教育改革を推進する熊本県知事は、国会議員から打って出た知事だった。政権党である自民党中枢と太いパイプをもち、ときの文科省大臣とも親密な関係だった。そういうバックグランドがあったから、文科省から繰り出されるさまざまな圧力を振り払い、逆に文科省に対して逆襲していった。文科省の危機だった。この地方の小さな反乱によって教育体系が崩壊していく危機。そして再び文科省内部に権力闘争が生起し権力構造が逆転するという危機が。

 寺田は久永事務次官(彼は東工大卒、旧科学技術庁出身だった)が形成していった改革派のエース的な存在だった。守旧派が久永を打ち倒して、台頭する改革派に一撃を加えたとき、このエースを霞が関から永遠に追放するとばかりに遠隔の地に飛ばした。その人物が熊本県で行っている教育改革を結実させ霞が関に凱旋してくれば、制圧されていた改革派が一挙に息を吹き返して、大きな潮流となって守旧派に襲いかかってくるだろう。改革派の逆襲がはじまる。潮流が逆転する。守旧派の危機だった。切迫した危機感を抱く守旧派は、このエースを熊本の地で憤死させるプロジェクを組み立て、そのプロジェクトの指揮をとったのが山際という審議官であり、大臣官房の須藤だった。

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