見出し画像

ワーニャ伯父さん 第二幕      アントン・チェーホフフ

「ワーニャ伯父さん」は、「森の主」を改作した戯曲であるが、前作では自殺することになっていたワーニャを、絶望の中で生きつづけさせるように改めたことによって、作品の主題はいっそう明確になったといえる。四十七年間すごしてきた自分の一生がまったく無意味なものだったことに思いいたったワーニャの絶望は、限りなく深い。だが現実は、それでもなお生きつづけてゆくことを要求するのである。

同じことは姪のソーニャについてもいえる。六年間ひそかに、熱烈に慕いつづけてきたアーストロフヘの愛が、一瞬のうちに打ちこわされ、彼女もまた絶望につきおとされる。しかし、ソーニャは言うのである。「でも、しかたがないわ、生きていかなければ!」と。

ソビエトの演出では、チェーホフが信じた「新しい未来』を強調するあまり、ソーニャのこの台詞をリリカルにうたいあげるのであるが、これはそんなロマンチックなものではない。二十三歳の若い娘が、現実にぶちあたって絶望したあと、それでもなお生きてゆかねばならぬことを自分自身に言いきかせる、健気というよりはむしろ悲愴な言葉の奥に、人生に対するチェーホフの考えが読みとれるのである。

第二幕

セレブリャコフ家の食堂……夜……庭で夜番が拍子木を打つのがきこえる。

 セレブリヤコフ〔開け放した窓の前の肘掛椅子に腰かけて、まどろんでいる〕とエレーナ〔そのわきに坐り、やはりまどろんでいる〕

 セレブリャコフ  〔目をさまして〕だれだね、そこにいるのは? ソーニャかい、え?
エレーナ  あたしよ。
セレブリャコフ  あ、レーノチカか……痛くてやりきれんよ!
エレーナ  膝掛けが床に落ちていますわ。〔両足をくるんでやる〕窓を閉めるわね、アレクサンドル。
セレブリヤコフ  いや、息苦しいんだ……今うとうとしたら、左足が他人のものみたいな夢を見たよ。ひどい痛みで目がさめたんだ。いや、これは痛風じゃないな、むしろリューマチだよ。今、何時だね?
エレーナ  十二時二十分よ。〔間〕
セレブリヤコフ  明日の朝、書庫でバーチュシコフを探してくれんか。たしか、あるはずなんだ。
エレーナ  え?
セレブリヤコフ  明日の朝、バーチュシコフを探しておくれ。うちにあったと思うんだよ。それにしても、どうしてこんなに息が苦しいのかな?
エレーナ  お疲れなのよ。これでふた晩、寝ていないんですもの。
セレブリヤコフ  ツルゲーネフは痛風が原因で狭心症を起こしたそうだよ。そんなことにならなきゃいいがね。老年てのはいまいましい、厭なものだな。いまいましいこった。年をとったら、われながら自分がうとましくなったよ。それにお前たちだってみんな、きっと、わたしを見るのがうとましいだろうな。
エレーナ  年の話をするのに、まるでご自分が年をとったのがあたしたちみんなのせいみたいな口ぶりをなさるのね。
セレブリヤコフ  お前なんぞまっさきに、このわたしが厭だろうな。
  〔エレーナ、席を離れ、少し遠くに坐り直す〕
セレブリャコフ  もちろん、お前が正しいのさ。わたしだってばかじゃないから、わかるよ。お前は若いし、健康で、美しくて、精いっぱい生きたいと思っているのに、わたしは年寄りで、しかばねも同然の身だからね。仕方がないじゃないか? わたしにわからんとでも思うかね? そりゃもちろん、これまでわたしが生きてきたのは愚かしいことさ。しかし、もうちょっとの辛抱だよ、もうすぐお前たちみんなを解放してやるさ。これ以上生き恥をさらさにゃならんのも、そう永いことはあるまい。
エレーナ  あたし、疲れてしまうわ……おねがい、黙って。
セレブリャコフ  要するに、わたしのおかげでみんなが疲れはてて、気を滅入らせ、若さを滅ぼしているのに、一人わたしだけが人生を楽しみ、満足しているってことになるんだな、うん、そうだろうよ、もちろん!
エレーナ  やめて! うんざりだわ!
セレブリャコフ  みんな、うんざりしてるよ。もちろんだとも。
エレーナ  〔泣き声で〕堪えられないわ! ねえ、おっしゃって、あたしにどうしろと言うの?
セレブリャコフ  別に。
エレーナ  だったら、黙ってちょうだい。おねがいするわ。
セレブリヤコフ  おかしな話だね、イワン・ペトローウィチなり、お袋さんみたいな年寄りのばか女なりが話す分には、いっこうかまわんで、みんなが拝聴しているのに、このわたしが一言でも口をきくと、とたんにだれもがわが身の不幸を感じはじめるなんて。わたしの声まで、うとましいのかね。たとえ、わたしという人間がうとましくて、エゴイストで、暴君だとしてもだ、この年になってまで、多少のエゴイズムの権利も持てないんだろうか? それだけの値打ちはないというわけか? 伺いたいもんだね、いったいわたしには、安らかな老後や、人々の親切をねがう権利なんぞないんだろうか?
エレーナ  だれもあなたからそんな権利を取り上げようとなんかしていませんよ。〔窓が風でハタハタ鳴る〕風が出てきたわ。窓を閉めるわね。〔窓を閉める〕今にも雨になりそう。だれもあなたからそんな権利を取り上げようとしてないじゃありませんか。
 〔間。庭で夜番が拍子木を打ち、歌をうたう〕
セレブリヤコフ  これまでの生涯ずっと学問のために働きつづけて、書斎や、教室や、立派な同僚たちに馴れ親しんできたのに、突然、これといった理由もないのに、こんな墓穴に放りこまれて、毎日毎日ばかな連中を眺めたり、下らん会話をきかされたりするなんて……わたしは実のある生き方をしたいんだ。わたしが好きなのは立身出世だ、名声や世間の評判が好きなんだよ。それなのにここの生活ときたら、追放されたも同然じゃないか。しょっちゅう過去を思って嘆いて、他人の業績を見守って、死を恐れて……我慢できんよ! やりきれたもんじゃない! その上ここでは、年寄りのわがまま
え許そうとしないんだから!
エレーナ  もうちょっとよ、辛抱なさいな。あと五、六年すれば、あたしもお婆さんになるわ。
 〔ソーニャ登場〕
ソーニャ  パパ、ご自分でアーストロフ先生を呼べとおっしゃったくせに、先生が見えたら、診察を断わるなんて。デリカシーがなくってよ。いたずらに人騒がせをしただけじゃないの……
セレブリヤコフ  お前のアーストロフとやらなんぞ、何の役に立つね? あの男は医学のことなんか、わたしの天文学と同じ程度しか理解しとらんよ。
ソーニャ  パパの痛風のために大学の医学部をそっくりここへ呼ぶわけにはいかないのよ。
セレブリヤコフ  あんな神がかり行者みないな男とは、口もききたくないよ。
ソーニャ  それじゃご勝手に。〔腰をおろす〕あたしはどうだっていいんですから。
セレブリヤコフ  今、何時だね?
エレーナ  一時近いわ。
レブリヤコフ  息苦しい……ソーニャ、テーブルの上の水薬をおくれ!
ソーニャ  はい。〔水薬を渡す〕
セレブリヤコフ  〔苛立たしげに〕ああ、これじゃないよ! ものも頼めんのだから!
ソーニャ  おねがいだから、わがままを言わないでちょうだい。ことによると、そういうのが好きな人だっているかもしれないけれど、あたしはごめんだわ、やめてちょうだい! あたしはそんなの嫌いなの。それに、そんな暇もないし。明日は早起きしなければならないもの。草刈りなのよ。
 〔ガウン姿のワーニャ、蝋燭を手にして登場〕
ワーニャ  外は嵐の気配だ。〔稲妻〕ほらきた! エレーナさんもソーニャも、行って寝なさい。交替に来たんです。
セレブリヤコフ  〔おびえたように〕いや、やめてくれ! この人と二人きりにせんでくれ! いかんよ。この人のおしゃべりで疲れちまう。
ワーニャ  しかし、彼女たちを休ませてあげなけりゃいけませんよ。これでふた晩、眠らないことになりますからね。
セレブリャコフ  寝に行かせりゃいい。しかし、君も行ってくれたまえ。恩に着る。おねがいするよ。かつての友情のためにも、反対せずにさ。話はあとにしようじゃないか。
ワーニャ  〔嘲笑して〕かつての友情か……かつての、ね……
ソーニャ  やめて、ワーニャ伯父さん。
セレブリャコフ  〔妻に〕ねえ、お前、わたしをこの人と二人きりにしないでおくれ。この人のおしゃべりで疲れちまうよ。
ワーニャ  こうなると、むしろ滑稽だね
  〔マリーナ、蝋燭を手にして登場〕
ソーニャ  寝ればよかったのに、ばあや。もう遅いのよ。
マリーナ  食卓のサモワールが片づいてませんもの。おちおち寝てもいられませんよ、
セレブリャコフ  みんな眠れずに、疲れきっているというのに、一人わたしだけが幸福に酔っているわけか。
マリーナ  〔セレブリャコフのそばに行き、優しく〕どうなさいました、旦那さま、痛みますか? このわたしも、両足がそりゃずきずきうずきましてね。〔膝掛けを直してやる〕旦那さまのこのご病気は昔からですものね。ソーネチカのお母さまの、亡くなられたヴェーラ・ペトローヴナも、よく、幾晩も寝ないで、ご苦労なさってましたっけ……旦那さまをとても愛してらっしゃいましたものね……〔間〕年をとると子供と同じで、同情してくれる人が欲しいのに、年寄りになんぞ、だれも同情してくれせんもの。〔セレブリヤコフの肩に接吻する〕さ、お寝床に参りましょう、旦那さま……参りましょう……菩提樹のお茶を飲ませて進ぜますよ、足を暖めてさしあげましょう……旦那さまのために神さまに祈ってさしあげましょう……
セレブリヤコフ  〔感動して〕行こう、マリーナ。
マリーナ  わたし自身も、両足がそりゃずきずきと痛むんですよ! 〔ソーニャといっしょに教授を連れてゆく〕ヴェーラ・ペトローヴナも、よく、ご苦労なさって、いつも泣いておいででしたっけ……ソーニュシカ、あなたはあの頃まだお小さくて、あどけなくて……さ、お歩きになって、旦那さま……
  〔セレブリャコフ、ソーニャ、マリーナ退場〕
エレーナ  あの人のお相手で疲れはててしまったわ。立っているのがやっとなくらい。
ワーニャ  あなたは彼のお相手で、僕は自分自身のお相手で疲れはてましたよ。これでもう三日目ですからね、眠れないのが。
エレーナ  この家はめちゃくちゃよ。あなたのお母さまはお得意の文庫本と教授以外のものはすべて憎んでらっしゃるし、その教授はいらいらして、あたしを信じてくれないで、あなたをこわがってるわ、ソーニャは父親につんけんするし、あたしにもつんけんして、あたしとはもう二週間も口をきかないのよ。あなたは夫を憎んでいるし、ご自分の母親を大っぴらに軽蔑してらっしゃる。あたしはいらいらして、今日なんか二十回くらい泣きだしそうになったほどよ……この家はめちゃくちゃだわ。
ワーニャ  哲学はやめましょうよ!
エレーナ  イワン・ペトローウィチ、あなたは教育のある聡明なお方だから、わかってくださるに違いないと思いますけど、この世界が滅びるのは、泥棒や火事によってじゃなく、憎しみだの、敵意だの、すべてこうした下らぬいざこざからなんですわ……あなたの仕事は、愚痴をこぼすことじゃなくて、みんなを仲直りさせることでしょうに。
ワーニャ  手はじめにこの僕を僕自身と仲直りさせてみてください! ねえ、エレーナ……〔彼女の手の方に身をかがめようとする〕
エレーナ  おやめになって! 〔手をひっこめる〕あっちへいらしてください!
ワーニャ  もうすぐ雨はあがるでしょう、そして自然界のすべてがすがすがしくよみがえって、軽やかに息をするのです。ひとり僕だけは、雷雨もよみがえらしてはくれない。僕の一生は失われて二度と返らないんだという思いが、昼も夜も心にとりついて僕を苦しめるんです。僕には過去ってものがないんだ。下らないことにばからしく浪費しちまいましたからね、それに現在もまた、その愚かしさたるやひどいもんですよ、これが僕の人生と僕の愛情です。僕はこいつをどこかへ始末すりゃいいえでしょう、こいつをどうすりゃいいです? 僕の感情は、穴の中にさした陽の光みたいに、むなしく滅びてゆくし、僕自身も滅びてしまうんですよ。
エレーナ  あなたが愛情の話をなさると、あたし、どうしてか鈍感になってしまって、何を言ったらいいのか、わからなくなりますわ。ごめんなさい、何も申しあげられませんわ。〔行こうとする〕おやすみなさい。
ワーニャ  〔行手をさえぎって〕同じこの家の、僕の隣で、もう一つの人生が、あなたの人生か滅びつつあるんだという思いに、僕がどれほど悩み苦しんでいるか、あなたに知っていただけたら! あなたは何を待っているんです? どんないまいましい哲学があなたの邪魔をするんですか? わかってください、ね、わかってください!
エレーナ  〔まじまじと彼を見っめる〕イワン・ペトローウィチ、あなた酔ってらっしゃるのね!
リーニャ  かもしれません、あるいはね……
エレーナ  ドクトルはどこ?
ワーニャ  あっちです……僕の部屋に泊まってますよ。かもしれない、あるいはね……どんなことだって、ありうるんです!
エレーナ  今日もお飲みになったのね? 何のために?
ワーニャ  少しは人生らしくなりますからね……邪魔しないでください。エレーナ!エレーナ  前には決してお飲みにならなかったし、一度だってこんなにあれこれお喋りなさらなかったのに……もう行っておやすみなさいな。あなたといると気が滅入るわ。
ワーニャ  〔彼女の手の方に身をかがめようとしながら〕ねえ、エレーナ……僕の素敵な人!
エレーナ  〔腹立たしげに〕あたしにかまわないでください。こうなるともう嫌らしいわ! 〔退場〕
ワーニャ  〔一人〕行っちまった……〔間〕十年前、俺は死んだ妹のところで、よく彼女と顔を合わせたもんだったな。あの頃、彼女は十七で、俺が三十七か。なぜあの頃、彼女に恋をして、プロポーズしなかったんだろう? 大いにあり得る話だったのに! そうすりゃ、今頃、彼女は妻になってたかもしれないんだ……そうすりゃ、今頃二人とも嵐で目をさまして、彼女が雷におびえると、俺がこの腕にしっかり抱きしめて、「こわくないよ、僕がついてるからね」って、ささやいていたかもしれないし。ああ、すばらしい考えだな。実に素敵だ、笑えてさえくるよ……しかし、冗談じゃない、頭の中で考えがこんがらがってきたぞ……いったい何のために俺が年をとったというんだ? なぜ彼女は俺の気持をわかってくれないんだろう? 彼女のレトリック、引込み思案なモラル、世界の破滅なんていう他愛ない引込み思案な考え……あいう点がすべて俺には、心底からしゃくににさわるんだ。〔間〕ああ、俺はひどく騙されていたもんだな! あんな教授を、あのみじめな痛風病みを崇拝して、あいつのためにあくせく働きつづけてきたんだから! 俺とソーニャとでこの領地から最後の一しずくまで搾りあげてきたんだ。まるで成金の百姓みたいに、植物油だの豌豆だの、ヨーグルトだのを商って、自分たちは食うものを切りつめてまで、一カペイカニカペイカの小銭で何千ルーブルもかき集めちゃ、あいつに仕送りしてきたもんさ。俺はあいつを、あいつの学問を誇りにしていたし、それを生き甲斐にもすれば、その誇りに充ちあふれてもいた! あいつの書くもの、語るものすべてが、俺には天才的と思えたもんさ……どっこい、それが今じゃどうだい? ああして退職してみりゃ、今やあいつの一生の総決算がまる見えじゃないか。あいつが死んだって一ページの仕事も残りゃしないさ。あいつはまるきり無名だし、何者でもないんだ! シャボン玉みたいなもんじゃないか! 俺は騙されていたんだ……はっきりわかる、ひどく騙されていたんだ……
 〔アーストロフ、チョッキもネクタイもせぬフロック姿で登場。酔っている。そのあとから、ギターをかかえたテレーギン〕
アーストロフ  弾けよ!
テレーギン  みなさん、おやすみですよ!
アーストロフ  弾けったら!
  〔テレーギン、小さな音で爪弾く〕
アーストロフ  〔ワーニャに〕一人か? ご婦人方はいないのかい? 〔腰に手をあてて、小声でうたう〕「小屋も揺れろ、ペチカも揺れろ。あるじはどこにも寝られない……」嵐で起こされちまったよ。凄い雨だな。今、何時だい?
ワーニャ  知るもんか。
アーストロフ  なんだか、エレーナ・アンドレーエヴナの声がきこえたような気がしたけどな。
ワーニャ  今しがたここにいたもの。
アーストロフ  華麗な女性だな。〔テーブルの上の薬壜を眺めまわす〕薬か。ありとあらゆる処方がそろってらあ! ハリコフのもあるし、モスクワのも、トゥーラのも……あの痛風にゃ、どこの町もうんざりしてるよ。あれは病気なのかい、それとも仮病かね?
ワーニャ  病気さ。〔問〕
アーストロフ  どうして今夜はそんなに沈んでるんだい? 教授が気の毒なのか、え?
ワーニャ  放つといてくれよ。
アーストロフ  でなけりゃ、ひょっとして、教授夫人に恋でもしたか?
ワーニャ  彼女は親友さ。
アーストロフ  もうかい?
ワーニャ  その「もう」ってのは、どういう意味だい?
アーストロフ  女はこういう手順をふまなけりゃ、男の親友にはなれないもんなのさ。つまり、最初は友達、それから恋人、そのあとが親友ってわけだ。
ワーニャ  俗物の哲学だな。
アーストロフ  なんだって? うん……認めにゃならんけれど、僕も俗物になりつつあるね、ほら、酔払いもするし。たいてい、月に一度はこんなふうに飲みすぎるんだ。こういう状態にある時は、とことんまで厚かましく破廉恥になるね。こういう時には何だって平ちゃらさ! いちばんむずかしい手術だって手がけて、みごとにやってのけるし、この上なく広大な未来の計画を立てたりもする。こういう時にはもう、自分が変人とは思えないで、人類に莫大な利益をもたらしていると信じこんでいるんだよ……莫大な利益をだぜ! こんな時には、自分独自の哲学体系ができあがって、君らみんなが僕には虫けらか、細菌みたいに見えてくるのさ。〔テレーギンに〕弾けよ、ワッフル!
テレーギン  あんたのためなら心から喜んで弾きたいところだけれど、わかってくださいよ……みんな寝てるんですよ。
アーストロフ  弾けったら?
  〔テレーギン、小さな音で爪弾く〕
アーストロフ  一杯やらにゃいかんな。行こうや。僕らのところにまだコニャックが残ってたはずだよ。そして夜が明けたらすぐ、僕の家へ行こうじゃないか。いだろ? うちの助手はね、「いいだろ?」とは決して言わずに、「いだろ?」って言うんだよ。ひどいインチキ野郎でな。じゃ、いだろ? 〔入ってくるソーニャを見て〕失礼、ネクタイもしないで。〔足早に退場。テレーギン、あとを追う〕
ソーニャ  まあ、ワーニャ伯父さん、また先生と深酒なさったのね。意気投合しちゃって、どちらもお若いこと。でも、先生はいつだってああだけど、伯父さんはどうして? 伯父さんの年で、そんなの全然似合わなくってよ。
ワーニャ  年なんてこの場合関係ないよ。本当の人生がないとすりゃ、幻で生きるはかないさ。何もないよりはとにかくましだからな。
ソーニャ  乾草は全部刈り終わったけれど、毎日雨つづきで、みんな腐りかけているというのに、伯父さんは幻なんぞにかかずらってるのね。仕事をすっかり放りだして……働くのはあたし一人で、力もつきはててしまったわ……〔びっくりして〕伯父さん、涙をうかべたりして!
ワーニャ 涙? 別に何でもないよ……下らんことだ……お前は今、亡くなったお前の母さんみたいな目で僕を見たね、可愛い子だ……〔彼女の腕や顔をむさぶるようにキスする〕俺の妹……可愛い妹……彼女は今どこにいるんだ? 彼女に知ってもらえたらな! 彼女が知ってくれたら!
ソーニャ  何を? 何を知ってくれたら、とおっしゃるの、伯父さん?
ワーニャ  つらいんだよ、苦しいんだ……何でもない……いずれな……何でもないよ……僕はもう行くよ……〔退場〕
ソーニャ  〔ドアをノックする〕ミハイル・リヴォーウィチ! おやすみじゃありません?ちょっと、すみません!
アーストロフ  〔ドアの向うで〕はい、今! 〔しばらくして出てくる。もうチョッキとネクタイをつけている〕何のご用でしょう?
ソーニャ  もしお厭でなかったら、ご自分はいくらお飲みになってもかまいませんけど、おねがいですわ、伯父さんには飲ませないでください。身体に毒ですから。
アーストロフ  わかりました。今後もう飲まぬことにしましょう。〔間〕わたしは今すぐ家に帰ります、決意も固く、ですよ。馬車の支度をしているうちに、もう夜も明けるでしょう。
ソーニャ  雨が降ってましてよ。朝までお待ちになれば。
アーストロフ  雷雨はそれてますよ、端をかすめる程度でしょう。行きます。それから、どうか二度とお父上の診察にわたしを呼ばないでください。わたしが痛風だと言えば、お父上はリューマチだとおっしゃるし、寝ているようにわたしが頼んでも、起きてらっしゃるんですから。今日なぞ、まるき
りわたしと口をきこうとなさいませんでしたよ。
ソーニャ  わがままなんですわ。〔食器棚の中を探す〕何か召しあがりません?
アーストロフ  そうですね、いただきましょうか。
ソーニャ  あたし、夜中にちょっといただくのが好きですの。戸棚に何かあるはずですわ。父はこれまで女の人にとてももてたそうですから、女の人たちが甘やかしてきたんですわ。チーズ、いかがですか。〔二人、食器棚のわきに立っまま、食べる〕
アーストロフ  今日は何も食べずに、もっぱら飲んでましたよ。お父上は気むずかしい性格ですね。〔食器棚から酒壜をとりだす〕いいですか? 〔グラスに注ぐ〕ここにはだれもいないから、率直に言えますがね。いや、僕はこの家ではひと月と暮らせそうもありませんね。ここの空気で息がつまっちまうと思いますよ……お父上は痛風と書物にすっかりのめりこんでいるし、ワーニャ伯父さんは抑鬱症だし、おばあさまといい……
ソーニャ 毋が、なんですの?
アーストロフ  人間てのは何もかもが美しくなければいけないんです。顔も、服も、心も、考えも。お母さんは美しい人だ、文句なしにね、しかし……あの人はただ、食べて、寝て、散歩して、あの美しさでわれわれみんなをまどわせて……それ以外には何もないんですよ。あの人には、しなければならぬ仕事なんて何一つないし、ほかの人たちがあの人のために働いているんです……そうでしょう? 無為徒食の生活が清らかなはずはないんですよ。〔間〕もっとも、ことによると、僕の態度はきびしすぎるかもしれませんね。僕もワーニャ伯父さんと同様、生活に満足していないんです。だから二人とも不平屋になってゆくんですよ。
ソーニャ  先生は生活に満足してらっしゃらないんですか?
アーストロフ  概して生活そのものは好きなんですが、われわれの生活、田舎の、ロシア的な、俗物的な生活は堪えられませんし、心の底から軽蔑しますね。僕自身の私生活はどうかと言や、本当のことを言って、いいことなんぞまるきり何一つありゃしません。だってね、暗い夜に森を歩くのでも、かりにそのとき遠くに灯りがかがやいていたら、疲れも、暗闇も、顔を打つちくちくする小枝も、気にならないもんです……僕はあなたもご存じのように、この郡内でだれにも負けぬくらい働いてます。運命は休むことなく僕を打ちすえるし、時には堪えきれぬほど悩むこともあります、だけど僕の行手には灯りがないんですよ。僕はもう自分のためになんか何一つ期待していないし、人間を愛してもいません……もうずっと以前から、だれも愛しちゃいませんよ。
ソーニャ  だれも?
アーストロフ  だれも。ある種のやさしい気持をいだけるのは、お宅のばあやに対してだけです……昔からのよしみでね。百姓たちはひどく単調で、遅れていて、不潔な暮らしをしているし、インテリと調子を合わせてゆくのは大変ですしね。インテリには疲れますよ。みんな気立てのいい友人ではあるんですが、考えることもみみっちけりゃ、感ずることもみみっちくて、目先のことしか見えないんです。ばかの一語につきますよ。少し頭のいいしっかりした連中は、ヒステリックで、分析癖と反省とに悩んでいるし……そういう連中は文句ばかり言って、憎んだり、病的な中傷を言ったりするし、横から人に近づいて、横目で眺めては、「ああ、これは精神異常だ!」とか、「こいつはハッタリ屋だ!」とかと決めつけるんです。僕の額にどんなレッテルを貼りつけていいかわからないと、「こいつは変り者だ、変人だ!」と言うんですからね。僕が森を愛するのも変わってるし、肉を食べないのも変わってるってわけです。自然や人間に対して、じかに、純粋に、自由に接する態度なんて、もはやないんですよ……そう、ありませんとも! 〔酒を飲もうとする〕
ソーニャ  〔それをさえぎって〕だめ、おねがいです、やめて。これ以上お飲みにならないで。
アーストロフ  どうして?
ソーニャ  そんなの、先生らしくないんですもの! 先生は垢ぬけてらして、とてもやさしい声をしてらっしゃるわ……それ以上です、あたしの知っている人のうちには一人もいないくらい、先生は素敵な方です。それなのになぜ、お酒を飲んだりカードをしたりする、ありふれた人みたいになろうとなさるんですの? ね、そんなことなさらないで、おねがいです! 人間はものを創りださずに、天から与えられたものを破壊するだけだって、先生はいつもおっしゃってるじゃありませんか、それなのにどうして、なぜ自分自身をこわそうとなさるんですか? いけない、いけないわ、おねがいです、おねがいしますわ。
アーストロフ  〔女に片手をさしのべる〕もう飲みません。
ソーニヤ  約束してください。
アーストロフ  約束します、
ソーニャ  〔彼の手を強く握る〕ありがとう!
アーストロフ  もうやめます! 酔いもさめちゃった。ほら、もうすっかりしらふだし、死ぬまでこれで通しますよ。〔時計を見る〕それじゃ、話をつづけましょうか。僕が言ってるのは、僕の時代はもう終わってしまって手遅れだってことなんです……年をとったし、働きすぎて、俗物になって、人間らしい感情はすべて鈍ってしまったから、たぶん、もう人に心を惹かれなくともすむでしょう。僕はだれのことも愛していないし……これからももう愛すことはありますまい。僕の心をまだ捉えるものがあるとしたら、それは美しさです。美しいものに対しては僕だって無関心じゃありませんよ。かりにエレーナ・アンドレーエヴナがその気になったら、一日で僕の頭をのぼせあがらせることができると思いますね……それは愛じゃないし、恋でもないんです……〔片手で両目をおおい、身をふるわせる〕
ソーニャ  どうなさいましたの?
アーストロフ  いや……復活祭の前に僕の患者が、クロロホルムの麻酔中に死んじゃったんです。
ソーニャ  そのことはもうお忘れになっていい時分ですわ。〔間〕うかがいたいことがあるんですけど、ミハイル・リヴォーウィチ……もし、あたしに仲のいい女の友達なり、妹なりがいるとして、その人が……まあ、かりに先生を愛しているってことをお知りになったら、先生ほどうなさいます?
アーストロフ  〔肩をすくめて〕わかりませんね。きっと、どうもしないでしょう。その人を好きにはなれないってことを、わからせてあげたいですね……それに、僕の頭をふさいでいるのはそんなことじゃないし。それはとにかく、帰るとしたら、もう時間だ。さようなら、お嬢さん、でないと、この調子じゃ朝まで話がつきそうもありませんからね。〔握手する〕さしつかえなければ、客間をぬけて行きます、さもないと伯父さんにつかまるのがこわいから。〔退場〕
ソーニャ  〔一人〕何も言ってくださらなかったわ……先生の魂と心は相変わらずわたしには隠されたままだけれど、どうしてあたし、こんな幸せな気持なのかしら? 〔幸福のあまり笑い声をたてる〕あたし、先生に言ってしまったわ……先生は垢ぬけていて、上品で、とてもやさしい声をしてらっしゃるって……とってつけたようにひびかなかったかしら? 先生の声がふるえて、やさしくこの耳をくすぐっているわ……ほら、この空気の中に先生の声が感じられる。でも、妹の話をしたのに、先生わかってくださらなかった……〔手を揉みしだきながら〕ああ、あたしが不器量だってことが、やりきれないわ! やりきれない! 不器量だってことくらい、自分でもわかっているもの。ちゃんと知っているわ……この前の日曜日だって、教会からみんなで出ようとした時、あたしの噂をしているのがきこえたもの、どこかの女の人が言っていたわ。「あの子は善良で、気持が大らかだけれど、気の毒にあの器量ではね」だなんて……不器量だもの……
 〔エレーナ登場〕
エレーナ  〔窓を開ける〕雨はやんだわ。なんて素敵な空気かしら! 〔間〕ドクトルはどこ?
ソーニャ  お帰りになりました。〔間〕
エレーナ  ソフィ!
ソーニャ  はい?
エレーナ  いったいいつまで、あなた、あたしに怒った顔をしているつもり? お互い、何の恨みもないのに。なぜあたしたちが仇同士でいなければいけないの? いいかげんにしましょうよ……
ソーニャ  あたしもそう思ってたんです……〔彼女を抱きしめる〕怒るのはもうたくさんだわ。
エレーナ  それがいいのよ。〔二人とも心をたかぶらせて〕
ソーニャ  パパは横になられて?
エレーナ  いいえ、客間に坐ってらしゃるわ……あたしたち、まる何週間もお互いに口をきかずにいたわね、それも、何が原因かもわからずに……〔食器棚が開いているのを見て〕どうしたの、あれ?
ソーニャ  ミハイル・リヴォーウィチがお夜食をあがったんです。
エレーナ  ワインもあるわね……仲よしの乾杯をしましょうよ。
ソーニャ  しましょう。
エレーナ  一つのグラスでよ……〔注ぐ〕この方がいいわ。じゃ、つまり、仲よしってわけね?
ソーニャ  そう。〔飲んで、接吻を交す〕あたし、ずっと前から仲直りしたかったんだけど、なんとなく気がとがめていたの……〔泣く〕
エレーナ  何を泣いているの?
ソーニャ  別に。ただ何となく。
エレーナ  さ、もういいの、もういいのよ……〔泣く〕ばかね、あたしまで泣いたりして……〔間〕あんたは、あたしが打算でお父さまと結婚したみたいにとって、それで怒っていたのね……誓いを信じてくれるなら、誓ってもいいけれど、あたしは愛情で結婚したのよ。あたしは、学者で有名人だったあの人に惹かれたの。その愛は本物じゃなくて、まがいものだったけれど、あの頃のあたしには本物のように思えていたわ。あたしの罪じゃないのよ。でもあんたは、あたしたちが結婚したそもそもの最初から、その利口そうな疑いの目であたしをたえず非難しつづけていたわ。
ソーニャ  あら、平和条約でしょう! 忘れましょうよ。
エレーナ  そんなふうに見ちゃいけないわ……あんたには似合わないもの。あらゆる人を信じなければ。さもないと生きてゆけないわ。〔間〕
ソーニャ  ねえ、親友として正直に教えて……今、幸せ?
エレーナ  いいえ。
ソーニャ  それはわかっていたの。もう一つ質問ね。率直に答えて。若い旦那さんだったらいいな、と思う?
エレーナ  あんたって、まだ子供ね。もちろん、思うわよ。〔笑う〕さ、ほかに何かきいてごらんなさい、早く……
ソーニャ  ドクトルは気に入って?
エレーナ  ええ、とても。
ソーニャ  〔笑う〕あたし、ばかみたいな顔をしてるでしょう……ねえ? 先生はもう帰ってしまったのに、あたしにはまだ先生の声や足音がきこえるの。あの暗い窓を見ると、先生の顔があそこに見えるのよ。全部言わせて……でも、そんな大きな声では話せないわ、恥ずかしくて。あたしの部屋に行って、あそこで話しましょうよ。あたし、ばかみたいに見えるでしょ? 白状なさいな……あたしに先生のことを何か話して……
エレーナ  何を?
ソーニャ  先生って頭のいい方だわ……何でも心得てらっしゃるし、何でもおできになるんですもの……治療もなされば、森も植えるし……
エレーナ  問題は森だの医学だのじゃないのよ……ねえ、いいこと、あれは才能なの! 才能って何を意味するか、知っていて? 勇気と、自由闊達な頭と、振幅の広さをいうのよ……一本の木を植えるのにも、それが千年後にどうなるかを今からもう予測して、あの人の心には人類の幸福がもう思い描かれているんだわ。そういう人ってめったにいないから、大切にしてあげなければね……あの人はお酒を飲むし、時々ぞんざいになることもあるけど、それがどうだっていうの? 才能豊かな人は、このロシアでは、身を清くしてはいかれないのよ。あのドクトルの生活がどんなものか、あんたも考えてごらんなさいな! 足も踏みこめないぬかった道、きびしい寒さ、吹雪、途方もなく遠い道のり、粗野で野蛮な百姓たち、どっちを見ても貧乏と病気ばかりだし。毎日毎日働いてたたかっている人が、そんな環境の中で、四十近くまで身を清く、正しく保っているなんて、むずかしいことよ……〔娘に接吻する〕あたし、心から、あんたの幸せをねがってるわ、あんたは幸せに値する人ですもの……〔立ち上がる〕あたしは陰気くさい脇役……音楽の世界でも、主人の家庭でも、いろいろなロマンスでも、どんな場合にも、一言で言えば、あたしは脇役でしかなかったのよ。本当のことを言うとね、ソーニャ、よくよく考えると、あたしってとても、とても不幸な女よ! 〔興奮して舞台の上を歩きまわる〕あたしにはこの世の幸せはないんだわ。ないのよ! 何を笑っているの?
ソーニャ  〔顔をおおって笑う〕あたし、とっても幸せ……幸せだわ!
エレーナ  ピアノを弾きたい……今なら何か弾いてみたいわ。
ソーニャ  弾いて。〔彼女を枹く〕あたし、眠れないもの……弾いて!
エレーナ  今弾くわ。お父さま、眠ってらっしゃらないもの。病気の時には、あの人、音楽に癇癪を起こすのよ。行って、きいてきてよ。かまわないっておっしゃったら、弾くから。行ってきて。
ソーニャ  すぐ行くわ。〔退場〕
  〔庭で夜番の拍子木〕
エレーナ  ずいぶんピアノも弾かなかったわ。ピアノでも弾いて、泣いてみよう、ばかみたいに泣くことだわ。〔窓の外に〕エフィム、お前かい、拍子木を叩いているのは?
夜番の声  はい!
エレーナ  叩かないでちょうだい。旦那さまのお加減がよくないから。
夜番の声  すぐ向うへ行きますから! 〔口笛を吹く〕おい、ジューチカ、来い! ジューチカ! 〔間〕
ソーニャ  〔戻ってきて〕だめですって!


 原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。

 原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?