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人生の冬眠   高尾五郎

      1

「私は子育てに失敗しました、母親失格なんです」
 森尾裕子と名乗る母親は、なにか苦しみの深さを吐き出すようにそう言った。智子はそんな母親に手を差しのべるように、
「たかだか、お子さんが学校にいけなくなったぐらいで、そんなに自分を責めるのは間違いではありませんか」
 と言ったが、裕子はさらに、
「あの子を生むときさんざん迷ったんです、迷って、迷って、迷った末に生まれてきた子でした、その思いがずうっとあとまで尾をひいて、何度もあの子は生んではいけなかったのだと、あの子にたいする罪の意識がずうっとあったんです」
 智子ははじめて耳にする言葉だった。だからおうむ返しに、
「罪の意識ですか?」
「ええ、それはあってはならないことだと思いながら、心の底にずうっとわだかまっていて、それがあの子をこんなふうに追いつめてしまったんじゃないかと」
「その罪の意識ってなんなんでしょうか、生んではいけなかった子供を生んでしまったといったことなんですか」
「うまくいえませんが、罪の意識というか、それは憎しみといったものかもしれません」
 それもまた智子がはじめて耳にする言葉だった。
「憎しみですか?」
「ええ、そんなものが私のなかにあったというか」
「子育って大変手のかかるものですよね、子供につらく当たったりすることだってあります、ときには子供がとても憎くなることもあります、でもそうやって母親たちは子育てをしていくんじゃないでしょうか、憎むことだって愛情の一つではないんですか」
「そういっていただけると少し心が軽くなりますけど、でも私がずうっと抱いていたのは、母親としての愛情というよりも憎しみだったんです、それは佐織にはよくわかっていて、小さい頃からあの子は私によくたずねました、あたしが嫌いなんでしょって、あたしなんかいなかったほうがよかったんでしょうって」
 この母親はなにかただならぬことを話している。なにかただならぬことをこの母親は心の底に秘めている。そのただならぬことのために、それをどのように表現していいかわからないのだと智子は思った。智子は質問をかえてみた。
「あの、森尾さんのお母さまはご健在ですか」
「ええ、静岡で兄夫婦とくらしています」
「森尾さんの子供時代はどうだったんでしょうか、お母さまとの関係はうまくいってたのでしょうか」
 子供との関係が壊れていく父母たちの内側をみていくと、その父母たちが彼らの子供時代にまったく同じ体験をしているという事実にたびたび出会ってきた。たとえば父親を金属バッドで殴打した貴之親子もそうだった。貴之の父親は父親の暴力を浴びて育ってきた。同じことを自分の子供にもしていたのだ。あるいは仁の母親もそうだった。彼女の母親は彼女を一流の学校に入れるために、鯨尺の定規でびしびしと叩きながら深夜まで学習させた。そんな子育てをした母親を深く憎悪しているのに、自分の子供にまったく同じことをしていた。負の連鎖というものが続いていくのだ。智子はそんなことを探るための問いだった。しかし森尾はその問いに、
「四人姉妹でしたが、私は二番目の子供で、それは私のひがみだけではなく、そんなことって子供にはわかりますよね、母の愛情って花に水をかけることだとすると、いつも姉にいっぱい水がかけられ、それから下の二人の妹にかけられ、最後が私でした、そのときはもうほんのわずかで、ときにはまったく無視されました、母は私を嫌っていたんです、母にとって私は一番きらいな子だったんです、そんな子供でしたから佐織にはたっぷりと水をかけてきたつもりです、下の子よりもいつもたっぷりと、でも佐織に注ぐその水は、罪の意識からきた水であり、憎しみの水だったかもしれないんです、そのことを佐織はよく知っているんです」

      2

 その夜、智子は藤原百合子に電話をいれた。森尾は彼女の紹介で分校にやってきたのだ。国立病院の児童精神科の医者だった。智子がもっとも信頼している医者だった。彼女の子供たちに対する姿勢がいつもあたたかく、それでいて鋭く深いところで立ち向かっている。事実、彼女のカウンセリングを受けてたくさんの子供たちが立ち直っていた。
 智子が報告する前に、百合子が問いかけてきた。
「どうでした? 野島さんのところで預かっていただけますか」
「ええ、明日から佐織さんを連れてくるということになりました、ですけどあのお母さん、なんだか崩れかねないばかりに線の細い人ですね」
「そうなの、とってもやさしいお母さんですよ、子供もまたとってもいい子なの、どうしてあんなふうに苦しむのか私にもよくわからないのよね、子育てに失敗したなんて、あんなふうにきびしく追いつめていったら、私なんかもう全然子育ては落第でしょうね」
「あのお母さんの苦しみって、もう少し分からないところがありますね」
「あんなふうに苦しむことが、かえって子供に深い影を落としている、そんなふうにもみえるわね」
「ええ、そうかもしれませんね」
「子供が学校にいけなくなったということでしょう、そんなことであんなに深いショックを受けるには、なにかもっと深い訳があるのかもしれないけど、でもいまはとにかく母親がしっかりしてなくちゃいけない、それなのにあんなふうに悩んで自信を失うなんてよくないのよ」
「森尾さん、母子家庭ですよね、そのあたりのことは詳しく訊きませんでしたけど」
「そう、二人の子をかかえた母子家庭、離婚したのは二番目の子が生まれたときだっていうから、もう十年も前になるんでしょうね」
「佐織さんと生まれたばかりの子をかかえて、女手一つで育てたなんて、とてもたくましいお母さんじゃないですか」
「そうよ、たくさん苦労があったはずよ、そんなたくさんの苦労をのりこえて、二人の娘の子育てをちゃんとしているのに、どうして子育てに失敗したなんて嘆くの」
「これはあとで思ったことですけど、森尾さんに離婚したあたりのことを、もっと訊いておくべきだったって、なんだかその離婚のことがあとを引きずっているんじゃないかって思ったりして、先生はどう思われますか」
「どういうこと? むしろこちらから野島さんにお訊きしたいわ」
「森尾さん、罪の意識を感じるって言われたんですよ、私も母子家庭です、その母子家庭になったとき、娘に対して罪の意識を感じたんです、娘は夫を愛していたし、夫も娘を愛していた、娘にとって夫は大切なお父さんだったですよ、その大切なお父さんを奪い取ってしまったというか、お父さんのいない家庭にしてしまった、ごめんね、こんな家庭にしてしまって」
「ああ、そういうこと、そういうことの罪の意識ね」
「離婚したときはそんな罪にさいなまれて、森尾さんがおっしゃってた母親失格ではないですけれど、そんな言葉に近いほどひどく落ち込んだものです、ひょっとすると森尾さんは離婚したことの影をいまだに引きずっているのかもしれないと思ったりして」
「無意識の深層のなかに、そんな影が潜んでいるかもしれないけれど、離婚してからもう十年近い月日がたっている、森尾さんのあの母親失格ですという表現、その強い意識はもっと別のところ、別の体験からだと思いますよ、それがなんなのかいまはわかりませんけど、いま森尾さんにもっとも必要なことは、自信をもつことなの」
「そうですね、もっと自信をもつべきですね、もっと大きくかまえて、子供のかたわらに立っていることですね」
「そうなの、だから分校のいろんな仕事に、あのお母さんをどんどん引きずり出して、いろんな役割を与えて動いてもらうことね、そうすることによってだんだん自信を取り戻していくと思うけど」
「そうですね、同じ苦しみをもっている人たちに出会えるし、そのことだけでも救われるかもしれません」
「そうよ、そのために野島さんのところに紹介したんですから」

      3

 翌日、森尾佐織は一人で分校にやってきた。百合子が言っていたように礼儀正しい、しかも聡明さをただよわせている子供だった。藤原が言っていたようにこんな賢い子供に育っているに、森尾はどうして子育てに失敗したなんて嘆くのだろうと智子もまた思った。その子はその聡明な目をまっすぐに智子にむけて、自分をはっきりと表現しようとする。学校にいけなくなった理由を、佐織はこんなふうに話した。
「私が学校にいけなくなったのは、夏休みが明けて九月の中頃からなんです、どうしてかというと十月に、私の学校は十月にクラス委員の改選があるんですけど、それでその選挙のことがとても苦しくて、私がまた学級委員に選ばれたらいやだなって思っていたんです、私は小学校のときからクラス委員とかしていて、中学にはいっても一年生のときも、二年生のときもクラス委員で、そういう仕事を選ばれたら仕方がないなあって思ってやってたんですけど、でも二年生のときのクラス委員はとってもつらくて、クラスはまとまらないし、だんだんその仕事を重くなって、それで後期はぜったいにクラス委員なんかしないぞって毎日思っていたんです」
「小学校のときからずっとクラス委員をしていたのは、佐織さんがみんなから信頼されているからなのよね、でもそれがだんだんつらくなっていくのね」
「そうなんです、クラス委員ってちょっといい子ぶっているというか、そういうところってあるじゃないですか、私もずっといい子ぶってるけど、でもこれは本当の自分じゃないんだって思ったりして、クラス委員なんかになるような自分ではなく、もっと自分らしくなりたいっていうか、もうクラス委員なんかになっていい子ぶるのはやめようと思っていて、それで選挙の日が近づくにつれて、どんどん心が重くなって、それで学校を休んでしまったんです」
「そうなの、でもそういうのって、おばさんとってもよくわかるよ」
「それで学校を休みだしたら、学校にいくのがどんどん重くなって、でもこのままではいけない、学校にいかなければって思うけど、朝になるとからだ全体が抵抗するっていうか、拒否するんですよ、もう選挙も終わってクラス委員には別の人が選ばれて、学校にいかない理由なんてぜんぜんなくなったけど、どうしても学校にいけないんです、あしたは絶対にいこうと思っても、朝になるとやっぱりいけないんです」
「そういうつらさって、おばさん、よくわかるわよ」
「クラスの子が、その日の授業で配られたプリントとかを届けにうちにくるんですよ、それがとてもいやで、友だちが私の家にくる時間になると、チャイムの音なんて聞きたくないって思って、でも耳を押さえたぐらいではだめで、押し入れのなかにとじこもって、外の音は絶対に聞こえないようにしたりして、それでだんだんへんな音が聞こえたりしてきて、光がこわくてずうっと押し入れのなかに入っていたりして、ぜんぜんへんですよね、ぜんぜん異常ですよね、このままでいたらどんどん自分はだめになっていくと思って、それでお母さんに、病院に連れていってってたのんだんです」
「佐織さんからたのんだの、病院に連れていってって?」
「そうです」
「それで藤原先生のところにいったのね」
「はい、それでこの分校のことを教えてもらいました」
 智子が訊かなければならないことがあった。それは何でもない質問だが、しかしちょっと緊張する問だった。
「佐織さんはお母さんのこと好きよね」
「ええ、好きです」
「それはそうよね、佐織さんはお母さんの子供だもの、でもときどき嫌いになったりすることないの」
 佐織はちょっとそのとき黙りこんだが、しかし曇りのない声で、その聡明さをたたえた目を智子にむけて、
「いいえ、ありません」
 とこたえた。
 こうして佐織は分校の生徒になった。
  
     4

 智子は佐織を知れば知るほど、彼女の母親が言っていた「私は子育てに失敗しました、私は母親失格です」という嘆きはなんなのだろうと思うのだ。佐織はちょっと茜を彷彿させるような子だった。たとえば、喧嘩をしてくやしくて泣いている子を励ましたり、仲間に入れずにいる子の傍らにすわってその子とゲームをしたり、小学生たちが散らかした後をきれいに片づけたりする。仲間に対する思いやりに満ちあふれた中学生だった。そんな中学生だったから小学生たちに慕われて、彼女のまわりにいつも子供たちがまといつく。こんな素敵な子供に育っているのに、どうして子育てに失敗したなどというのだろうと嘆くのだろうかと。
 佐織は毎朝いちばん早く分校に姿を見せる。おはようございます、元気のよい声が玄関に響く。そして部屋にカバンをおくと、裏庭に立てかけている竹箒を持ち出して通りに出る。この通りに面するどの家の敷地からも、桜や柚子や銀杏や欅がその葉をのぞかせていて、その木の葉が通りに舞い落ちている。佐織は毎朝、竹箒でその枯葉を掃いていくのだ。
 その朝、智子も箒をもって通りにでた。すると佐織が、
「先生、どうして木って、冬になると葉を落としてしまうんですか?」
 と訊いてきた。
「どうしてなのかしら、むずかしい質問ね」
「冬の寒さにたえきれないからですか?」
「それもあるかもしれないわね、でも春を待つためなのかもしれないわよ」
 と智子はその難問にそんな風にこたえると、佐織ははじかれたように、
「そうですね、春を待つために葉を落とすんですよね」
 と応じた。
「一年中、葉っぱをつけていると、きっと疲れるからかもしれないわね」
 と智子は長太に笑らわれるだろうと思いながら、教師らしくないことを言った。すると佐織はそんな言葉にもするどく反応して、
「疲れる、疲れる、ほんとうに疲れますよ」
「そんなに疲れるの、佐織ちゃんは?」
「熊とか冬眠するじゃないですか、どうして人間には冬眠ってないんですかね」
「そうね、もしかしたら人間にも冬眠が必要かもしれないわね、おばさんもそんなことができたら、まっさきに冬眠したいわね」
「人間にも春を待つための冬眠って必要ですよね、でもこの分校ってそんな所に似ていませんか」
「そうね、そうかもしれない、分校ってみんなが冬眠するところかもしれないわね、春になるのを待つために、そして春が来ればみんな元気に動きだしていく、そういう場所かもしれないわね」
「分校の子ってみんなやさしいですね」
「でも生意気な子だって、自分勝手な子だって、いじわるする子だっているでしょう」
「でもみんな心がやさしいですよ、話せばちゃんと分かってくれるし、きっとつらい体験をしているから人の痛みとか、悲しみとかが分かるんですよね、私、茜ちゃんって憧れの人です、茜ちゃんは分校の先生なんでしょう」
「そう、もう立派な先生よね、でもいまは受験勉強に打ち込んでいてそんなに分校にこれないけど、でも大学生になったらもっとたくさんきてくれるわよ」
「私も高校とか大学にいったら、茜ちゃんみたいにこの分校の先生になってもいいですか」
「ええ、それは大賛成だわ、おばさんからお願いするわ」

      5

 いま分校はちょっと重い雰囲気が漂っていた。まず宏美のことがあった。彼女の高校受験がやはり重くのしかかっているのだ。かねてから智子は受験勉強の弊害を説き、親も子ももっとのんびりとかまえましょうなどと受験生をもった母親たちに言ってきたが、いざ自分の娘が直面するとそうはいかなかった。
 宏美にすまないと思うことがあった。それは住居が分校になっていて、生活する領域と分校の領域がきっぱりと分離できずに、いつもざわざわとした落ち着きがない生活をさせていることだった。受験生になったらじっくりと勉強できる雰囲気を作りださなければならないと思っていたが、とうとう三年生になってしまった。そのことを宏美にそれとなく詫びると、彼女はぜんぜん平気だよと言ったが、しかし受験の年ぐらい落ち着いて勉強できる環境をつくってやりたかった。
 そんな智子の心中を察してか、大学めざして本格的な受験勉強のシフトを敷いていた茜が、一緒に勉強をしようと宏美を誘い出したのだ。土曜日から泊まりがけで代官山にある茜の家にいく。その日は深夜まで机に向かい、翌日は朝の六時におきて夕方までぶっ通しで勉強するというシフトらしい。宏美は茜がつくりだしたそのシフトにのって受験に打ち込むようになったからか、公開テストの成績もぐんぐん上がって、勉強に関してはなんの心配もなくなった。
 智子はこの茜という少女に出会って、いったいこの子の両親はどういう人なのだろうと思ったものだ。たとえばたいていの子供は、ぱたぱたと玄関で靴を脱ぐと、その靴をほうりだして部屋にあがってくる。しかし茜はいつでも自分の靴はもちろん、そこにばさっと脱ぎ捨てられている靴を、きれいにそろえたり靴箱に入れたりする。あるいは食事しているときとか、会話をしているときとか、ゲームしているときに見せるその一動作一動作がとても気品があり優雅だった。きっと行儀作法などが厳しい、とてもよい家庭に育ったのだろうと思った。思ったというのは、茜が分校に入校したときその手続きは茜一人で行われて、彼女の父母には一度も会っていないのだ。
 智子は茜に何度かあなたのご両親に一度お会いしたいと言った。すると彼女は、
「うちはもう放任主義ですから、きっと先生が会っても無駄だと思います、私のことは全部私にまかされてますから」
 とはぐらかされた。
 しかし彼女がいよいよ高校を正式に中退するという段階になったとき、智子はどうしても茜の両親に会わなければならないと思い、その場をつくってもらった。そのときはじめて茜の両親の実像を知ることになるのだ。
 父親は大学の教授で雪が谷に住んでいて、母親はお茶の水と四ッ谷に店をもっている経営者で、彼女の住居は代官山のマンションだった。生活のサイクルがぜんぜん合わないから別居生活をしているのだと父親が言うと、この別居生活がもっともベターなのよと母親が応じた。茜はその二つの家に自分の部屋があって、その二つをいったりきたりの生活をしているようだった。
 茜が高校を中退することは、やはり考えなければならない大きな問題だと思いますけれどと、智子が問いかけると、
「どうでもいいことじゃないか、学校を出る出ないなんて」
 と父親がこたえ、母親もまた、
「むしろ学校をやめたほうが、人間として成長するんじゃない、私はそういう主義よ」 
「そう、それはぼくも賛成だな、人間をつくるのは学校じゃない、これは絶対的な真実だ、大学教授が断言するんだから間違いない」
「自分をつくり出せる人間には、学校なんて必要ないのよ、日本人が没個性になるのは、学校によりかかって成長していくからじゃない、個性がないから人間としての魅力がないの、人間の魅力をつくるのは、学校なんていうものによりかかったらだめなわけよ」
「世界を変革していく人間はみんな学校中退者だ。茜がはやくも高校で中退するということは、茜もまたそんな一人になるかもしれないってことだな。ぼくは大賛成だよ」
 智子はそんな夫婦の会話に、ちょっと唖然とするばかりだった。智子を駅まで見送りにきた茜が言った。
「ね、先生、言った通りでしょう、うちの親は全然たよりにならないってことが」
「でも、あんなふうに断固として言われるのは、お父さんやお母さんがぜったいに茜さんを信頼しているからよ」
「信頼なんですかね、ただ面倒くさいだけじゃないんですか」
「そんなことじゃないと思うわ」
「いいえ、そういうことだと思いますよ、だから私がしっかりしてなくちゃだめなんですよ、親がだめでも子供はよく育つって諺があるじゃないですか、うちはその典型的なパターンだと思います、だって信じられますか、父がワイシャツのボタンつけてくれってぽいって私に投げ出したのは、私が小学校の四年生のときなんですよ、私は二年生のときから父の洗濯をはじめたし、もう母親なんて、すっごくだらしないから、いつも母のマンションの整理整頓、そして掃除をするのは私だし、私なんて二つの家の家政婦みたいなもんなんですよ」
 この会見は智子にはちょっとしたショックだった。これほど自由な発想に。これほど学校にこだわらないという生き方に。事実、二人はそのことを実践しているのだった。しかも茜のような素敵な子供が育っていくということに。それはやはり見事な子育てがあったということかもしれなかった。
 高校をあっさりと退学してしまった茜は、しかし大学にいくことに燃え立ったのは、夏になると分校は八ケ岳で一週間の合宿を行うが、その体験にあったかもしれない。茜はそのとき智子とこんな会話を交わしていたのだ。
「八ヶ岳に農学校をつくりましょうよ、私は農学校の先生の免許をとりますから」
 と茜が言った。
「そうね、茜さんが大学に入ったら、おばさんもそのことを本格的に考えてみるわ」
「ぜったいにできますよ、達也さんだって、友和さんだって、次郎さんだっているんだし、正憲くんだって、宏美ちゃんだって、のびたくんだって、それに長太さんだって、望月先生だっているんだし、ぜったいにできますよ」
「おばさんも、茜さんに負けないように、茜さんが大学を卒業するころまでには、そんな大きなプランに挑戦したいと思うわ」
「だって子供たちが、八ヶ岳の雄大な自然のなかで、生命の力を取り戻していくんだもの、由香ちゃんだってそうだったでしょう、分校では一言も話さないけど、八ヶ岳の牧舎のなかで牛さんたちとお話していたんですよ、私はそれを聞いていて、なんか魂がふるえるばかりに感動したんですよ、つまり自然には人間をやさしくさせたり、勇敢にさせたり、解放させたりする力があるんですよ、子供たちが駄目になっていくのは、自然の偉大さからだんだん離れていったからだと思うんですよ」
 またこうして子供たちに引きずり出されていく。いつもそうだった。いつも子供たちに引きずられてきた。子供たちのこの爆発する生命力に。そのたびに智子は小さな世界から脱皮するかのように未知の世界に乗り出していく。自転車がそうだった。最初はただ八王子まで行って帰ってくることだった。それがいまや中国大陸遠征をめざしている。そしていままた茜という若者に突きつけられたこの大きな夢。いやそれは夢などではなく、子供たちは、この若者たちは、それを本当に実現してしまうエネルギーをもっているのだ。この大きなエネルギーをもった子供たちに、智子はありたっけの帆をはらませなければならなかった。彼らの成長にあわせて智子もまた成長していかなければならなかった。

     6

 たちまち分校の活動にとけこんだ佐織は、クリスマス会をおえて冬の合宿にむかって活動を展開していくあたりから、もう分校の一つの軸になっていった。小学校のときからクラス委員をしている佐織はさすがにみんなをまとめていく力がある。それは彼女が子供たち愛されているからだった。班の編成があったとき、佐織の班ではなかったので泣き出す小学生がいるほどだった。
 合宿にでかける朝だった。彼女の掛け声が品川のプラットホームに一段とさえわたる。
「とんでもねえ班、ここにきて」
 とんでもねえというのが彼女の班の名前だった。
「じゃあ、博君」
「はあい」
「昇ちゃん」
「はあい」
「さやかちゃん」
「ぐえっ」
「なあに、そのぐえっというのは」
「はあいっていう意味なの」
「そうか、えり子ちゃん」
「ぐえっ」
「英治くん」
「ぐえっ」
「最後は義徳くん」
「ぐえっ」
 出欠をとっている佐織の班が、朝からすごく活気がある。佐織は智子にむかって飛んでくると報告する。
「とんでもねえ班がそろいました」
 智子はその報告を受けると、傍らに立っている女性を佐織に紹介した。
「佐織ちゃん、義徳くんのお母さんよ」
 義徳は身体障害をもった子供だった。彼を入校させるとき智子はちょっとためらったのは、車椅子で移動する子供を受ける施設ではないと思ったのだ。自宅を改築しただけの施設だから。しかしどうしても分校に通わせたいという両親の懇願で、義徳を分校にいれたが、そのときためらった自分が恥ずかしくなった。分校の若者たちや子供たちはどんな子でも力の渦となって受けいれていく。
「義徳は佐織さんの大ファンなんですよ、だから、佐織さんの班に入った、佐織さんの班に入ったって、もう大喜びして」
 と義徳の母親が言った。
「ああ、そうなんですか」
「わがままな子ですが、義徳をよろしくお願いしますね」
「はい、ちゃんと義徳くんのそばにいますから」
 佐織は母親にそう約束するのだった。
 冬の合宿は去年から草津村で行われた。子供たちは朝から銀世界でスキーだ。スキー合宿なのだ。しかし義徳はソリ滑りだった。そのソリ滑りをともに行っているのが佐織だった。高所からプラスチックのソリにのって雪の斜面を猛スピードで滑っていく。子供たちを興奮させる遊びだった。しかし滑り降りた地点から、義徳を丘陵の上に運んでいくのが大変だった。佐織は一日中その仕事をしていた。そんな佐織に智子は何度もすすめた。
「ねえ、佐織さんもゲレンデですべってきなさい、義徳くんのことはほかの子供たちにもやってもらうから」
「ええ、大丈夫です」
「でもスキーをしにきたんだから、少しはすべってきなさい、スキー合宿なんだから、風をきってすべっていくと爽快よ」
「ソリ滑りも爽快ですよ、義徳くん、ぜんぜんうまくなったでしょう、カーブできるようなったんですよ」
「でも上まで運んであげるのが大変でしょう、何度も何度も」
「こういうのって好きなんですよ、義徳くんがすごく楽しそうにしているのをみていると、すごく幸福になれるんですから」
 三度の食事も子供たちが作らねばならない合宿生活だったから、班長の仕事がいくつもあった。佐織はその役割を果たすだけではなく、その合宿生活でなにか問題が発生するとその仕事を率先して担ったりした。そんな佐織をみると、佐織がいつもクラス委員に選ばれるのは当然だと思い、そして母親がどうして子育てに失敗したなどと嘆くのだろうとあらためて思うのだった。

      7

 学校の冬休みがあける前日に、佐織から電話がかかってきた。
「明日から学校にいってみますから、しばらく分校をお休みします」
 その電話に驚き、智子はその驚きのまま、
「学校に‥‥」
「はい」
「そう、学校にいける元気が出てきたのね」
「ええ、まだちょっとこわい気もするけど、でもいってみます」
「大丈夫、もう佐織ちゃんはいけるわよ」
「大丈夫ですよね」
「大丈夫、大丈夫、佐織ちゃんはもう学校なんて怖くない人になったのよ」
「そうですね、勇気を出していってきます、それでみんなに言ってくれますか、これから毎日は分校にいけないけど、土曜日とかの活動の方にはちゃんと出ますからって」
「わかったわ、分校の方は心配しないで、佐織ちゃんが学校にいけるようになったということが、一番大切なことだから」
 そう言ってみるが、また愛する子供が遠くに去っていくような寂しさにつつまれる。それは分校活動の勝利の瞬間であり、喜ぶべきことなのに。
 しかし佐織が学校にいったのはたった一日だった。その翌日からまた不登校になった。佐織の母親、裕子がそう伝えてきた。智子はその報告をうけたとき、佐織と直接話したいので電話を替わって下さいとたのんだ。しかし佐織はその電話にでてこなかった。いまは智子とも話したくない、話すことなんてなにもないと言っていると裕子は伝えるのだ。そのことにも智子は衝撃を受けるのだ。
 その後、智子は幾度も電話をいれるが、その電話で話すのは裕子とであった。智子が話したいのは母親ではなく佐織なのだ。電話ではらちが明かないと、直接佐織の家を訪ねようという衝動に幾度もかられた。しかしそのたびにかつて佐織が言っていたことがよぎってきた。クラスの子がプリントなんかをもって家にこられるのが嫌だった、そうされるのが怖かったと言ったことが。
 その日もまた森尾宅に電話を入れた。学校に行けなくなったと報告を受けた日からもう二週目に入っていた。佐織の心が見えない。智子は閉ざされた佐織の心を探ろうといつもと同じことを裕子にたずねる。
「やっぱり佐織さんは、同じような生活ですか」
「ええ、自分の部屋にとじこもって、昼間は寝ているようで、夕方あたりからごそごそと起きてきて、もう夜と昼が完全に逆転しているような生活です」
「食事はどうですか、ちゃんと食べているのでしょうか」
「いつも佐織の分をテーブルにのせているんですが、手をつけていないんですね、朝までのこったままです」
「でもパンとか、果物は食べているんですよね」
「果物ならなんでも、バナナも、キュウイも、リンゴも、果物籠のなかに入れておきます」
「それはちゃんと食べているんですね」
「ええ」
「パンはクロワッサンですよ、佐織さん、クロワッサンが好きだって言ってましたけど、それもちゃんと食べているんですね」
「ええ、朝になるとクロワッサンはきれいになくなっています」
「森尾さんの作ったものには手をつけないけど、でもクロワッサンも果物もちゃんと食べている、そのことはちょっと安心ですね、引きこもった子がまったく何にも食べなくなるっていう話をよく聞きますかから」
「拒食症ですよね」
「そうです、重度の拒食症になると自分の体を傷つけたり、苦しみから逃げ出そうとリストカットしたり、あ、ごめんなさい、こんな話をして、でも佐織さんは大丈夫ですよ、クロワッサンやイチゴやキュウイを毎日たっぷり食べているんだから」
「ええ」
「やっぱり、佐織さんとの会話ができませんか」
「いまは口をきいてくれません、もうなにを言っても、なにをたずねてもいっさい返事がありません、なんだかあの子は壁になったみたいで」
「お母さんと囗もきかないなんて、いままでになかったことですよね」
「ええ、そんなことは一度もありませんでした」
「どうしたんでしょうね、分校ではいつも朝のように元気で輝いていたんですよ、佐織さんがそこにいるだけで、陽がさしこんだように明るくなる、そんな中学生だったんです」
「佐織はほんとうに分校が好きでした、分校の話をするともう止まらないばかりで、分校でたくさんの心の友達ができたって言ってました」
「佐織さんに分校にきてほしいんですよね、どうしたら分校にこれるようになるんでしょうか、どうしたら佐織さんと話せるようになれるのかしら」
 そのとき裕子は、閉ざした佐織の心がちらりと見えるようなことをふともらした。
「あの子はいつも自分を偽るところがあるんですよ」
「偽るんですか?」
「ええ、自分の気持ちとは反対のことをして自分を偽ってしまうんです、それですごく疲れてしまうんですね」
「分校でも佐織さんは自分を偽っていたんでしょうか」
「さあ、それは私にはわかりませんが」
「分校でも自分を偽って、とても疲れることをしていたんでしょうか」
 智子はそのときはっとなったのは、思い当たることがいくつもあるからだった。佐織が分校に入ってくると、たちまち班のリーダーになってしまった。分校のさまざまな活動もいつも中心になっていた。冬の合宿では、義徳の車椅子を押すのはいつも佐織で、彼女は義徳つきの看護人になったような献身だった。子供のする範囲をこえているような尽くし方だった。そう気づいてみると、佐織は分校のさまざまな活動に、ひたすら自己犠牲を強いているようなかかわり方だった。そうであるならば、分校は佐織にとって疲れるところだったのかもしれない。分校は佐織を解放するどころか、さらなる重い荷を担わせる場所だったことになる。
  
     8

 その日は土曜日だった。厳しく冷え込む夜で、カーテンを引いて外を見ると雪が降っていた。宏美は茜の家に泊まり込みで、目前に迫った受験に茜とともに最後の追いこみをかけている。庭の木立を白く彩色して、しんしんと更けていく雪の景色に目をやっていると、突然チャイムが鳴った。九時を回っていた。こんな夜更けに誰なのだろうと階下におりてドアに開くと、そこに裕子が立っていた。
「まあ、森尾さん、どうしたんですか」
「すみません、こんな時間におしかけて」
 この雪のなかを傘もささずにやってきたのだ。乱れた髪が濡れていた。ただならぬ気配を漂わせている裕子を部屋に入れ、タオルを渡して、
「今、温かい紅茶をいれますからね、外は寒かったでしょう」
「いえ、先生、話しを訊いてくださいますか」
「もちろんですよ、なにがあったんですか」
「佐織がまったく食べなくなったんです、この四日間、何も食べてないんです」
「食べなくなった? クロワッサンも、果物が好きだったんですよ、キューイも、イチゴも、バナナも」
「ええ、先生とお話したその日からです、もう四日もまったくなにも食べていないんです、それで今夜、あの子に食べさそうと思って、あの子の部屋に入って、そしたらあの子と争って、激しい喧嘩になって、私は突き飛ばされて、椅子まで投げつけられて」
「椅子までお母さんに投げつけたんですか」
「ええ」
「信じられない、あの佐織さんがですか」
「ええ」
「佐織さんがそんな暴力をふるったことはそれまでにあったんですか」
「いいえ、一度もそんなことは一度もありません、もう気が違ったみたいにそこらじゅうのものを投げつけて、私に当たらないようにですが、とにかくもう気が違ったみたいに暴れて、あたしはもう疲れたの、あたしはもう死にたいの、死にたいんだからご飯なんで食べなくていいの、そして言ったんです、あんたは、私を殺そうとしたんだろうって、いまだったらいいよ、あたしを殺して、あたしを殺しなさいよって」
 智子はその話に圧倒されてしまった。智子の頬にもぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。この圧倒的な悲しみの話に智子は言葉を失っていた。
「森尾さん、ちょっと待って下さい、これから藤原先生のところにいきましょう、藤原先生ならば、森尾さんにきっといいアドバイスをしてくれます、とても私にはいまの森尾さんにアドバイスなんてできません、いまから藤原先生のところにいきましょう」

      9

 もう十時を回っていた。こんな時間に個人宅を訪れるなど常軌を逸している。しかし過去に一度同じようなことがあったのだ。子育てに苦しむ母親から相談されたとき、藤原のアドバイスを受けたいと彼女に電話をいれたら、そのお母さんをいまうちに連れてきなさいと言われた。そのときも夜が更けてのことだった。
 智子は裕子をシビックに乗せて、大田区にある藤原の自宅を訪ねると、藤原はなぜか白衣を着て待っていた。自宅で、しかも深夜に白衣を着るなんて奇妙なことだったが、精神科医として患者に対するということなのだろう。二人を椅子にすわらせると、藤原はもう患者を打診する口調で、
「佐織さんがなにも食べなくなったって?」
「ええ、そうなんです」
 と智子が森尾にかわってこたえた。そして森尾に、
「森尾さん、私に話したことを藤原先生にも話して下さい、あのままお話して」
 裕子はまた話しはじめた。何度話してもそれは苦しみのかたまりを絞りだすようなものだったのだろう。声をつまらせ、感情に溺れまいと立ち直り、なにか必死になってその苦しみのかたまりを吐露していった。
「夫との関係も絶望的な状態だったんです、外泊をつづける夫が帰ってくると、もう互いに罵り合うばかりで、共稼ぎで購入した家のローンも彼のほうが滞らせて、毎月の生計がいきづまっていくばかりで、下の子がアトピー性の皮膚炎で一晩中泣いて、この子は産まれたときからからだが弱くて、病院通いでしばしば会社をやすむものだから、辞職を迫られたりしました、育児ノイローゼとか、毎月せまってくる家のローンとか、夫との離婚騒動とか、そんなことがどっとおしよせて、自分はもう駄目だと思うばかりで、それは悪夢としかいいようがありませんでした、死のうと思いました、死ぬことですべてが楽になりたいと思いました、蒸し暑い夜でした、私は寝ている佐織に手をかけました。
 佐織の首は、両手のなかにすっぽりおさまってしまうぐらい華奢でした、その首をしめました、わけもなく佐織を絞め殺せると思いました、あと少し力をこめたら、ああ、このままこの子は死んでいくのだと思い、ちょっとためらっていると、佐織が激しくせき込んで、お母さん怖いって叫んで、逃げ回りました、必死になって逃げ回る佐織はつかまえ、私もまた必死になって言ったんです、もうみんなで死ぬのよ、もうお母さんは疲れて生きていけないの、だから一緒に死にましょう、どこまでいっても苦しいばかり、どんどん苦しくなるばかり、はやくみんなで楽になりましょうって、そして佐織を押さえ込んで首に手をかけようとするけど、お母さん、佐織は死にたくない、死ぬのはいやだ、お母さん、佐織はなんでもお手伝いするから、お母さんも死なないで、由美子ちゃんも殺してはだめ、殺さないで、あたしはなんでもするから、みんなを殺さないでって。
 でも、私は、必死に抵抗する佐織を狂ったようにおさえこんで、この家はもう私たちの家じゃなくなるの、お金が払えないから、この家から出ていかなければならないの、どこにいくの、どこにもいくとこないでしよう、これから三人は公園で寝なくちゃいけなくなるのよ、お母さん、会社にもうこないでいいって言われたの、会社からクビにされたの、もうお金が入ってこないから、なんにも買えなくなるのよ、ミルクだって、パンだって、お米だって買えなくなる、お母さんはもう生きていく力がなくなったの、お母さんがいなければ佐織も由美子も生きていけないでしょう、私たちはもう楽になりましょう、もう楽になっていいって神さまが言っているの、だから、もうみんなで死んでらくになりましょうって言いました、そのとき抵抗していた佐織が静かになりました、そして佐織はすべてを私に投げ出すように言ったのです、わかったって、お母さん、わかったからあたしを殺してもいいよって、そう言うと佐織の頬に一滴の涙が走り落ちていきました、あれは神さまが流した涙だったと思います、その涙に私は自分を取り戻したように、佐織を抱きしめて、ごめんね、佐織ちゃん、ごめんねと私が泣き崩れました、佐織はそんな私をなぐさめるように、あたしはなんでもするから、あたしはなんでもお手伝いするからって‥‥‥」
 智子はまた新しい涙が頬にこぼれ落ちてきた。ふと藤原を見やると、彼女もまた指先で目を拭っている。しばらく深い沈黙が支配していたが、藤原は白衣を着た精神科の医者に戻り、
「私は患者さんの話に泣いたことなんてありませんでした、どんなに悲しい話を聞いても泣きませんでした、医者が感情に溺れてしまったら、冷静な判断なんてできませんからね、でもいまは泣いてしまいました、それはあなたの苦しみにたいする涙ではありませんよ、佐織さんの苦しみにです、佐織さんが受けた深い心の傷に対する涙です、佐織さんはこんな深い心の傷を背負ってこの十年を生きてきたのね、なんていう子なんでしょうか、分校で落ち葉を掃いていたときに、佐織さんは野島先生に、どうして人間には冬眠ってないんですかって言ったらしいけど、とうとう佐織さんは本格的な冬眠状態に入ったんですよ。
 佐織ちゃんはいままでお母さんを手こづらせたことのないいい子だったのよね、からだの弱いお母さんをいつも助けようとしましたよね、もしお母さんを困らせたり、お母さんを悲しませたりしたら、またあの地獄の日のようになり、森尾さんの一家が崩壊していく、きっとそんな危機感というものが佐織ちゃんのなかにずうっとあったはずですよ、学校ではいつも優秀な成績をとって、そしていつもクラス委員をつとめていた、友だちに慕われ、先生にも愛されて、佐織ちゃんはいつもいつもいい子でした、いい子であり続けていた、いい子になっていなければならなかった、そうしなければまたお母さんが崩れてしまって、あの恐ろしい日がきてしまうものね、佐織ちゃんはきっとものすごく頑張って生きてきたのよ、深い深い心の傷をあの子はそんな風にして耐えてきたのよ、だから今はゆっくり休ませてあげましょう、ゆっくりと冬眠させてあげましょう。
 佐織ちゃんはようやく子供らしい姿に戻ったと思うのよ、だってそうでしょう、子供って、甘えたり、わがままだったり、ぐずったり、すねたり、だだをこねたりして成長していくものよね、でもそのことを佐織ちゃんはずっと自分に禁じてきた、その佐織ちゃんがやっと自分を表現することができる子になったと思うのよ、甘えたり、思い切りいやだといったり、わがままをいったりできる子になったのよ、ようやく自分の声や歌を表現することができる子に、だってお母さんにはじめて、あの悪夢の日のことを言ったんでしょう、あのときお母さんは私を殺そうとしたって言ったんでしょう、そんなことはいままで絶対に言えなかったことよね、決して言ってならないことだった、恐ろしいあの日がまたはじまる恐ろしい言葉だった、でもとうとうお母さんにそう言った、それは佐織ちゃんが自分をしっかりと表現することができる子になりつつあるということなのよ、思い切り人に甘えたり、わがままを言ったりする子に。
 考えてみると、人もまた冬眠しながら生きているのよね、受験に失敗したとか、恋愛に破れたとか、失業したとか、友人に裏切られたとか、そんなとき人はみんな心の冬眠をして立ち直っていくものでしょう、佐織ちゃんもまた佐織ちゃんが新しくなるための冬眠をしているのだと考えましょう、こういうお子さんは本当に沢山いるんですよ、今日も二人ほどみえました、拒食がはじまって、部屋にとじこもり、昼と夜が逆転して、もうろうとして生きている子供たちと私は毎日のように出会っています、でもそんな子供たちの大半は立ち直っていくんです、佐織ちゃんもかならず立ち直っていきます、でもそのためにお母さんにしてもらいたいことがあります。
 夜と昼が入れ替わってしまって、なにも食べていないし、なにかだんだん廃人のようになっていくような気がして、とても怖いとお母さんはおっしゃるけど、それは冬眠しているんですから、夜も昼もありません、佐織ちゃんは冬眠するのだと宣言したんですから、ですからお母さんは冬眠をしている佐織ちゃんをしっかりと見守ってやることです、いま一番しっかりしなければならないのはお母さんなんですよ、しっかりと生きていることを佐織ちゃんみせましょう、佐織ちゃんにお母さんはいましっかりと生きているのよという姿勢を背中でみせましょう、佐織ちゃんがいまどんなにつらいかわかっているし、学校にいけないことも、食事がとれないことも、冬眠していることも、みんな分かっているから、いまはゆっくりと冬眠しなさいという姿勢を背中でみせましょう、どんなにわがまま言っても、どんなにすねたりしても、けっしてあの時のようにお母さんは崩れていかないから、もうお母さんはとっても強くなったから、今度はいっぱいお母さんに甘えて、わがまま言ってもいいのよということをこれもまた背中でみせましょう、いいですか、何度も言いますが、いま一番しっかりしなければならないのはお母さんなんですよ、お母さんがしっかりと生きていれば必ず佐織ちゃんは立ち直ります」
 森尾裕子の自宅は、同じ品川区の公営アパートにあった。学校の給食調理師として生計をたてているアパートだ。母子家庭のつましい暮らしがそこにある。裕子は智子をその部屋に連れていこうとしたが、彼女はきっぱりと断った。いま佐織と対決しなければならないのは裕子その人なのだ。

     10

 自宅に戻ってくると、百合子から電話がかかってきた。
「野島さん、あんなものでよかったかしら」
「いいえ、とても感動しました、先生は名医だと思いました」
「まだまだ名医の領域には達していない未熟者だけど、野島さんにそう言ってもらうとうれしいわ」
「帰るときの森尾さんの表情がとってもよかったですね、きたときまるで違った表情でしたよ」
「そうね、あのお母さんも苦しかったのよ、自分の子供を殺そうとした、それはものすごい罪よ、彼女にとって佐織ちゃんというのはその罪の象徴だったのよね、いつも自分にそのことをつきつけているんじゃないのかと思っている、というか妄想している佐織ちゃんを、だから心の底で憎み続けていたということもあるかもしれないわね」
「でも帰るときのお母さんの表情は、なんだかその罪が浄化されたようないい表情でしたよ」
「そう、いままでだれにもいえなかった、胸につかえていた大きな苦しみのかたまりを、野島さんと私の前で二度も吐き出したんですからね」
「それにあんな風にはっきりと断定的におっしゃることが、いまの森尾さんにとって必要なんですね」
「精神科って、こんなこというと不謹慎だっていわれるかもしれないけど、当たるも八卦当たらぬも八卦というところがあるのよ、とにかく人間というものは複雑な動物ですからね、とても一つや二つの原因を探りだして、それできっぱりと診断するなんてことはできないのよ、複雑な要素がいっぱいにからみついていて、でも佐織ちゃんの場合にははっきりと断定できるのよ、ちょっと未成熟のお母さんをいままでしっかりと支えてきた子ですもの、佐織ちゃんは何倍もたくましくなって立ち直ってきます」
「私もそう思います、佐織ちゃんはいま本当に人生の冬眠をしているのだと思いました」

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草の葉ライブラリー
高尾五郎著 木立は緑なり
四月刊行

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