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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第三章


目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ
第三章

 
 
《わが愛》という映画をヒットさせた女流監督の書斎を撮り終えると、カメラマンの島三郎と青山通りに出てお茶を飲んだ。この男と来週アメリカのウエスト・コーストを回ってくることになっている。
「危ないという話、あちこちできくけど」
 と島が言った。
「半分以上は本当だからだよ」
「今年の夏までもつかなという噂もあるぜ」
「案外あたるかもしれないな」
「他人事みたいに言うなよ。君の会社の話じゃないか」
「ロスからもどってきたら、都会生活社はあとかたもなくなっていたなんてな」
「それじゃギャラは前払いにしてもらうかな。冗談ではなく」
「それはいいな。そいつでパアッとやってこよう」
「まったく君は呑気だな。みじめなもんだぜ。ぶっ倒れたらなにもかも終わりなんだ」
 その店の窓から赤く焼けた空がみえた。焼けた雲がたとえようもなく美しかった。来週はもっと雄大な夕焼けをアメリカ大陸でみるのだと思ったが、心は沈んだままだった。外国に出るときはいつも心のたかぶりがあるのだが、今度はまるでそんなものはなかった。
 島と別れたあとちょっと迷ったが、タクシーを拾って銀座にでることにした。学生時代の仲間でつくっているシルクロードクラブの会合が三カ月に一度あるのだが、このところずっと欠席続きだった。今月もまた西川の本を祝う会だときいて出る気になれなかったが、森田に会って返事をしなければならないことがあった。彼に見合いの話をもちこまれていたのだ。
 何でも丹沢の近くに広大な土地をもっていて、その資産は何億になるかわからないほどの家のお嬢さんだと言った。森田はその何億になるかわからないというところをいやに強調した。そのときぼくの心が少し動いたのは、彼の強調したことではなく、その話しをもちこんできたのが、彼の細君の八重子だったからだ。惚れっぽいぼくは八重子にほんのりとした恋心を抱いている。八重子さんとなら結婚してもいいなと言ったら、いったいあいつはどんな顔をするだろう。そう思うと車のなかで一人にやにやしてしまった。
 銀座七丁目の裏通りにあるレストランに入っていくと、先着の柴田たちが話し夢中になっていた。
「やあ、みんな元気かね」
 と声をかけると五条が佐久間を指さして、
「実藤、ちょっときいてくれよ。この野郎、家を買ったんだぜ」
「ほう、そいつはすごいな。三十にして立つというわけだな」
「そういう意味だったのかね。その格言は」
「そういうことにしちまったんだろう」
「情けない話だな。三十にして立つということは家が立つということだったのかね」
 五条は嘆くように言ったが、だれよりも家を買った佐久間を、妬ましく思っているのがありありだった。
 坂上がきて、津島も堀もやってきたが、一座の話題は依然として分譲住宅の話だった。いまや彼らの最大の興味はマイホームであり、最大の事件は佐久間が住宅を買ったということらしい。
 川村がきてぼくの横に座った。
「どうだい、景気は?」
「いよいよ悪いね。暗雲ただようだよ。君の方はどうだい?」
「いいわけがねえだろう。近頃いやな予感がするんだ」
「どうしてなんだ?」
「あとはなにやら転落一途というやつだな。えんやこらさと坂道を上がっていった。なにかいいことあるんじゃないかとね。ところがなにもなかった。なにもなかったんだ。それどころか、もう坂は下りだ。その下りの果てにある終点が、ばっちりとみえるじゃないか。そこに看板が立っていて、こう書いてあるんだ。はい、これで終わりです。ご苦労様でしたってね」
「それで人生がお終いというわけか?」
「そういうことだよ」
「川村からそんな話を聞くなんて意外だな」
「おれはいつだって楽天家だよ」
「そうさ。この世は楽天家でなければ生きていけない。西川みたいに太陽の光を、さんさんと浴びるということだってあるんだぜ」
「あいつは特別さ。学長の娘とくっつきやがって。あの野郎はまったくうまくやりやがった。わがシルクロードのなかで実藤と双璧だな」
「どんなふうに双璧なんだ」
「インチキ野郎ってことだよ。おれはお前さんのつくっている、なんとか生活という雑誌なんか一度も読んだことはないぜ」
 彼は一度、ぼくの雑誌に載った記事をたよりに、鉱泉宿をたずねたことがあった。ところがその記事、パンフレットたよりのやっつけ仕事で、その記事通りにいってみた彼はひどいめにあったらしい。ぼくの雑誌をくそみそにけなすのはそれ以来なのだが、ぼくはこの男が好きだった。口は悪いが実に気持ちのいい男なのだ。
「おい、みろよ。インチキ野郎がすごい美人を連れてきたぜ」
 西川が宏子を連れてきたのだ。ぼくは信じられぬものをみるように二人が歩いてくるのをみていた。なぜなのだろう。なぜこんなところにきたのだろう。もしかしたらぼくに会いにきたのかもしれない。
 あのパーティの翌日だか翌々日だかに西川から電話があって、田島宏子が君にはだいぶ迷惑をかけてすまなかったと言っていたぜと彼は言ったのだ。そのときぼくは、そういう台詞は彼女の口から直接ききたいものだと冗談ぽくこたえたが、切なくしめつけるように彼女にもう一度会いたいという思いが噴き上げてきたものだ。
 西川が宏子をみんなに紹介した。彼女はちらっと他人をみるようにぼくをみた。一座は急ににぎやかになった。野沢や森田も現れて常連がそろうと、グラスを取って西川におめでとうと言った。西川の本などどうでもよく、とにかく飲むためにおめでとうと言ったようだった。
「どうしておれにその本を、あれはなんというのか、謹呈というのか、その謹呈というやつがおれのもとにやってこないんだ」
 と柴田が言った。
「こう言っちや悪いが、猫に小判だと思ってね」
「小判だって?」
「絶対に小判さ」
「それで、その小判とやらは何冊ぐらい売れたんだ」
「一冊も売れやしないさ」
「そりゃあすごい。まさに小判だ」
 一座はいよいよにぎやかになった。宏子のまわりに座った男たちは下手な駄洒落を飛ばしたり、歯の浮くようなことを言っては、彼女の気を惹こうとしていた。しかし残念ながら、その女性はぼくに会いにきたのであり、君たちの出る幕ではないのだ。
 時間は流れていく。時間の無駄だった。待ちきれなくなったぼくは手帳を破り取ると、その紙片に〈ここから脱出したいと思わない?〉と書きつけて、細く折りたたみ、くるりと結んだ。
「なんだい、こいつは?」
「ラブレターだよ」
「おれに郵便配達をやれというのか」
 川村から掘へと渡っていくその紙片を、ぼくは身を乗り出してみていた。宏子のもとに無事に渡った。なんだろうという表情でそれを開いた彼女は、怪訝な表情をうかべたが、しかしちょっと笑って、そして悪戯を叱るようにぼくをみた。それはぼくにだけわかるシグナルだった。
 紙片が戻ってきた。川村は、
「書留速達が戻ってきたぜ。この色気違いめ」
 と言って、ぼくにそれを渡した。
〈それもいい手だと思うけど、でもそんなことしてもいいわけ?〉ぼくが書いた文字のあとにそうつけ加えられていた。そんなことしてもいいわけ? 駄目だということなのだろうか。それともオーケーということなのだろうか。ちょっと迷ったが、それは多分、ぼくの手にゆだねるということにちがいないと勝手に解釈してみた。もう退屈なシルクロードクラブに用はない。ぼくは立ち上がった。
「諸君、耳をかしてくれ。ちょっと演説したくなったんだ」
 連中はきょとんとしてぼくを見上げた。この奇行に属する振舞いは、先日の葉狩の朗読会の影響だったにちがいない。ぼくだってたまには、自分の言葉をこの世にたたきつけることだってあるのだ。舌はなめらかに動いてくれた。ただの親睦会、ただの仲良し会になってしまったシルクロードクラブを攻撃した。
「おれたちがこのクラブを発足させたときのことを思いおこそうじやないか。おれたちは少なくともある時期まで、ともに大いなる夢、大いなるロマンをかきたてあった同志だった。それがどういうことだ。もうただの惰性で動いているだけじゃないか。情熱もなければ、野望もない。この会はただ飲み食いするだけの会になりさがってしまったんだ。
 家を買っただって? 銀行の利子はいくらだって? 金融公庫のほうが安上がりだって? なんというけちくさい話だ。おれたちはこんなにけちくさい計算をする人間だったのかね。学生時代、ただの一度だって、銀行ローンに人生を売り渡そうなんて考えなかったはずだぜ。あのころはもっとおれたちは大きなロマンを宿していた。もっと大きな野心をもっていた。
 それがどうだい、小心よくよくと利子の計算をしてやがる。おれたちはまだなんでもできるんだ。その証拠をいまから諸君におみせすることにする。そこに美しい女性が座っているが、その人は利子の計算をしている諸君にはふさわしくない。だからおれが連れ出すことにする。悪く思うなよ。
 おれだってたいした生き方をしているわけではない。どこに向かって歩くべきか、そのことだってまだよくわかっていない。しかしまだ敗れてはいない。おれはまだ戦っている。その人はそういう男だけにふさわしい女性なんだ。では、諸君、さようなら、だ」
 一斉にわき起こった怒号と罵倒と嘲笑を背に受けて、ぼくたちは外に出た。あと百年生きたって、これほど輝かしい演説はできないだろう。通りに出ると彼女が言った。
「あなたって野蛮人だわ」
「ある女性にもっと危険な男性になりなさいって言われたんだ」
「これ以上危険になったら、原始人になると思わない」
 彼女の手をとるとあの熱い波が流れてきた。あの夜の続きがはじまるのだ。
「なにか理由をつくらなければいけないのかしら」
「なんの理由?」
「あなたとこうして歩いている理由。なにか理由が必要だと思わない?」
「歩きたいから歩いているということじゃいけないのかな」
「それでいいのかしら?」
「それでいいんだよ」
「そういうことにしてしまったほうが簡単でいいわね」
「ぼくはうぬぼれ屋なんだ。いつもふられているくせに」
「どういうこと、それ?」
「つまり、君はぼくは会いにきたと思ったんだよ。少しおめでたすぎるかな」
「それ、正解よ。それでいいのよ」
 彼女はあかくなったぼくをいたわるようにそう言ってくれた。そしてこれが本当の理由だというように、
「あれから、るつぼを読んだのよ」
「うん」
「あれを読んでいたら、あなたのことが、ちらちらと目の前に浮かぶわけ」
「うん」
「なんだかあなたとまた歩いてみたいなと思ったの」
「それはアーサー・ミラーさんに感謝しなければいけないな」
「ミラーさんの魔女は素晴らしいわ。あの人は素晴らしい魔女をつくったのよ」
「君の魔女だって素敵なんだろうな」
「私の魔女は、どうやら足がないみたいだわ」
「箒にまたがっているわけ」
「そうなの。まだ空を飛んでいるのよ」
「そいつは素敵な魔女だな」
「でもそれじゃロンブンにならないと思わない?」
 それからぼくたちの話題は、西欧の中世史といったものになっていった。彼女は歴史学者になろうとしている女性だった。その彼女がいまどんな壁に突き当り、それをどのように乗り越えていこうとしているかを話してくれるのだった。
「こんな話、面白いのかしら」
「面白いよ」
「ロンブンの話なんてデイトにむかないという思想をもっているのよ」
「その思想はまちがっているよ」
「こんな話でも面白いという思想に乗り換えてもいいのかしら」
「思想というものは、乗り換えるためにあると思うんだがな」
「それもそうね」
「それで、どうなったわけ」
「どこまでいったのかしら」
「十九世紀の歴史思想が、危機に瀕したというあたりまでだよ」
 ぼくたちは日比谷公園を横切り、議事堂のほうにむかって歩いていた。大通りを車はせわしく流れているが、歩道には人影がなかった。ぼくたちの吐く息は白かった。公園の木立が冷気をより鋭くしているようにみえた。しかしぼくは少しも寒くはなかった。彼女のほうから熱い波がやってくるのだ。
「あなたって、いつもあんな演説するわけ」
「高校時代に生徒会の役員選挙でぶったことはあるよ。それ以来だ。まったく馬鹿なことをしたと思うよ」
「どうして馬鹿なことなの。なかなか正しい演説だったと思うわ」
「正しかったのかな」
「正しかったのよ。それは間違いないわ」
「だからこうしてぼくと歩いているわけだ」
「そういうことよ」
「昔は面白いやつらだったんだ。しかしだんだん、ただのサラリーマン、だだのマイホームパパになっていく。なんだかひどくさびしくなるんだ」
「それで幸福なんだわ」
「それでいいのかな」
「それでいいのよ」
 彼女は突き放すように言った。その口調は、幸福になった彼らとは全然別の人間なのだとでも言っているようだった。坂を下りて赤坂にでた。裏通りに立つ小さなビルのなかに《ビーノデヘレス》というクラブがあった。長いソファーに座って、席があくのを待っていたら、顔なじみのマスターがやってきて、テーブルをつくってくれた。
 宏子の頭上から黄色い灯が落ちてていた。宏子は美しかった。あの夜も美しくぼくの胸は痛んだ。今夜も美しく、ぼくの心はいよいよ疼く。恋に落ちたことはもう歴然としていた。長く苦しい夜がはじまるにちがいない。胸焦がれ、と女が歌っていた。失恋の歌だった。征服できるのだろうかとぼくは思った。無理かもしれない。宏子は高く白い頂だった。
 だからこそ登るのだとだれかが言った。しかし彼女には婚約者がいるのだ。彼女はもう征服されている。ぼくはこれ以上近づいていけぬ人間だった。それなのに白く高い処女峰をめざして歩きはじめた男のように、スペイン産の葡萄酒を乾いたのどに流しこんだ。
「君はどこからきたんだ。はるか遠い国からきたみたいだ」
「日本語がおかしいからかしら」
「そうじゃないよ。なんとなく君は変わっているんだ」
「どこで生れたと思う?」
「リスボンだろう?」
「そうなの。私のこともう調査ずみなわけ」
「西川に、ちらっときいたんだ」
「それからスペインを転々として、何度か西インド諸島に渡ったりして、地中海のあたりを、ぐるぐるとさまよっていたってことも調査ずみなのかしら」
「いや、そこまでは知らないよ」
「ようやくロンドンに住みつくようになったのは、私が九つのとき。それまで親子三人の放浪の旅は続いたの」
「まるでジプシーみたいだな」
「そうなの。さまよえる日本人だったのよ」
「君がはるか遠くの国からきた人のようにみえるのは、そのせいかもしれないな」
「それはあるのよ。とにかくそんな生活をしていたから徹底的にやられてしまったの。そういうことってあると思うわ」
「なにをやられてしまったんだ」
「根無し草の、無国籍みたいな人間になってしまったわけよ」
「そういうことなのかな」
「そういうことって、ちょっと大きな存在なのよ。とくに言葉のこと。タイプライターにむかうときいつもそのことに躓いてしまうの。いったい私は何者なのだろうって。そんなつまらないところで躓いているのよ」
「どういうことなんだ」
「つまり、なぜ英語で書かなければならないのかってこと」
「ロンブンを?」
「そうなの」
「英語で書いているわけ」
「そうなの」
「でも、それがどうして躓くことなんだ」
「日本語で書いていたら、多分こんなことで躓かないはずなのよ」
「そうかな」
「結局、私の言葉って、日本語ではなく英語なのよ。英語でだったらなんとか叩き続けることができるということなの。いつも思うのよ。私って帰る港のない難破船だって」
「どうして君が難破船なんだ?」
「難破船で、帰る家のない孤児だって。ちょっと落ちこんでいるときなんて、そういう思いがじわじわと攻め立ててくるの」
「どうして君が孤児なんだ?」
「一人ぼっちで生きているわけなのよ」
「両親もいないということ?」
「七年前に一人があの世にいってしまうと、もう一人もそのあとを追いかけてしまったっていうことなの」
「前の一人っていうのが君の父親で、迫いかけていったもう一人が君の母上ってことかな」
「その逆」
「君のお父さんはなにをしていたんだ」
「なにをしていたって、ちょっと複雑な人だったのね」
「どんなふうに複雑だったわけ」
「どう言えばいいのかしら。貿易商ってことにするのが一番通りがいいようね。でもその仕事がうまくいって、ロンドンに田島商会を構えるまでになったのは、まったく母の力だったわね。母ってそういう才能があったの。父は結局商人にはなれない人だったのよ。アイデアは次々に湧いてくるの。それでそれを企画して、実際に動いていくわけ。でも父がやった仕事でうまくいったものはほとんどなかったわ。気づいたときはものすごい赤字で、その穴埋めにいつも母が奔走することになるわけ。それにこりて、しばらく鳴りを静めているけど、また新しい仕事を思いついて、これは儲かるぞ、これこそ新しい時代の仕事だってさかんに吹きまくるのね。だから私はよく言ったのよ。パパって、喇叭吹きになればよかったわねって。
 いろなことができたの。それがちょっとしたもので、オルガンでバッハをよく弾いていたけど、なかなかのものだったし、油絵も描いていて、何度か個展なんかも開いたことがあるの。いつもいらいらしていて、ときどきすごい爆発をおこすけど、そんなときはもう大変なのよ。でもしばらくすると、おれは陽気な男、陽気な男が皿を三十枚割ったなんて歌いながらあと片付けするの。だから私はよく言ったわ。パパはコメディアンになればよかったわねって」
「君はお父さんをとても愛していたんだね」
「ええ、大好きだったわ。父って結局、逃亡者だったのよ」
「どうして逃亡者なんだ」
「そんなふうに生れてしまったということかしら。だからあっちの国、こっちの国と逃げまわったんだと思うのよ」
「どういうことなんだ」
「黒い血から迷げようとしていたの。どこに迷げても同じことなのに」
「わからないな」
「わからないでいいことだと思うわ」
「だから、わからないように言ったわけだな」
「そうなの」
「君は日本語を一つだけまちがって使っているよ。わからないでいいよっていう言葉。なぜそんなに簡単にきめつけてしまうんだ」
「わからないことがあると思わない」
「それはあるさ」
「話したくないことだってあるのよ」
「近づいていけば近づいていくほど、君は遠くにいってしまう人みたいだな」
「それは私が難破船だからだわ」
「そうじゃないよ。君があまりにも白く高すぎるからだよ」
「それどういうこと?」
「わからないでいいんだよ。わからないように言ったんだから」
 この店のおかかえ歌手が、ギターを奏でながら歌いはじめた。そのショーをみるために宏子の脇に椅子を寄せると、膝がくっつきあった。ぼくは彼女の手をとり指をからめた。すると彼女の指から愛の波のようなものが流れてきた。これは愛の波なのだろうか。そんなことがあるのだろうか。ぼくたちは別の道を歩いているのであり、ぼくたちのあいだには絶望的な岩だってあるのにだ。しかし彼女のほうからもたしかに熱い波が静かに打ち寄せてくるのだ。
 この女を征服できるかもしれないとぼくは思った。この女を征服するために彼女のすべてを知りたいと思った。どこから歩いてきて、どこに向かって歩いていくのかを。そしてこの世だって決して捨てたものではないことを、彼女のなかにひかりとなって入っていきたいと思った。
「君にむかって歩いていってもいいのかな」
 とぼくは言った。歌が終わって、ぱらぱらと拍手がおこった。そして彼女がこたえた。
「私ってとても臆病なの。でも勇気のあるところもあるのよ」
 帰りの車のなかで、ぼくたちは接吻した。彼女はあの夜のように冷たくはなく、唇には情熱さえあった。
「それはだめだわ」
 と彼女は小さく言った。
「どこかにいきたいな」
「私って、全然軽い女なのよ。でも重いところもあるのよ。変な言葉ね」
 ぼくはまた彼女の口をふさいだ。彼女だって燃えているのだ。もう少しなのだ。
「ねえ、いいじゃないか」
「そんな準備してこなかったのよ」
「準備なんていらないよ」
「準備がいるのよ」
「どんな準備をするんだ?」
「あなたってもっと軽い人だったのよ」
「どうせぼくは軽い男だよ」
「でもわかっていたのよ。こんなことになることが」
「電話してもいいかな」
「いいわと言ってもいいのかしら」
「いけないと言ってはいけないことだよ」
「なんだかとても重くなると思わない」
 タクシーは構浜の高台にのぼっていった。車窓から宝石をばらまいたような港のひかりがちらちらとみえた。外人墓地を抜けて、小さな裏通りをまがると、彼女がタクシーを止めた。木立のなかに赤煉瓦のマンションが眠りについていた。車を下りた彼女が手を振った。ぼくも車のなかから手を振った。
 深夜の赤信号はいやに長く感じる。その赤信号が青に変わり、運転手はギアをすばやくサードに入れてて突っ走ろうとするが、また赤信号にひっかかる。ぼくの乗ったタクシーは、まるで赤信号をめざして走っているようだった。
 流れる夜の景色に目をやりながら、ぼくはなおも打ち寄せる波の余韻にひたっていた。熱く静かな波だった。愛と官能の波だった。結婚は敗北だった。それはなによりもあの仲間たちが如実に語っている。どいつもこいつも小さくなっていく。長い髪は刈られ、牙は抜かれ、どこにも脱出できないように焼印される。そんな仲間たちを横目にしながら、結婚よりも孤独を選ぶ、小さな幸福よりも大きな絶望を背負うと気負ってきたものだ。だがいったいぼくはなにをしてきたというのだろうか。きれいなほどなにもしてこなかったではないか。
 ぼくはもう結婚しているんですかとは訊かれない。お子さんは何人ですかと訊かれる。まだ独身なんですとこたえると、相手は一瞬、この世から脱落した汚れたものでもみるような目をむけるのだ。もしかしたらほんとうにぼくは汚れているのかもしれなかった。汚れた三十歳だ。なにもしてこなかった三十歳だった。孤独が人を強くしたり、向上させたりすることはない。孤独はなにももたらさない。それどころかぼくはおびえているのだ。このところきまって夜がしらじらと明けるころに目がさめる。そして白い朝のなかで、おれはこの世ととけあわない路傍の石ころであり、捨てられた廃船なのではないのかと思うのだった。
 その週は忙しかった。アメリカ西海岸のロケで一週間あけるので、その分の仕事を片付けておかなければならなかった。朝からかけずりまわり、深夜まで雑務に迫われて、やっと大倉山のアパートにもどるのは二時だった。しかしぼくのなかで音楽が鳴り続けていた。官能の音楽、愛の音楽、新世界の音楽が。喫茶店で、タクシーのなかで、歩いているときに、深夜のオフィスで、ぼくのなかに宏子があらわれるのだ。あの声が、あの唇が、あのしっかりとからめてくる指が。彼女を思うときぼくの全身は発情した馬のようになる。
 宏子のマンションに電話をいれたのは、アメリカに立つ前の日だった。何度も受話器をとったが、こわくて最後までダイヤルをまわせなかった電話だった。宏子はすぐにぼくだわかった。しびれるような声だった。
「ずいぶんにぎやかなところにいるのね」
「渋谷のセゴビアというところにいるんだよ」
「スペイン風のバーかなんかということかしら」
「そうなんだ」
「あなたって、スペイン風が好きなのね」
「今度、君をここに連れてくるよ。アメリカからもどってきたら」
「ああ、それはうれしいわ」
「明日発つんだよ。君にインディアンの首飾りでも買ってこようかな」
「いいアイデアだと思うけど、もう私は花の乙女ではなくてオールドミスなのよ」
「どうして君がオールドミスなんだ」
「このごろ年だなって思うの」
「馬鹿なことを言うなよ」
「行き詰まると年のせいにしてしまうのってよくないわね」
「また行き詰まったわけ」
「そうなの」
「君は行き詰まるという人だな」
「ほんとうね」
 そのとき受話器の奥で男の声がした。その瞬間あらゆるものが消えていった。宏子はたちまち黒くなった。宏子の背後に男がいるのだ。もう会話を続ける力がなかった。じゃあまたと言って、一方的に電話を切ってしまった。
 そうなのだ。あの女はあの男のものだった。あの唇も、あの笑いも、あの肉体も。彼らはいまベッドのなかにいる。そしてぼくを笑いあっているのだ。この哀れな道化役者を。何度も何度も打ち消そうとしてはあらわれてきた真実に、やっとめぐりあったというわけなのだ。もともとも彼女はあの男のものだった。そのことがわかっていながら、甘い幻想を一人でつくりあげていたにすぎないのだ。グラスに残っていたウイスキーをぐいとあおると、あんな女はくそったれだと八つ裂きにしようとした。しかし宏子はぼくのなかで、いよいよ高く白い処女峰となってそびえ立つのだった。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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