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チェーホフ、サハリン旅行、そして晩年

アントン・チェーホフ  原卓也

 
サハリン旅行

 一八九〇年、彼が結核の身をおして敢行したサハリン旅行は、まさしく新しい境地を開拓しようという気持の具体的なあらわれにほかならなかった。シベリヤ鉄道のまだ完成していない当時、鳥も通わぬサハリンまで旅することは、今日なら、北極に行くような、いや、ことによるとそれ以上の大事業だったし、事実チェーホフはこの旅で生命すら危いような事態に何度か遭遇している。サハリン島の地理や歴史、流刑史などあらゆる方面にわたって周到な準備をととのえた彼は三ヵ月かかってサハリン島に到着し、流刑地を詳細に視察調査したあと、香港、シンガポール、セイロン、オデッサをへて、出発から八ヵ月後の十二月、モスクワに帰った。
 
この旅行は「シベリヤの旅」、厖大な調査報告「サハリン島」などの直接的な成果をもたらしたほか、「グーセフ」「追放されて」「女房ども」「殺人」などの作品を生む母胎ともなった。また、サハリン島に対して読者からは賞讃と感嘆の声があがり、これがやがてサハリンへの寄付や、図書館、学校などの建設運動、さらには当局による流刑施設の改善などの結果をもたらすことになった。
しかし、この旅行のいちばん大きな成果は、作家チェーホフのものの見方に生じた変化であった。
 
サハリン旅行前、チェーホフは一時トルストイの思想に深い関心をよせ、親しい友人であるキセリョーワ夫人への手紙で「悪に抗するなかれ、という思想の是非は未来が決定してくれるはずです」と述べもしたし、直接トルストイズムを扱った「善人たち」のような作品を書いてもいるが、サハリンの流刑地の実情をつぶさに調査したあとでは、もはや旅行前に強く心を打たれたトルストイの「クロイツェル・ソナタ」でさえ、無意味な作品に思われるようになった。トルストイの説くことが、現実を無視した空論と感じられたのである。
 
それと同時に、サハリン島の現実すら知らずに、もっともらしい議論にうつつをぬかしている多くのインテリゲンツィヤに対してもチェーホフは不信をいだいた。ロシアでは事実面はひどく貧しいくせに、議論ばかり多すぎる、という彼の苦い言葉は、この新しい境地から生まれたものである。デビュー当時から常に作品を貫いていた虚偽に対すろ彼の憎しみはいっそう強いものとなった。
 
 
メリホヴォ時代
 
サハリン旅行後、チェーホフは田舎に引きこもることを決意して、領地を探し求めた、それは、一つには、領地にこもってモスクワのあくせくした生活や、金銭の苦労から解放されるためであったし、また、モスクワの生活をつづけていれば健康を決定的にそこねてしまうだろうという恐れからでもあった。こうして一八九二年三月、モスクワから南へ七十数キロ下ったロパスニヤ市(現在のチェーホフ市)近郊のメリホヴォに領地を買い求めた。二一三デシャチーナ(約七十万坪)の、半ば以上は森におおわれた静かな土地で、登記手数料を含めて一万四千ルーブル弱の買物だった。チェーホフはメリホヴォに七年暮らすことになるが、「六号室」にはじまる円熟期の数々の傑作は、この土地で書かれたのである。
 
「六号室」は、進歩的な雑誌「ロシア思想」に発表され、すさまじい反響をよんだ作品である。精神病院の医師がインテリの患者に関心をよせ、毎日病室を訪れて抽象的な議諭を交わしているうちに、自分も周囲から狂人とみなされて暴力的に鉄格子の奥に閉じこめられ、最後は狂暴な守衛に殴り倒されて無惨な死をとげるというこの物語は、ツァーリ専制の下で窒息しかけていた当時のロシアで、さまざまな受けとり方をされた。トルストイの無抵抗主義に対する訣別の書と見る者もいた。また、作家のレスコフは「六号室」こそロシアの真の姿にほかならないと詠嘆した。
 
レーニンはこの小説を読んで、自分が六号室に閉じこめられたような恐ろしさを感じた、と述べている。どの読み方も正しい。と同時に、先ほど述べた、インテリゲンツィヤに対するチェーホフの批判と不信がこの作品にも感じとれることを指摘しておかなければなるまい。つまり、苦痛や死は軽蔑すべきであるなどという議論を狂人相手に楽しんでいた医師ラーキンは、自分が実際に精神病院に閉じこめられ、鉄格子の外に高い灰色の塀を見た時にはじめて、これが現実なのだ、と理解するのである。これは後期のチェーホフの作品に一貫している主要なテーマにはかならない。
 
メリホヴォでのチェーホフは、社会的問題を積極的に扱った作品を書きつづける一方、実生活でも社会運動と取り組み、村に病院や小学校を建てたり、図書館に厖大な数にのぼる本を寄付したり、誠実な医者として百姓たちを無料で診察してやったりした。一八九二年の大飢饉の時には、すでに肺と腸の結核がかなり進行していたにもかかわらず、難民救援のために精力的に活躍し、九三年にはコレラ防疫のために近隣の村々をとびまわった。こうして民衆の生活に深く入り込み、彼らの実情を知れば知るほど、不潔な未開な環境の中で豚のような生活をしている農民たちのどうしようもない現実が、チェーホフの心を深くえぐり、時には腹立ちや情なさをおぼえることもあったが、それでも彼は農民に同情をよせ、愛さずにはいられなかった。
 
と同時にここでも彼は、口先でこそ進歩とか、人生の理想とか、社会の改革とかを論じながら、実際には何一つすることなく、カードや酒に無気力な惰性的な生活を送っている多くの知識人に不快をいだくのだった。そして、本来は理想に燃える誠実な人間であったはずの彼らを、そのような俗物に仕立てあげてしまう「生活の日常性」を憎んだ。この時期に書かれた「三年」「中二階のある家」「わが人生」「百姓たち」などの名作は、いずれもチェーホフのそうした信念から生まれた作品である。
 
「箱に入った男」「すぐり」「恋について」は、連作として書かれた作品である。「箱に入った男」の主人公である教師べりコフは、決して自分の意見や思想を外にあらわそうとせず、何事においても常に規則からの逸脱をおそれ、自分や他人の生活を無数の「禁止」で縛りつけようとする。つまり、みずからを窮屈な箱につめこんだ人間というわけだが、チェーホフに言わせるなら、箱とはすなわち、人間の自由な精神の活動を妨げる俗悪な生活にほかならなかった。ひときれのバンのため、暖かい住居のため、下らぬ官位のために、嘘をついたり、侮蔑や屈辱を我慢したりしていることは、とりも直さず、自分を箱につめていることなのである。
 
「すぐり」の主人公にしても、自由な精神のあらゆる特質をのびのびと発揮させるために、倹約に倹約をかさね、ようやく念顛の領地を手に入れたとたん、見せかけの幸福にどっぷりと浸りきって、すぐりの酸っぱい実を食べることに人生の喜びを見いだすようになってしまうのである。「イオーヌイチ」もやはり、理想や情熱に燃えていた若い医師が、人生の意義を考えることをやめ、食べて寝るだけといった惰性的な生活の波に巻きこまれて、自分の人生を持たぬ俗物に堕落してゆく話である。
 
 
晩年
 
一八九七年、チェーホフはスヴォーリンとの食事中に大喀血をした。大学を卒業した年の最初の喀血以来、だれに対しても結核であることを否定しつづけ、自分でもむりにそう信じこもうと努めてきたチェーホフも、今や本格的な療養の必要を感じ、冬も暖かいクリミヤ半島のヤルタに土地を買い求め、九九年の夏に移り住んだ。この土地で彼は「可愛い女」や「犬を連ねた奥さん」のような晩年の傑作、チェーホフの世界を集大成した戯曲「三人姉妹」や「桜の園」を書きあげたのだった。彼の戯曲はスタニスラフスキーとネミロウィチ・ダンチェンコのひきいるモスクワ芸術座というよき理解者を得て、ロシア演劇の不滅のレパートリイとなった。ヤルタはまた、ゴーリキイ、ブーニン、クブリーンといった二世代下の作家たちとの交友で、チェーホフの心を楽しませてくれた土地でもあった。
 
一九〇一年、彼はモスクワ芸術座の女優オリガ・クニッベルと結婚した。母にも、また独身を通して彼のために仕えてくれていた妹マリヤにも打ち明けず、友人たちにも内緒でひそかに式をあげた結婚だった。この時代までチェーホフの人生に女性がまったく登場しなかったわけではない。二十六歳の年に彼は半ば真剣にあるユダヤ娘との結婚を考えたというし、その後も、「かもめ」のニーナの原型といわれるリディヤ・ミジーノワ、「恋について」のモデ儿とされている人妻リディヤ・アヴィーロワなどとの問に、恋愛に近い関係はあったのだが、いずれも実らなかった。
 
若い頃のチェーホフは、かりに好きな女性ができたとしても、貴族作家のように領地や遺産があるわけでもなく、身を粉にして金を稼がねばならぬ生活や、自分の首にぶらさがっている両親や弟妹の大家族を考えたなら、とても結婚になど踏みきれなかったのであろう。そして、作家としての地位を確立してからは、結婚することによって、生活の日常性のくびきに自分がとらえられることを、彼は嫌った。「自分の結婚の条件──彼女の方はモスクワに住み、僕は田舎に住んで、僕の方から会いに行く。来る日も来る日も、朝から朝へ、だらだらつづく幸福など我慢できない」と、スヴォーリンに言ったチェーホフは、あくまでも自分の生活を大切にする人間であった。
 
 その点、一年の半分はモスクワ芸術座で仕事をし、みずからも独立した女性であるクニッペルであれば、生活が惰性的になるおそれはなかった。新しい世紀に入って、時代は大きく変わろうとしていた。もはや八〇年代の沈滞と無気力はなく、一九〇五年に向かってロシア全土で革命的気運がもりあがっていた。文学の世界でもメレシコフスキー、ブリューソフらによるロシア・シンボリズムが新しいページを開きつつあった。そうした中でチェーホフは、あくまで自分の世界に生きつづけ、自分の文学を完成したのである。
 
 トルストイが絶讃し、四度もつづけて声をだして朗読したと言われる名作「可愛い女」は、「人間は自己の人生を生きねばならぬ」というチェーホフの考えを、いわば裏返しの形であらわした作品と言ってよい。主人公オーレニカは不幸な運命にもてあそばれて何度も男を変えるが、そのたびに新しい夫の意見をそのまま自分の意見とし、そ
れに合わせて生活を築いてゆく。彼女は自分の言葉では何一つ語ることができない。というより自分の言葉を持たないのである。何かしら頼るものがないと生きてゆくことのできないオーレニカのような女性は、男から見れば「可愛い女」ではあっても、やはり真の自己の人生を生きているとは言えないだろう。
 
「犬を連れた奥さん」の主人公グーロフとアンナの恋は、最初グーロフにとってはそれまで数多く経験した行きずりのアバンチュールの一つのはずだった。だから、最初の肉体関係のあと、アンナが罪の意識と自己嫌悪に苦しんでいるのに、グーロフは平然と西瓜を食べたりしていられたのである。ところが、アンナと二人でオレアンダの公園に行き、夜明けの海のざわめきをききながら、人間の存在と永遠の問題を考え、さらにアンナと別れたあと、自分をとりまく生活の俗悪さをつくづく意識した時から、はじめて彼の恋は本物になる。しかし、互いに家庭を持つ身の二人にとって、愛が本物になればなるほど、障害と苦悩もまた大きなものとなる。時たまの逢引きで、どうすれば現在の偽りの生活から脱けだせるかを考え、もう少しすれば解決のめどがついて新しいすばらしい生活がはじまるような気持になるグーロフとアンナにとって、本当の人生はやっとはじまりかけたばかりだと言えるだろう。この作品からは、かつて『わびしい話』にこめられていた「こんなふうに生きてゆくことはできない。どうすればいいのだろう」という悲痛な叫びが、ふたたびききとれるのである。
 
真の人生への希求は、当然、よりよい新しい生活への期待に結びつく。それはまた、最後の小説「いいなずけ」の主題でもある。ごく平凡な家庭に育ち、平凡な男との結婚を目の前に控えていた若い娘ナージャは、無為徒食の生活の罪深さを説く青年サーシャの影響で、ふいに自分の生活のくだらなさを自覚し、すべてを投げすてて家出する。一年後わが家に戻った彼女には、もはやすべてが古くさい、寿命を終えかけているもののように思われる。そして、彼女は明るい新しい生活に向って、今度こそ永久に古い生活に別れを告げるのである。
 
少年時代から一貫して「進歩」を信じつづけ、一九〇五年の第一次革命直前の社会の激動期の中で「この世のことはすべて、よいことにつながるのだ」と妻オリガ・クニッペルに説いていたチェーホフの、人間の未来に対する信頼がこの小説には色濃くあらわれているし、それはまた晩年のいわゆる四大戯曲に一貫する主題とも重なり合うのである。


 
 

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