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桜の園 第一幕 アントン・チェーホフ

 登場人物
ラネーフスカヤ(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)女地主
アーニャ その娘、十七歳
ワーリャ 養女、二四歳
ガーエフ(レオニード・アンドレーエウィチ)ラネーフスカヤの兄
ロバーヒン(エルモライ・アレリクヤーエウィチ)商人
トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエウィチ)大学生
シメオーノフ・ビーシチク(ボリス・ボリーソウィチ)地主
シャルロッタ(イワークノヴナ)住込みの保母
エビホードフ(セミヨ-ン・パンテレーエウィチ)帳簿係
ドゥニャーシャ 小間使
フィールス 召使、八十七歳の老人
ヤーシャ  若い召使
通行人
駅員
郵便局員
客や召使たち

舞台はラネーフスカヤカ領地


 第一幕

いまだに子供部屋と呼ばれている部屋。ドアの一つはアーニヤの部屋に通じている。夜明け、もうすぐ日の昇る気配。もう五月で、桜の花が咲いているが、庭は寒く、朝霜がおりている。部屋の窓はしまっている。
(蝋燭を持ったドゥニャーシャと、本を手にしたロバーヒン登場)

ロバーヒン  汽車が着いたようだね、ありがたい、何時だい?
ドゥニャーシャ  もうすぐ二時です。(蝋燭を消す)もう明るいんですね。ロバーヒン  結局、汽車はどれくらい遅れたのかな? 少なくとも、二時間は遅れたね。(あくびをして、伸びをする)俺も立派だよ、とんだへまをしたもんさ。駅で出迎えるために、わざわざここまでやって来たってのに、ひょこり寝すごしちまうんだから……腰かけたまま、寝入っちまってさ、いまいましい……起こしてくれたっていいだろうに。
ドゥニャーシャ  お出かけになったものとばかり思ってましたわ。(耳をすます)馬車が来たんじゃないかしら。
ロハーヒン  (耳をすます)いや……荷物の受け取りだの、あれやこれやあるからね……(間)リュボーフィ・アンドレーエヴナは外国で五年も暮らしてこられたから、どんなふうにお変わりになったか、見当もつかんよ……いい人だったね。飾らない、気さくな人だ。今でも覚えているが、俺が十四、五の洟たれだった頃、死んだ親父が‥‥親父はその頃この村で店を開いていたんだけど、拳固で俺の顔を殴りつけて、鼻血が出たことがあったんだ……あの時は何かの用事でいっしょにお屋敷にうかがって、親父は一杯機嫌だったんだな。今でも思いだすよ、リュボーフィ・アンドレーエヴナはまだお若くて、そりゃほっそりしてらしたけど、この俺を洗面台に連れてってくれてさ、そう、ちょうどこの部屋だ、子供部屋だったよ。そして、「泣かないのよ、おチビさんでも百姓でしょ、お嫁さんをもらうまでには癒るわ」って、おっしゃったもんだった、(間)おチビさんでも百姓、か……たしかに俺の親父は百姓だったけど、この俺は白いチョッキに、黄色い皮靴なんぞはいてさ。柄にもなくってとこだ……そりゃ俺は金持だ、金はたくさんある。しかしよくよく考えてみりゃ、百姓はやっぱり百姓だからな……(本のページを繰る)現にこの本を読んだって、何ひとつわからなかったし、読んでるうちに、寝ちまったよ。
 〔間〕
ドゥニャーシャ  犬が一晩じゅう眠らないんですよ。ご主人がお帰りになるのを感じとってるんですわ。
ロパーヒン  どうしたい、ドゥニャーシャ、そんな様子をして‥‥
ドゥニャーシャ  手がふるえるんです。あたし、気が遠くなりそう。
ロパーヒン あんたは実にひよわだからね、ドゥニャーンャ、身なりもお嬢さんみたいだし、髪の形だってそうだ、それじゃいかんよ。分をわきまえなけりゃ。
(エピホードフ、花瓶をかかえて登場。背広姿で、ぴかぴか磨きあげた皮長靴がひどく軋み音をたてる。登場するなり、花束を落す)
エピホードフ  (花束を拾い上げる)これを食堂に活けるようにって、庭番がよこしました。(ドゥニャーシャに花束を渡す)
ロパーヒン  そしたら、俺にクワスを持ってきておくれよ。
ドゥニャーシャ  わかりました。(退場)
エピホードフ  今は朝霜がおりて、零下三度だってのに、桜は満開なんですからね。どうもロシアの気候は感心できませんね、(溜息をつく)まったく。ロシアの気候は、ぴたりという時期に合うことができないんだから。それはそうと、エルモライ・アレクセーイチ、ついでに言わせていただきますが、実はおとといこの長靴を買ったんですがね。ほんとの話、あまりキューキュー鳴るもんで、どうしようもないんですよ。何を塗ればいいもんでしょうね?
ロパーヒン  うるさいな。うんざりだよ。
エピホードフ  わたしには毎日、何かしら不運なことが起こるんですよ。それでもわたしは泣き言なんぞ言いません。もう慣れてしまいましたから、笑ってすませてるくらいです。
(ドゥニャーシャ登場、ロパーヒンにクワスを差し出す)
エピホードフ  じゃ、わたしはこれで、(椅子にぶつかって椅子を倒す)ほらね………(むしろ得意そうに)ね、そうでしょ。そう言いちゃなんですけど、こういう按配でしてね、まったく‥‥こうなると、いっそ見事と言いたくなりますんよ‥‥(退場)
ドゥニャーシャ  あたしね、エルモライ・アレクセーイチ、打ち明けてしまうと、エピホードフさんにプロポーズされたんてす。
ロパーヒン  ヘえ!
ドゥニャーシャ  どうしたらいいか、わかりませんわ……おとなしい人なんだけど、ただ、話しはじめると、さっぱりわからない時があって。話上手ですし、ほろりとさせもするんですけど、要領を得ないんですもの。あたしもあの人を好きみたい。あの人の方はあたしにぞっこんまいってますわ。あの人、運がわるくて、毎日何かしら起こるんです。だから、ここではあの人のことを、二十二の不幸せなんてからかうんですわ。
ロパーヒン  (耳をすます)馬車がくるみたいだよ……
ドゥニャーシャ  来ますわ! あたし、どうしたのかしら……身体じゅう冷たくなってしまって。
ロパーヒン  ほんとに馬車だ。お出迎えに行こうや。奥さまに俺がわかるかな? 五年もお目にかかっていないから。
ドゥニャーシャ  (胸をどきどきさせて)あたし、今にも倒れてしまいそう……ああ、倒れてしまうわ!

〔二台の馬車が屋敷に乗りつけるのがきこえる。ロバーヒンとドゥニャーシャ、足早に退場、舞台は空っぽになる。隣接する各部屋でざわめきがはじまる。ニフネーフスカヤを出迎えに行ってきたフィールス、ステッキにすがりながら、せわしげに舞台を通りすぎる。古めかしい制服に、高い帽子をかぶり、何かひとりつぶやいているが、一言もわからない。舞台裏のにぎわい、ますます強まる。(こっちから行きましょうよ)という声、ラネーフスカヤ、アーニャ、小犬を鎖でひいているシャルロッタ、以上みんな旅行の服装で、さらに外套にプラトーク姿のワーリャ、ガーエフ、ピーシチク、ロパーヒン、包みと日傘を持ったドゥニャーシャ、荷物をかかえた召使たち──みな、部屋を通ってゆく〕

 アーニャ  こっちから行きましょうよ。ねえ、ママ、この部屋、なんだかおぼえていて?
ラネーフスカヤ  (うれしそうにね、涙声で)子ども部屋!
ワーリャ  寒いわ、手がかじかんでしまった。(ラネーフスカヤに)お毋さまのお部屋は、白いお部屋も、すみれ色の方も、そっくりそのままになってますわ。
ラネーフスカヤ  子供部屋、なつかしい素敵なお部屋だわ……子供の頃、わたしはここで寝たのよ……(泣く) 今だって、子供みたいなものだけど……(兄とワーリャに、さらにふたたび兄に接吻する)ワーリヤは相変わらず元のままね、尼さんみたいで、ドゥニャーシャもすぐにわかったわ……(ドゥニャーシャに接吻する)
ガーエフ  汽車が二時間遅れたものな。どうだい? なんて規律だろう?シャルロッタ  (ピーシチクに)わたしの犬はクルミも食べるんですよ。
ピーシチク  (おどろいて)まさかそんな!
(アーニャとドゥニャーシャのほか、退場)
ドゥニャーシャ  待ちわびていましたのよ、あたしたち‥‥
(アーニャとドゥニャーシャのほか、一同退場)
アーニャ  連中、四日も眠れなかったわ‥‥‥今はすっかり凍えてしまったし。
ドゥニャーシャ  お嬢さまがお立ちになったのは真冬の大斎期で、あの畤は雪も降ってましたし、ひどい寒さでしたけれど、今はどうでしょう? 可愛いお孃さま! (笑い声をたて、接吻する)待ちわびてましたのよ、お嬢さま……今すぐ申しあげちゃいますわ、一分だって我慢できませんもの……
アーニャ  (けだるく)まだ何かあるの……
ドゥニャーシャ  帳簿係のエピホードフさんが、復活祭のあとであたしにプロポーズしたんですの。
アーニャ  いつもそんなことばっかり………(髪を直しながら)ピンをみんな失くしちゃったわ……(ひどく疲れきった様子で、足どりもおぼつかない)
ドゥニャーシャ  何を考えたらいいのか、わからないんです。あの人、あたしを愛してますの、とても愛しているです‥‥
アーニャ  (自分の部屋の戸口をのぞきこんで、やさしく)あたしのお部屋、あたしの窓、まるで旅行なんかしなかったみたい、あたし、家に帰ってきたのね! 明日の朝、起きたら、すぐお庭にとびだそう……ああ、寝入ることさえできればね! 道中ずっと眠れなかったのよ。不安に苦しめられて。
ドゥニャーンヤ  おとといからピョートル・セルゲーイチがいらしてますわ。
アーニャ  (嬉Lそうに)ペーチャが!
ドゥニャーシャ  サウナ小屋でやすんでらっしゃいます。寝起きもそちらですの、窮屈な思いをさせちゃわるいから、なんておっしゃって。(懐中時計をのぞいて)お起こしすればよろしいんでしょうけど、ワルワーラ・ミハイロヴナがいけないとおっしゃるので。起こすんじゃないよ、ですって。
 (ワーリャ登場。鍵束をベルトにさげている)
ワーリャ  ドゥニャーシャ、コーヒーを早くね……お母さまがコーヒーですって。
ドゥニャーシャ  はい、ただいま。(退場)
ワーリヤ  よかったわ、みんな無事に着いて。あんたはまだ家にいるし。(やさしく可愛がって)可愛い子が帰ってきた! 我が家の美人がかえってきたのね!
アーニャ  ずいぶん辛い思いをしたわ。
ワーリャ  想像できるわ!
アーニャ  ここを出たのが、キリスト受難週間だったわね。あの時はまだ寒かったわ。シャルロッタは道中しゃべりつづけで、手品ばかりしてみせるのよ。どうしてシャルロッタなんか、つけてよこしたの?
ワーリャ  だって、あんたに一人旅をさせるわけにいかないじゃないの、十七なんですもの!
アーニャ  バリに着いたら、寒くてね、雪が降っているの。あたしのフランス語ときたらひどいものでしょ。ママは五階に住んでいて、あたしが行ったら、なにやらフランス人の男や女や、本をかかえた年寄りの牧師さんだのがいて、煙草の煙は立ちこめているし、とても居心地がわるいの。あたし、急にママが気の毒になっちゃったわ。とても気の毒になったんで、ママの頭を抱きしめて、両手でしめつけたまま、放せなかったほどよ。ママはそれからのべつ甘えて、泣いてばかりいたわ……
ワーリャ  (涙声で)もう言わないで、言わないでいいわ。
アーニャ  ママはマントン郊外の自分の別荘ももう売り払ってしまって、何一つ残っていないのよ、何一つ。あたしだって、一カペイカも残っていなくて、帰りつくのがやっとだったわ。それなのに、ママはわかっていないのよ。駅でレストランに入ると、いちばん高いものを注文するし、ボーイたちに、ルーブルずつチップをはずんだりして。シャルロッタもそうなの。ヤーシャまでちゃんとワンーコース注文するんだもの、ひどい話よね、まったく。ママのとこにヤーシャつて召使がいるでしょ。ここへ連ねてきたのよ……
ワーリャ  見たわ、いやらしいやつね。
アーニャ  で、どうなの? 利息は払ったの?
ワーリヤ  とんでもない。
アーニャ  困ったわね、ほんとに……
ワーリャ  八月には領地も売ることになるでしょうよ……
アーニャ  困ったわね……
ロバーヒン  (戸口からのぞきこんで、牛の鳴き声の真似をする〕モオー…(退場)
ワーリャ  (涙声で)ほんとに、ぶってやりたいわ……(拳で脅す)
アーニャ  (ワーリャを抱いて、小さな声で)ワーリャ、あの人、プロポーズしたんでしょう。(ワーリャ、首を横にふる)だって、あの人、あんたを愛してるのよ……どうして二人でよく話し合わないの、何を待っているのよ?
ワーリャ  あたし、こう思うのよ。あたしたち、どうもなりはしないわ。あの人、仕事が多すぎて、あたしどころじゃないし‥‥注意も向けてくれないもの。いっそすっかりいなくなってくれる方がありがたいわ。会うのが苦しくて……みんなはあたしたちの結婚を噂したり、お祝いを言ったりしてくれるけど、実際には何もないんだもの。夢みたいなものだわ……(口調をかえて)あんたのそのブローチ、ミツバチみたいね。
アーニャ  (悲しそうに)ママが買ってくれたの。(自分の部屋に行き、明るくあどけなく言う)パリで軽気球に乗っちゃった!
ワーリャ  可愛い子が帰ってきた! わが家の美人が帰ってきたんだわ!
(ドゥニャーシャはコーヒー・ポットを持ってすでに戻ってきており、コーヒーを沸かしている)
ワーリャ  (戸口にたたずんで)あたしね、一日じゅう領地の経営のことで歩きまわりながら、いつも空想しているのよ。あんたをお金持のところへお嫁にやれたらなって。そうすればあたしもいくらか安心できるだろうし、ひとりで修道院にでも入って、それからキエフや、モスクワという具合に、ずっと聖地めぐりをしてみたいわ……どんどん聖地めぐりができたらね……素敵!
アーニャ  庭で鳥がうたっているわ。今、何時?
ワーリャ  きっと三時近いわ。あんたはもう寝る時間よ。(アーニャの部屋に入りながら)素敵だわ!
(膝掛けと旅行バッグを持ったヤーシャ登場)
ヤーシャ  (舞台を通り抜けようとして、上品に)こちらを通らせていただいてさしつかえございませんか?
ドゥニャーシャ  まるで見違えるようだわ、ヤーシヤ。外国にいる間にすっかりお変わりになって。
ヤーシャ  ふむ……どなたでしたっけ?
ドゥニャーシャ  あなたがここをお立ちになった畤、あたしまだこんなでしたものね……(床からの高さを手で示す)ドゥニャーシャです、フョードル・コゾエードフの娘の。おぼえてらっしゃらないのね!
ヤーシャ  ふむ……リンゴちゃんか!(あたりを見まわし、彼女を抱きすくめる。彼女は悲鳴をあげて受皿を落とす。ヤーシャ、足早に退場)
ワーリャ  (戸口で、不満げな顔で)何をしたの、また?
ドゥニャーシャ  (泣き声で)お皿を割りました……
ワーリャ  それは縁起がいいのよ。
アーニャ  (部屋から出てきながら)ママに予告しとく必要があるかもね。ペーチャが来ているって……
ワーリヤ  起こさないように言っておいたわ。
アーニャ  (考えこんで)六年前にパパが亡くなって、一カ月後に弟のグリーシャが河で溺れたのね。七歳の可愛い坊やだったのに。ママは堪えきれなくて、ここを出ていったんだわ。あとを振りかえりもせずに出て行ったのね……(びくりとふりかえる)ママの気持、よくわかるわ。ママがそれを知ってくれたらね! (間)ベーチャ・トロフィーモフは、グリーシャの家庭教師だったから、思い出を誘うかもしれないわ……
(フィールス登場。背広に白いチョッキ)
フィールス  (コーヒー・ポットのところへ行き、気づかわしげに)奥さまはこちらでコーヒーを召しあがるそうだ……(白手袋をはめる)コーヒーはできたか? (ドゥニャーシャにきびしく)おい! クリームは?
ドゥニャーシャ  あら、大変………(足早に退場)
フィールス  (コーヒー・ポットのわきでせわしそうに立ち働く)えい、この、ドジめ……(ひとりごとをつぶやく)やっとパリからお帰りになられた……旦那さまもいつぞやパリヘ行ってらしたっけ……馬車でね………(笑う)
ワーリャ  フィールス、何を笑ってるの?
フィールス  何でございます? (うれしそうに)奥さまがお帰りになられましたもの! お待ちした甲斐がございました! これでもういつ死んだって………(嬉し泣きする)
(ラネーフスカヤ、ガーヱフ、ピーシチク登場。ピーシチクは薄いラシヤの半外套に、ゆったりしたズボン。ガーエフ、部屋に入りながら、両手と胴で玉を撞くような動作をする)
ラネーフスカヤ  あれ、どうやるんだったかしら? 思いださせて……黄玉はコーナーよね! ワン・クッションで真ん中ヘ!
ガーエフ  薄く当ててコーナーヘだよ!その昔、お前といっしょにまさしくこの部屋で寝たものだったね。しかし、今や、いかにふしぎがろうと、わたしはもう五十一なんだから……
ロバーヒン  そう、時は移りますからね、
ガーエフ  だれを、だって?
ガバーヒン  時は移る、と言ってるんです。
ガーエフ  この部屋は安香水の臭いがするな。
アーニャ  あたし、行って寝るわ。おやすみなさい、ママ。(母に接吻する)
ラネーフスカヤ  可愛い、可愛い子(両手に接吻する〕ママが帰ってきて、嬉しい? わたし、どうしてもまだ調子を取り戻せないわ。
アーニャ  おやすみ、伯父さん。
ガーエフ  (彼女の顏と両手に接吻する)ゆっくりおやすみ。なんてお母さん似なんだろう! (妹に)お前もこの年頃には、ちょうどこんなふうだったよ、リューパ。
(アーニャ、ロパーヒンとピーシチクに手を与えてから、退場し、自室のドアをしめる)
ラネーフスカヤ  あの子、すっかり疲れてしまったのね。
ピーシチク  長道中でしょうからね。
ワーリャ  (ロバーヒンとピーシチクに)なんてことですの、みなさん? もう三時近いんですのよ。そろそろお開きにしてもいいんじゃありませんの。
ラネーフスカヤ  相変わらずね、(ワーリャ、彼女を引き寄せて、接吻する)コーヒーを飲んだら、みんな解散するわ。(フィールス、夫人の足の下にクッションをおく)ありがと、わたし、コーヒーが癖になってしまったのね。昼でも夜中でも飲むのよ。ありがとう、じいや。(フィールスに接吻する)
ワーリャ  荷物を全部運んだかどうか、見てこなければ……(退場)
ラネーフスカヤ  こうして座っているのが、ほんとにわたしなのかしら? (笑う)跳びはねたり、両手を振りまわしたりしたい気持だわ。(両手で顔をおおう)でも、ひょっとして、今、眠っているだけとしたら! ほんとうに、わたしって故郷を愛しているのね、やさしく愛しているんだわ。汽車の窓から眺めていられなくて、ずっと泣いていたのよ。(涙声で)それはそうと、コーヒーを飲まなければね。ありがと、フィールス、ありがとう、じいや。お前がまだ生きててくれて、ほんとに嬉しいわ。
フィールス  おとといでございますよ。
ガーエフ  耳が遠いんだよ。
ロバーヒン  わたしはもうすぐ、今朝の四時すぎにハリコフヘ行かなけりゃならないんです。実に腹立たしいですよ! 奥さまのお顏を少し拝んで、ちょっとお話ししたかったのに……奥さまは相変わらずお美しくいらっしゃる。
ビーシチク  (大儀そうな息をして)いちだんとおきれいになられたほどです……服装もバリ仕込みで……わたしゃもうすっかり降参ですよ……
ロバーヒン  兄上は、こちらのレオニード・アンドレーイチはわたしのことを、賎民だの、成金百姓だのとおっしゃいますけど、そんなことはまるきりどうだっていいんです。勝手におっしゃるがいいんだ。わたしはただ、奥さまが前と同じようにわたしを信じてくださって、そのすばらしい、心を打つ瞳で、前と同じようにわたしをみつめていただければ、と思うだけです。信じてください! うちの親父はこちらのお祖父さまやお父さまの農奴でしたけれど、奥さまは、あなただけはその昔わたしのためにとても多くのことをしてくださった、ですからわたしは、すべてを水に流して、奥さまを肉親のように……いや、肉親以上に大切に思っているんです。
ラネーフスカヤ  わたし、じっと腰を落ちつけていられないわ、とてもだめ……(跳ね起きて、ひどく興奮した様子で歩きまわる)わたし、この喜びに持ちこたえられそうもないわ……笑ってちょうだい、わたしってばかな女ね……なつかしいわたしの戸棚………(戸棚に接吻する)わたしの小さなテーブルさん……
ガーエフ  お前の留守中に、ばあやが死んだよ。
ラネーフスカヤ  (腰をおろして、コーヒーを飲む)ええ、かわいそうにね。手紙で知らせてもらったわ。
ガーエフ  アナスターシイも死んだしね。藪にらみのペトルーシカは暇をとって、今じゃ町の署長さんのとこに奉公してるよ(ポケットから氷砂糖の小箱をとりたして、しゃぶる)
ピーシチク  娘のグーシェニカが……よろしくとのことでございました。
ロパーヒン  何か奥さまにとても嬉しい、楽しいことを言ってあげたい気持ですよ。(時計を見る)もうすぐ出かけますから、ゆっくりお話ししてる暇はありませんが……でも、ごく手短に申しあげます。奥さまも先刻ご承知のように、こちらの桜の園は借金のカタに売られることになっていて、競売も八月二十二日ときまりましたが、どうか心配なさらずに、枕を高くしてお寝みになっていてください。解決策はあるんです……わたしの計画はこうです。よくおききになってください! こちらの領地は町からわずか二十キロのところにあって、すぐわきを鉄道が通るようになりました。ですから、桜の園と河沿いの土地を別荘用地に分割して、別荘地として賃すことになされば、奥さまはごく内輪に見積もっても年に二万五干ルーブルの収入をあげることができるんですよ。
ガーエフ  わるいけど、実に下らんね!
ラネーフスカャ  あなたのお話、あまりよくわかりませんわ、エルモライ・アレクセーイチ。
ロバーヒン  別荘人種から一ヘクタールについて年に最低二十五ルーブルの割で地代をとるんです。もし今すぐ広告なされば、わたしはどんなものででも保証しますが、秋までに一区画の空地も残らずに、みんなさばけますよ。一口にいや、お祝いものですよ、奥さまは救われたんです。地理的に場所は絶好だし、河は深いし。ただ、もちろん、少し取り片づけたり、整地したりすることは必要ですが……たとえば、そう、古い建物はみんな取りこわすんですね。もう何の役にも立たない、この屋敷なんぞもね。そして、古い桜の園を伐り払うんです……
ラネーフスカヤ  伐り払うですって? まあ、わるいけれど、あなたは何もわかっていないのね。この県じゅう見渡して何かしら興味のある、というより、むしろすばらしいものがあるとしたら、うちの桜の園だけじゃありませんか。
ロパーヒン  この果樹園にすばらしい点があるとしたら、べらぼうに広いってことだけですよ。桜んぼがとれるのは二年に一度だし、それだって、やり場がないでしょうに。だれも買っちゃくれませんからね、
ガーエフ  百科事典にだって、この果樹園のことは出ているんだよ。
ロパーヒン  (時計をのぞいて)かりに何の妙案もうかばず、何の結論も出ないとしたら、八月二十二日には桜の園も、領地全体も、競売で売られてしまうんですよ。決心なさることです! ほかの解決法はありませλよ、本当です。ほかに手はないんです。
フィールス  昔は、四、五十年前には、桜んぼを干して、水に漬けたり、酢漬けにしたり。ジャムに煮たりしたものでしたよ。それに、よく‥‥
ガーエフ  黙ってろ、フィールス……
フィールス  それによく、干した桜んぼを何台もの荷車でモスクワやハリコフに送りだしたもんでした。たいした金になりましたよ! それに、干した桜んぼもあの頃は柔らかくて、水気があって、甘くて、いい香りがしたもんです……あの頃は作り方を知ってましたからね。
ラネーフスカヤ  それじゃ今、その作り方はどうしたの?
フィールス  忘れちまったんでさ。だれもおぼえてやしません。
ピーシチク  (ラネーフスカヤに)パリではいかがでした? どうです? 蛙を召しあがりましたか?
ラネーフスカヤ  ワニを食べたわ。
ピーシチタ  まさか、そんな……
ロパーヒン  今まで田舎にいるのは地主と百姓だけでしたけれど、今や別荘人種なるものが現われたんです。ごく小さな都会でさえすべて、今や周辺は別荘地ですからね。そして、あと二十年もしたら、別荘人種は異常なほど増えると言っていいでしょう。今のところ、別荘人種はバルコニーでお茶を飲んでいるだけですけれど、そのうち一ヘクタールの自分の土地で農業にとりくむなんてことになるかもしれません。そうなればお宅の桜の園は、幸せな、裕福な、豪華なものになるでしょうよ……
ガーエフ  (憤慨して)実に下らん!
(ワーリャとヤーシャ登場)
リーリャ  お母さま、電報が二通来てるわ。(鍵を選びだし、古いめかしい本棚をガチャガチャと開ける)はい、これ。
ラネーフスカヤ こっちはパリからね、(読まずに電報を破り捨てる)パリはもうおしまい……
ガーエフ  ねえ、リューバ、この本棚が何歳だが、知ってるかい? 一週間前、下の引出しを抜いて見たら、焼印で年号が記してあるじゃないか。この本棚が作られたのは、きっかり百年前だとさ。どうだい? え? 百年祭を祝ってもいいようなもんだ。いかに命のないものとはいえ、とにかくやはり本棚には違いないんだからね。
ピーシチク  (びっくりして)百年ですって……まさか、そんな!
ガーエフ  うん……それは、ちょっとしたもんだよ……(本椰に手をふれて)尊敬すべき、親愛なる本棚よ! すでに百年の余にわたって善と正義の明るい理想に向けられてきた君の存在を、心から歓迎する。実り多き仕事への君の暗黙のよびかけは、百年の間いささかも弱まることなく、(涙声で)われわれ幾世代もの内に勇気と、よりよい未来への信頼を保ちつづけさせ、善と社会的自覚との理想をわれわれの心にはぐくんできてくれた。(間)
ロパーヒン  そう……
ラネーフスカヤ  相変わらずね、レーニャ
ガーエフ  (いくらか照れて)押し気味に当てて右のコーナーへ! 薄く当てて真ん中へ!
ロパーヒン  (時計をちらと見て)さ、もう行かなけりゃ。
ヤーシャ  (ラネーフスカヤに薬をさしだす)なんでしたら、今すぐお薬を召しあがりますか……
ピーシチク 薬品なんぞ飲んじゃいけませんよ、奥さん、……毒にも薬にもなりゃしないんだから……こっちへおよこしなさい……奥さん。(薬を取り、掌にあけて、息を吹きかけ、口に放りこんで、クワスで飲んでしまう)ほら!
ラネーフスカヤ  (おびえたように)あなた、気でも違ったんですの?
ピーシチク  一粒残らず飲んじゃいました。
ロバーヒン  なんて意地汚いんだ! (一同笑う)
フィールス  こちらさんは復活祭の時、うちに見えて、胡瓜を樽半分も召し上がりましたよ‥‥(ぶつぶつ呟く)
ラネーフスカヤ  何を言ってるのかしら、じいやは?
ワーリャ  もう三年もこんなふうに、ぶつぶつ呟いているのよ。あたしたち、憤れちゃったけど。
ヤーシャ  老衰ですよ。
 (シャルロッタ、ひどく痩せた身体をぴったりした白いドレスで包み、柄付き眼鏡をベルトにはさんで、舞合を通りすぎようとする)
ロパーヒン これは失礼、シャルロッタ・イワーノヴナ、まだご挨拶の間がなくて。(彼女の手に接吻しようとする)
シャルロッタ  (手を引っ込めながら)手にキスさせると、あなたはその次は肘、それから肩とお望みになるでしょうからね……
ロパーヒン  今日はツイてないよ。(一同笑う)手品を見せてくださいよ、シャルロッタ・イワーノヴナ!
ラネーフスカヤ  シャルロッタ、手品を見せて!
シャルロッタ  だめです。わたし、眠いんです。(退場)
ロパーヒン  三週間後にまたお会いしましょう。(ラネーフスカヤの手に接吻する)今日のところは、これで失礼します。いずれまた。(ガーエフに)さようなら。(ビーシチクと接吻を交す)さようなら。(ワーリャと握手、それからフィールスやヤーシャにも手を与える)行きたくないな。(リフネーフスカヤに)別荘の件を十分お考えになって、決心がおつきになったら、連絡してください。五万ルーブルくらいは借りてさしあげます。真剣にお考えになってください。
ワーリヤ  (腹立たしげに)さあ、お帰りになったら、いいかげんに!
ロパーヒン  帰ります、帰りますよ………(退場)
ガーエフ  賤民め。もっとも、これは失礼……ワーリヤはあの男と結婚するんだったね、あれはワーリヤの彼氏だっけね。
ワーリヤ  余計なこと、言わないでよ、伯父さん。
ラネーフスカヤ  あら、どうして、ワーリャ、そうなれば、わたしとても嬉しいわ。彼、いい人だもの。
ピーシチク  本当のことを言って、人間は……実に立派です……うちのダーシェニカなども……言ってますよ……いろんなことを言ってます、(いびきをかくが、すぐに目をさます)しかし、やはり、奥さん、わたしに貸してくださいませんか……二百四十ルーブルほど……明日、担保証書の利息を払わなければならないもんで……
ワーリャ  (ぎょっとして)だめ、だめですよ!
ラネーフスカヤ  わたし、ほんとに何一つないのよ。
ピーシチク  出てくるもんですよ。(笑う)わたしは決して希望を失わないんです。現に、もう万事休すだ、一巻の終りだと思っていたら、わたしの土地を鉄道が通ることになって……金を払ってもらいましたしね。今日でなけりゃ、明日、きっとまた何かしら起こりますよ……ダーシェニカが二十万ルーブル当ててくれるでしょう……宝くじを持ってるんです。
ラネーフスカヤ  コーヒーを飲んだから、もう寝んでもいいわね。
フィ-ルス  (ガーエフの服にブラシをかけながら、説教口調で)また、ズボンを間違えましたね。仕方のないお人だ。
ワーリャ  (小さな声で)アーニャは眠っているわ。(静かに窓を開ける)もう日が昇ったのね、寒くないわ。見てごらんなさい、お母さま。なんてすばらしい木立かしら! 素敵ね、この空気! 椋鳥がうたっているわ!
ガーエフ  (別の窓を開ける)庭いちめん真っ白だね。リューバ、忘れずにいたかい? ほら、この長い並木道は、まるで皮ひもをぴんとはったみたいに、どこまでもまっすぐつづいていて、月夜にはきらきらかがやくんだ。おぼえているかい? 忘れずにいたかね?
ラネーフスカヤ  (窓から庭を眺める)ああ、わたしの少女時代、純真だったあの頃! この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものだったわ。毎朝わたしといっしょに、幸せが目をさましたものよ。あの頃も、この庭はそっくりこんなふうだったし、何ひとつ変っていないわ。(うれしさのあまり笑う)いちめん、真っ白ね! ああ、わたしの庭! 暗いどんよりした秋と、寒い冬のあとで、お前はまだ若々しく、幸せいっぱいなのね。天使たちはお前を見棄てなかったんだわ……この胸や肩から重い石を取りのけることかできたらね。過去を忘れ去ることができたらね!
ガーエフ  そう、どんなにふしぎな気がしようと、この庭も借金のカタに売られてしまうんだ……
ラネーフスカヤ  見てごらんなさい、亡くなったお母さまが庭を歩いてらっしゃるわ……白いドレスを着て! (嬉しさのあまり笑う)お母さまよ、あれ。
ガーエフ  どこに?
ワーリャ  大丈夫、お母さま。
ラネーフスカヤ  だれもいないわ、気のせいね。右手の、あずまやへの曲がり角で、白い木が傾いたのが、女の人に似ていたんだわ……
(トロフィーモフ、くたびれた学生服に、眼鏡をかけて登場)
ラネーソスカヤ  なんてすばらしい庭かしら! 庭いっぱいの白い花に、青い空……
卜ロフィーモフ  リュボーフィ、アンドレーエヴナ! (彼女はふりかえって彼を見る)ご挨拶だけして、すぐに失礼します。(熱っぽく手に接吻する)朝まで待つように言われたんですが、待ちきれなかったもんで……
(ラネーフスカヤ、けげんそうに見つめる)
ワーリャ  (涙声で)ペーチャ・トロフィーモフよ……
トロフィーモフ  ベーチャ・トロフィーモフですよ、もとグリーシャの家庭教師をしていた……僕、そんなに変わりましたか?
(ラネーフスカヤ、彼を抱き、低い声で泣く)
ガーエフ  (どぎまぎして)もういい、もういいよ、リューバ。
ワーリャ  (泣く)だから、明日まで待つように言ったじゃないの、ペーチャ。
ラネーフスカヤ  グリーシャ……わたしの坊や……グリーシャ……坊や……
ワーリヤ  仕方がないわ、お母さま、神さまの御心ですもの。
トロフィーモフ  (涙声で、やさしく)もういいでしょう、もういいですよ……
ラネーフスカヤ  (静かに泣く)坊やは死んだのね、おぼれたのね……何のために? どうしてなの、ねえ? (声を低めて)あそこでアーニャが眠っているというのに。わたしったら大きな声で話して……騒々しくしたりして……どうしたの、ペーチャ? どうしてそんなにみっともなくなってしまったの? どうして、すっかり老けこんでしまったの?
トロフィーモフ  汽車の中で百姓のおかみさんにそう言われましたよ、禿の旦那、だなんて。
ラネーフスカヤ  あなたはあの頃まるきりの坊やで、可愛い学生さんだったのに、今じゃ髪もあまりないし、眼鏡をかけたりして。ほんとに今でも大学生なの? (ドアの方に行く)
トロフィーモフ  きっと僕は永遠の学生でしょうよ。
ラネーフスカヤ  (兄に、それからワーリャに接吻する〕さ、行ってお寝みなさいな……兄さんも老けたわ、レオニード。
ピーシチク  (彼女のあとにつづく)つまり、これからひと眠りってわけですね。ああ、痛風がね。わたしは泊めでいただきますよ……わたしはその、リュポーフィ・アンドレーエヴナ、明日の朝……二百四十ルーブルないと……
ガーエフ  あの男は自分のことばかり言ってやがる。
ビーシチク  二百四十ルーブルなんです……担保証書の利息を払いませんとね。
ラネーフスカヤ  お金なんかないのよ。
ビーシチク  返しますよ、奥さん……どうってことない金額でしょうに……
ラネーフスカヤ  え、いいわ、レオニードが貸してくれるでしょ……貸してあげて、レオニード。
ガーエフ  当てにしてもむだだよ。
ラネーフスカヤ  仕方がないわよ、貸してあげて……この人はお金が要るんだし……返してくれるわ。
(ラネーフスカヤ、トロフィーモフ、ピーシチク、フィールス退場。ガーエフとワーリャ、ヤーシャ、あとに残る)
ガーエフ  妹のやつ、まだ金づかいの荒い癖がぬけてないな。(ヤーシャに)離れててくれ、お前はニワトリみたいな臭いがするんでな。
ヤーシャ  (冷笑をうかぺて)あなたは前とちっとも変わりませんね、レオ
ード・アンドレーイ
ガーエフ  だれをだと? (ワーリャに)この男は何て言ったんだね?
ワーリヤ  (ヤーシャに)お前の母さんが田舎から出てきて、昨日から下男部屋で待っているわよ、ちょっと会いたいって……
ヤーシャ  消え失せりゃいいのに!
ワーリャ  まあ、恥知らずな!
ヤーシャ  ありがた迷悪な話だ。明日来たってよさそうなもんなのに。〔退場〕
ワーリャ  お毋さまは前と同じで、ちっとも変わっていないわね。お毋さまの好きにさせといたら、みんなに分け与えてしまうわ。
ガーエフ  そうだね……(間』)かりに何かの病気に対して、あれこれとたくさん治療法がすすめられるとしたら、つまり、それは不治の病ってことなんだよ。わたしが脳味噌をふりしぼって、考えていると、いろいろな方法がうかんでくるのさ、実にたくさんね。ということは、つまり、実際には、一つもないってわけなんだ。だれかから遺産がころげこむなり、アーニャをすごく金持の男に嫁にやるなりすればいいだろうがね。ヤロスラーヴリヘ行って、伯爵夫人の伯母さんに運だめしをしてみるのもいいだろうしさ。なにしろ伯母さんは、そりゃすごい金持なんだから。
ワーリャ  (泣く)神さまが力を貸してくださればね。
ガーエフ  泣くなって。伯母さんはとても金持だけど、わたしたちを好きじゃないからな。第一、妹のやつが、貴族でもない弁護士風情と結婚したもんでね……
(アーニャ、戸口に姿を現わす)
ガーエフ  貴族でもない男と結婚した上、身持だって、きわめて貞淑とは言えないしさ。気立てのいい、立派な、愛すべき女性だし、わたしは大好きだけれど、いかに情状酌量したとろで、やはり、背徳的な女であることは認めにゃならんよ、ちょっとしたしぐさ一つにも、それが感じられるからな。
ワーリャ  (声ひそめて)戸口にアーニャがいるわ。
ガーエフ  だれをだって? (間)ふしぎだな、右の目に何か入って……よく見えなくなった。それから木曜日に、わたしが地方裁判所に行ったら……
(アーニャ、入ってくる)
ワーリャ  どうして眠らないの、アーニャ?
アーニャ  眠れないのよ。だめなの。
ガーエフ  おちびさん、(アーニャの顔や両手に接吻する)可愛い子だ。‥‥(涙声で)お前は姪じゃない。わたしの天使だよ。わたしにとって、お前はすべてなんだ。信じてくれ、信じて……
アーニャ  信じるわ、伯父さん。伯父さんはみんなに好かれてるし、尊敬されているわ……だけど、伯父さん、伯父さんは口を閉じていなければいけないわ、沈黙あるのみよ。今だって、ママのことを、ご自分の妹のことを、何ておっしゃってたの? 何のためにあんなことをおっしゃったの?
ガーエフ そう、そうだね……(彼女の手で自分の顏をおおう)実際、ひどい話さ! なんてこった! ああ、厭になるな! さっきも本棚の前で演説したりして……実に愚劣だ! 話し終わってからやっと、愚劣だってことをさとった始末さ。
ワーリヤ  ほんとよ、伯父さん、黙っていなければいけないわ。黙っていれば、それですむんですもの。
アーニャ  黙っていれば、伯父さん自身だって気持が楽になってよ。
ガーエフ  黙るよ。(アーニャとワーリャの手に接吻する)黙るとも。ただ、今度は用事の話だ。木曜に地方裁判所に行ったらね。仲間が顔をそろえちまって、あれやこれや、 いろいろな話がはじまったのさ。そしたら、銀行の利息を払うのに、手形で金を借りられるみたいなんだよ。
ワーリヤ  そうなってくれたらね!
ガーエフ  火曜日に行って、もう一度話してみるよ。(ワ-リャに)泣くんじゃないよ。(アーニャに)ママはロパーヒンと話をするだろうしさ。あの男は、もちろん、断わるもんか……だからお前も、一休みしたら。ヤロスラーラヴリの伯爵夫人のところへ行っておくれよ、お前のお祖母さん同然の人だからね。こうやって三方から動けば成功まちがいなしさ。利息は払えるとも。自信があるんだ。………(氷砂糖を口に入れる)わたしの名誉にでも、何にでもかけて誓うよ、領地は売られやしないさ! (興奮して)わたしの幸福にかけて誓う! ほら、この通り約束する、もしわたしがずるずると競売に持ちこんだりしたら、その畤こそこのわたしを、能なしとでも、恥知らずとでも呼んでおくれ! わたしの全存在にかけて誓う!
アーニャ  (落ちついた気分が戻ってくる、幸福そうな様子)なんていい人なのかしら、伯父さんて、とっても頭がいいのね! (伯父を抱く)これで安心だわ! もう安心ね! あたし、幸せだわ!
(フィールス登場)
フィールス  非難するように、レオニード・アンドレーイチ、神さまを恐れなさいまし! いつになったら、お寝みになるんです?
ガーエフ  今ねるよ。今すぐに、もう下がっていい、フィ-ルス。いいだろう、わたしは一人で着替えるから。じゃ、嬢ちゃんたち、バイバイ……くわしい話は明日ね、今は行って寝なさい。(アーニャとワーリャに接吻する)わたしは八〇年代の人間だからね……あの時代をよく言う者はいないけれど、でもやはり、わたしだって信念のために、人生で少なからず苦労してきたと言えるんだよ。わたしが百姓に好かれるのは、それなりの理由があるからさ。百姓を知らなけりゃいかん! 知らなけりゃだめさ、そもそもいかなる理由で……
アーニャ  また始めた、伯父さん!
ワーリヤ  やめなさいよ。伯父さん。
フィールス  (腹立たしげに)レオニード・アンドレーイチ! ガーエフ、  行くよ、行くよ……二人とも寝なさいよ。トウ・クッションで真ん中へ、か! 白玉をおいて……
(退場。そのあとからフィールス、ちょこまかと足を運ぶ‥)
アーニャ  これで安心したわ。ヤロスラーヴリヘは行きたくないの、あたし、あのおばあさま嫌いなんだもの。でも、とにかく安心したわ。ありがと、伯父さん(腰かける)
ワーリャ  寝なければね。あたし、行くわ。ここでは、あんたの留守中にけしからないことがあったのよ。あんたも知ってるように、古い方の下男部屋には、エフィーミュシカだの、ボーリヤだの、エフスチーグネイだの、それからカルブだのって、古顔の召使ばかり寝起きしてるでしょう。あの連中がなにやらいかがわしい男たちを泊めてやるようになったのよ。あたしは黙っていてやったの。ただね、小耳にはさんだんだけど、あの連中ったら、まるであたしが、エンドウ豆しか食べさせちゃいけないって言ったみたいな噂を流したのよ。けちだから、ですって……それがすべてエフスチーグネイのしわざでね……あたし、思ったわ。いいわ、それならおぼえてらっしゃいって‥‥エフスチーグネイを呼びつけてやったわ‥‥(あくびをする)やってきたから………エフスチーグネイ、お前はなんてばか者なのって言ってやったらね……(アーニャを見て)アーニチカー(間)眠っちゃった……(アーニャの腕をとる)べッドへ行きましょう………さ、行くのよ! (彼女を連れてゆく)可愛い子が寝入ったわ! 行きましょう……(二人、歩く)
(遠く果樹園の向うで、牧夫が葦笛を吹いている。トロフィーモフ、舞台を横切ろうとし、ワーリャとアーニャを見て、立ちどまる)
ワーリャ  しィ……寝てるのよ……眠ってるの……さ、行きましょう。
アーニャ  (夢うつつに、低い声で)疲れたわ、とっても……今でも馬車の鈴の音がきこえるの……伯父さん、いい人ね、ママも伯父さんも……
ワーリヤ  行きましょう、ね、行きましょうね……(アーニャの部屋に退場)
トロフィーモフ  (感動)僕の太陽! 僕の青春。
                                       


原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳もいまや読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。 




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